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42歳のすみかは庭になりました  作者:
第1部 第7章「家族のレガシー」

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68/80

42歳、高橋部長の突然の訪問

 春の気配が色濃くなり始めた、週末の土曜日。


 空は突き抜けるように青く、時折吹き抜ける風には、若葉の匂いと、どこかの家で干されている洗濯物の石鹸の香りが混じっていた。


 しかし、陽介の視界にあるのは、そんな牧歌的な風景ではなかった。


 彼の目の前にあるのは、無機質で、重く、冷たい「物質」の塊だ。耐火レンガ、セメント、砂、そして水。


 それらが混ざり合い、化学反応を起こして固まろうとする、灰色の粘り気のある泥――モルタル。


「……よし、いい粘度だ」


 陽介は、トロ船と呼ばれるプラスチックの容器の中で、シャベルを使ってモルタルを練り上げていた。


 ザクッ、ザクッ、という砂利の混じる音が、静かな庭にリズムを刻む。


 額からは大粒の汗が噴き出し、頬を伝って顎から滴り落ちる。Tシャツの背中はすでに汗で濡れそぼり、季節外れの暑さを感じていたが、その不快感すらも、今の彼には心地よい「生きている証」のように感じられた。


 今日は、家族との共同プロジェクトである「ピザ窯作り」の、最も地味で、かつ最も重要な工程――基礎工事の日だった。


(この土台が命だ。ここが少しでも歪めば、積み上げるレンガは全て傾き、窯は崩壊する。仕事と同じだ。いや、仕事以上にかもしれない)


 陽介は、左官ごてを手に取り、練り上がったモルタルをすくい上げた。


 ずしりとした重みが手首にかかる。


 それを、慎重に並べたコンクリートブロックの上に置き、均していく。


 春先の霜柱が地面を持ち上げる力は侮れない。地盤の安定化を図るため、彼は翔のアドバイスに従い、砕石を敷き詰め、転圧し、鉄筋を入れた本格的な基礎を組んでいた。


 それはもはや、日曜大工の域を超え、小さな建築現場の様相を呈していた。


 陽介の意識は、コテの先、数ミリの世界に集中していた。


 水平器の気泡が、二本の赤い線のちょうど真ん中に収まる瞬間。


 その一点を目指して、指先の力加減を微調整する。


 会社での陽介は、膨大なデータを処理し、論理的な整合性を保ち、人間関係の摩擦を調整する「調整者」だった。そこでは、物理的な手応えは何もない。クリック一つで数億円が動くかもしれないが、その実感は希薄だ。


 しかし、今は違う。ここにあるのは、圧倒的な「質量」だ。


 レンガの一つ一つに重さがあり、モルタルは時間とともに硬化していく。


 自分の手で積み上げたものが、そのまま形として残り、家族の未来を支える土台となる。


 この「物理的な真剣勝負」が、陽介の疲弊した精神の奥底にある、原始的な喜びを呼び覚ましていた。


 ふと、陽介は手を止め、腰を伸ばした。背骨がパキリと音を立てる。


 汚れた軍手で額の汗を拭うと、視界の端に、手入れの行き届いた芝生の緑と、咲が飾ったハーブ棚の色彩が飛び込んできた。


(悪くない……いや、最高だ)


 誰に強制されたわけでもない。

 納期があるわけでもない。

 ただ、家族の笑顔と、美味しいピザのために、泥にまみれる。


 この非効率で愛おしい時間こそが、今の陽介を支える「芯」となっていた。


 彼は再びしゃがみ込み、次のレンガを手に取った。

 その時だった。


「……佐藤? ……おい、佐藤か?」


 庭の静寂を切り裂くように、低い、聞き覚えのある声が響いた。


 それは、鳥のさえずりや風の音とは異質の、緊張を強いる周波数の声だった。



---



 陽介の手が止まり、コテから、ボタリとモルタルが落ちた。


 幻聴かと思った。


 まさか、この場所で、その声を聞くはずがない。ここは彼の聖域であり、会社の論理が届かない「結界」の内側のはずだからだ。


 恐る恐る、陽介は顔を上げた。

 声のした方角――庭を囲む低いウッドフェンスの向こう側、道路に面した場所に、その人物は立っていた。


 そこにいたのは、高橋直子だった。

 しかし、その姿は、陽介の脳内にインプットされている「高橋部長」のイメージとは、あまりにもかけ離れていた。


 完璧にプレスされたダークグレーのスーツ。

 隙のないネクタイ。

 冷徹な光を放つ眼鏡。


 それらの記号は、今はどこにもない。


 目の前にいる高橋は、目が痛くなるような蛍光イエローのランニングウェアに身を包んでいた。


 最新鋭のスポーツサングラスを頭に乗せ、額には汗が光っている。手首には高機能なスマートウォッチ。


 それは、休日の公園で見かける「意識の高いランナー」そのものだったが、その顔だけは、間違いなく、あの効率至上主義の権化、高橋部長だった。


「た、高橋……部長……!?」


 陽介の声が裏返った。

 反射的に、泥だらけの軍手を背中に隠そうとしたが、全身が作業着で、足元は長靴だ。隠しようがない。


(な、なぜここに……!?)


 心臓が早鐘を打つ。

 ここは会社から離れた郊外の住宅地だ。高橋の生活圏とは重ならないはずだった。


 高橋は、フェンスに手をかけ、肩で息をしながら、信じられないものを見るような目で陽介を凝視していた。


 その視線は、陽介の顔、泥だらけの服、そして庭の中央に鎮座する、作りかけのレンガの塊へと、忙しなく移動した。


「いや……私は、週末はいつも長距離のジョギングをしていてね。今日は少し足を伸ばして、この辺りの大きな公園まで来てみたんだが……」


 高橋は、呼吸を整えながら、まだ困惑の色を隠せないまま続けた。


「偶然、見覚えのある表札と、君の車を見かけたものでね。まさかとは思ったが……」


 高橋の言葉が途切れた。

 彼女は、言葉を失っていたのだ。


 彼女の知る佐藤陽介という人間は、会社では常にパリッとしたシャツを着て、冷静にデータを分析し、効率的な提案をする優秀な部下だ。


 その佐藤が、今、休日の昼下がりに、泥と汗にまみれ、まるで土木作業員のような格好で、自宅の庭にしゃがみ込んでいる。


 そして何より、高橋を驚愕させたのは、その庭の光景そのものだった。


 きれいに刈り揃えられた芝生。

 センスよく配置されたハーブの棚。

 使い込まれた焚き火台。

 そして、今まさに建設中の、謎のレンガ構造物。


 そこには、高橋が想像もしなかった、緻密で、しかしどこか野性味のある、「豊かな生活の空間」が広がっていた。


 それは、高橋の住む、無駄なものが一切ない、モデルルームのように生活感の希薄なタワーマンションの部屋とは、対極にある世界だった。


「佐藤……これは、一体、何だ? この大量のレンガは」


 高橋の声には、叱責の響きはなく、純粋な「理解不能」という響きがあった。

 彼女は、フェンス越しに身を乗り出した。


「まさか、君の家で……何かトラブルでもあって、工事業者を呼んでいるのか? いや、君自身がやっているのか?」



---



 陽介は、深呼吸を一つした。

 肺に、乾きかけたモルタルの粉っぽい匂いと、庭のハーブの香りが吸い込まれる。その空気が、彼に落ち着きを取り戻させた。


(動揺するな。ここは会社じゃない。俺の庭だ。俺がルールを決める場所だ)


 陽介は、背筋を伸ばして立ち上がった。


 泥のついた軍手も、汗ばんだTシャツも、恥ずべきものではない。これは、彼の勲章だ。


「ご無沙汰しております、部長」


 陽介は、穏やかな声で答えた。


「これは、トラブルではありません。ピザ窯です」

「ピザ……窯?」


 高橋が、サングラス越しに目を丸くした。その単語は、彼女の辞書の中で「最も遠い場所」にある言葉の一つだっただろう。


「はい。自作しています。家族みんなで使うために、耐火レンガを積んで、本格的なものを作ろうと思いまして」


 陽介は、作りかけの土台を愛おしげに見た。

 水平器と、積み上げられたレンガ。それは、まだ不格好な塊だったが、陽介にとっては夢の結晶だった。


 高橋は、眉間に深い皺を寄せた。彼女の脳内で、瞬時に計算が行われているのがわかった。


 レンガ代、セメント代、道具代。そして何より、この作業にかかる膨大な時間と労力。

 それに対するリターンは? たかが、ピザを焼くためだけに?


「自作……だと?」


 高橋の声に、いつもの鋭さが戻ってきた。


「なぜだ。なぜ、既製品を買わない? 君の給与水準であれば、高性能なオーブンや、あるいは完成品のピザ窯キットを購入することなど造作もないはずだ」


 高橋は、フェンスを握りしめ、陽介に迫るように言った。


「時は金なりだ、佐藤。こんな重労働に貴重な週末を費やすより、金で解決して、浮いた時間を自己研鑽や休息に充てる方が、遥かに『効率的』だろう?」


 それは、高橋直子という人間の人生哲学そのものだった。

 無駄を削ぎ落とし、最短距離で結果を出す。プロセスは省略可能であり、結果のみが価値を持つ。


 彼女にとって、陽介の行動は、理解不能な「資源の浪費」に他ならなかった。


 陽介は、高橋の言葉を聞きながら、不思議と懐かしささえ感じていた。かつての自分も、全く同じことを考えていただろうからだ。


 なんでわざわざ?

 買ったほうが早い

 疲れるだけだ


 だが、今の陽介には、その論理に対する明確な「答え」があった。


 陽介は、モルタルで汚れた軍手を一度外し、ズボンで手を拭うと、再びしっかりと軍手をはめ直した。その動作は、儀式のように丁寧だった。


 そして、高橋の目を真っ直ぐに見つめ、静かな微笑みを浮かべて答えた。


「効率だけでは、手に入らないものがあるからです、高橋部長」


「……何だと?」


「部長のおっしゃる通り、お店でピザを買うか、高性能なオーブンを買えば、もっと早く、もっと楽に、美味しいピザが食べられるかもしれません。それは間違いありません」


 陽介は、積みかけのレンガに手を置いた。ひんやりとした感触が伝わってくる。


「ですが、この窯のレンガ一つ一つには、違う価値が含まれているんです。設計段階で交わした家族との会話。翔が計算してくれた構造の強度。咲が選んでくれたタイルの色。そして、私が流すこの汗と時間」


 陽介は、言葉を選びながら、しかし確信を持って続けた。


「これらは全て、『見えないスパイス』なんです。この窯で焼くピザは、単なる食事ではありません。完成した瞬間の達成感、家族で火を囲む時間、そして『自分たちで作った』という誇り。

 それらが合わさって、既製品の何倍も美味しく、そして『家族の絆という名の最高の成果』を生み出します」


 陽介は、かつて高橋に「家族の絆は最高の効率だ」と反論した時のことを思い出していた。あの時は言葉だけだったが、今は、このレンガの重みという「実体」が、彼の言葉を支えていた。


「その価値は、金額や時間という単純な尺度では、どうしても測れないんです。だから私は、あえてこの『非効率』を選んでいます」



---



 高橋は、陽介の言葉を聞き終えても、すぐには反応しなかった。


 彼女は、口を半開きにしたまま、陽介の顔と、ピザ窯の土台を交互に見ていた。


 反論しようと思えば、いくらでもできたはずだ。「それは自己満足だ」「感情論だ」と。

 しかし、高橋は言葉を飲み込んだ。


 なぜなら、目の前にいる陽介の表情が、あまりにも「強かった」からだ。


 会社での陽介は、優秀だが、どこか疲れていて、常に正解を探しているような顔をしていた。


 しかし、今の陽介はどうだ。

 泥だらけで、髪はボサボサ。社会的地位を示すスーツという鎧を脱ぎ捨てている。


 それなのに、今の彼の方が、はるかに「主体的」で、「満ち足りて」見えた。


 自分の人生を、自分でコントロールしている人間の顔。

 それが、高橋には眩しく見えた。


 高橋は、ふと自分の手を見た。

 スマートウォッチが、心拍数と消費カロリー、走行距離を正確に表示している。


 彼女は、休日でさえも、自分の体を「管理」し、数値を「達成」することに追われていたのではないか?

 効率的に健康を維持し、効率的にリフレッシュする。そのサイクルの果てに、何が残るのだろうか?


 目の前のレンガの塊は、歪で、未完成で、非効率の極みだ。

 だが、そこには確かな「熱」があった。


「そうか……。家族全員で、か」


 高橋の声から、刺々しさが消えていた。代わりに、乾いた砂のような、寂寥感が混じっていた。


 彼女は独り身だ。効率を追求しすぎた結果、家庭という「非効率な共同体」を維持できなかった過去が、胸をよぎる。


「しかし、これは、かなりの重労働だろう。設計も、施工も。君が一人でやっているのか?」


「基本は私ですが、構造計算は息子が、デザインは娘が担当しています。妻は、現場監督兼、補給係です」


 陽介は笑って答えた。


「それに何より、この作業自体が、私にとって最高の『脳の休息』であり、未来への『投資』なんです。無心で手を動かしていると、仕事の悩みなんて、ちっぽけに思えてきますから」


 陽介は、足元のモルタルを練るためのシャベルを、高橋に少し見せるように持ち上げた。


 それは、ゴルフのクラブや、高級な万年筆よりも、今の陽介にとっては価値のある「相棒」だった。


 高橋は、ため息をつくように息を吐き出した。そして、ジョギングシューズのつま先で、地面をトントンと叩いた。


「……君の言うことは、正直、私の理屈では理解しかねる部分が多い」


 高橋は、あくまで自分のスタンスを崩さなかった。しかし、その目は、陽介の積んだレンガのラインに釘付けになっていた。


「だが……そのレンガの積み方は、非常に綺麗だ。水平が完璧に取れているように見える。目地の幅も均一だ」


 それは、几帳面で完璧主義な高橋ならではの、最大の賛辞だった。


「ありがとうございます。道具の手入れと、基礎の水平出しには、自信がありますから」


 陽介は、照れくさそうに、しかし誇らしげに微笑んだ。


「ふん。……仕事でも、それくらい緻密ならいいんだがな」


 高橋は、憎まれ口を叩いたが、口元はわずかに緩んでいた。


 この予期せぬ遭遇は、高橋の中で、何かが音を立てて崩れるきっかけとなった。


 「部下のプライベート」という、取るに足らない情報だと思っていたものが、実は彼女自身の人生観を揺るがすほどの「重み」を持って迫ってきたのだ。


 陽介という人間は、単なる「会社という機能の一部」ではなかった。


 彼は、自分の手で価値を創造し、泥にまみれながらも、家族という城を守り、育てる一人の「男」だった。


 高橋の心の中に、陽介のこの「非効率な活動」への、抑えがたい好奇心と、認めたくないほどの憧れが芽生え始めていた。


「あまり無理をするなよ、佐藤。月曜日に腰を痛めて休むなんてことになったら、それこそ非効率だ」


 高橋はそう言い残し、再び走り出そうとした。だが、数歩進んだところで、彼女は立ち止まり、振り返った。


「……だが、完成したら、どんなピザが焼けるのか。一度、見てみたいものだ」


 それは、高橋が初めて示した、陽介の個人的な領域への「肯定的な関心」だった。


「はい! ぜひ! 最高のマルゲリータを焼いてお待ちします!」


 陽介は、大きな声で答えた。

 高橋は、背中を向けたまま軽く手を上げ、再びジョギングのリズムに戻っていった。その背中は、来た時よりも少しだけ丸く、しかし、どこか人間臭さを帯びているように見えた。


 陽介は、高橋の姿が見えなくなるまで見送った後、全身の力が抜けるのを感じた。


 心臓はまだ高鳴っていたが、それは恐怖ではなく、大きな壁を乗り越えた達成感によるものだった。


(高橋部長に、俺の「余白」を完全に見られてしまった。一番見られたくない姿だったかもしれない)


 だが、不思議と恥ずかしさはなかった。むしろ、清々しい解放感があった。


(もう、隠す必要はない。俺の人生は、会社の評価や効率だけでは決まらない。俺の価値は、この庭と、家族と作り上げるこのピザ窯で測られるんだ)


 陽介は、再びコテを握りしめた。

 モルタルをすくう手に、これまで以上の力がこもる。


 このピザ窯は、単に家族の夢を焼くだけではない。陽介自身の「アイデンティティ」を焼き固め、そして、頑固な上司の心さえも溶かすかもしれない、重要な存在となりつつあった。


 陽介は、次のレンガを慎重に置いた。

 その一挙手一投足に、迷いはもうなかった。

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