42歳、妻との共有
陽介が、百均ランタンの小さな光の中で、缶チューハイを飲みながら静寂に浸っていると、背後のキッチンから、わずかな気配が伝わってきた。美和が、食後の食器の片付けと、明日の朝食の準備を終えたところだろう。
彼女は、いつも陽介の行動を「見守る」が、「干渉しない」という距離感を保っている。陽介もそれを理解しているからこそ、安心して庭にいることができた。
カチャリ、と、グラスが棚に戻される音がした。そして、美和がリビングの電気を落とし、キッチン側の小さなダウンライトだけを残した。彼女が、陽介がいる庭の方へ向かう気配を感じる。
美和は勝手口の窓越しに、ランタンの光に照らされた陽介の姿を捉えた。その横顔は、まぶしいリビングの蛍光灯の下で見る、疲れて強張った表情とは違い、穏やかで、少しだけ柔和に見えた。
)まるで、数年前の、趣味に熱中していた頃の彼を思い出させるような表情だった。
美和は、そっと勝手口のドアを少しだけ開けた。外の冷たい空気が、キッチンに入り込む。
「陽介さん」
彼女の声は、普段より少しだけ優しいトーンだった。
陽介は、ランタンの光から目を離し、妻の方を向いた。
「なに?」
彼は、妻から「もう遅いから中に入りなさい」とか、「近所迷惑よ」といった現実的な注意が来るのではないかと身構えた。
しかし、美和の言葉は予想外のものだった。
「そのランタン。それ、可愛いね。どこで買ったの?」
陽介は一瞬、言葉の意味が理解できなかった。彼の行動に対する批判でも、詮索でもなく、道具そのものへの肯定。
「ああ…これか。これ、百均だよ。防災用にもなるかなと思って、試しに買ってみたんだ」
陽介は少し照れながら答えた。このランタンが、妻の興味を引いたことが、彼にとっては小さな驚きだった。
美和は、「へえ。百均なのに、いい雰囲気出すのね」と言い、そしてすぐに肯定的な言葉を付け加えた。
「でもね、陽介さんが、そうやって楽しそうにしてるのはいいことだと思うわ。無理しないでね」
美和の言葉は、陽介の心に、この上なく温かく響いた。
彼は、自分の行動が家族にとって「迷惑」や「奇行」ではなく、「肯定されるべき行為」として受け止められていることを確信した。
特に「楽しそう」という一言は、陽介の孤独な心境を、美和がちゃんと理解しようとしてくれている証拠だった。
(良かった。理解してくれてるんだ)
陽介は、美和の優しさに感謝の気持ちでいっぱいになったが、疲労と照れくささから、言葉を多く交わすことはできなかった。
彼は「うん」と短く返事をしただけだったが、その「うん」には、「ありがとう」と「大丈夫だよ」という二つの感情が込められていた。
美和はそれ以上の会話を続けず、「おやすみ」とだけ言い残し、静かにドアを閉めた。彼女は陽介の領域に踏み込みすぎず、彼の自立した休息の場を尊重したのだ。
再び一人になった陽介は、ランタンの小さな光を見つめ直した。先ほどまで感じていた孤独感は消え失せ、代わりに、妻の優しさという温もりが、彼の心に残った。
この小さな光が、彼と美和の間の物理的な距離は保ちつつも、心の距離をわずかに近づけたのだった。
彼の庭での活動は、着実に、家族の日常に受け入れられ始めていた。
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美和が去り、再び静寂に戻った庭の隅で、陽介は最後のチューハイを飲み干した。
この小さな庭という空間は、もはや彼にとって単なる家の外のスペースではなかった。それは、「社会的な自分」や「家族の中の自分」から解放され、「個としての自分」を取り戻すための、聖域のようなものになりつつあった。
ランタンの光に照らされた地面を眺める。土は湿り、夜の匂いを放っている。彼は、この数日間で、この庭の「荒廃」が、実は「無限の可能性」を秘めた空間であることを発見した。
雑草抜きという肉体労働も、ランタンの光の下での静寂も、すべてが彼を癒やし、リセットしてくれた。
彼は、この新たな習慣が、自分の精神的な健康に不可欠なものであることを確信した。そして、この習慣を維持するために、道具の重要性を改めて認識した。
折り畳み椅子、百均のランタン、そして缶飲料。すべてが安価でシンプルな道具だが、これらが揃うことで、彼の心の避難所が成立するのだ。
陽介は、ランタンを静かに消した。再び夜の闇が彼を包む。
その闇の中で、彼は「この習慣を、毎日の日課にする」と心に誓った。仕事がどんなに忙しくても、家族との時間がどんなに希薄でも、この「夜の庭での30分」は、誰にも奪われない、彼自身の時間として確保しなければならない。
ランタンを消した後の、暗闇の中で感じる安堵感。それは、明日、再び満員電車に揺られ、高橋上司の顔色を窺い、ノルマと戦わなければならないという現実から、彼が「一旦」解放されたことを意味していた。
翌日の木曜日、金曜日を乗り切るための微かな活力が、彼の心の奥底から湧き上がってくるのを感じる。それは、ポジティブな希望というよりは、「逃げ場がある」という安心感からくる、確かなエネルギーだった。
陽介は、椅子とテーブルを折り畳み、ランタンと共に家の中に戻った。物置スペースに戻す際、彼は、道具一つ一つに、静かに感謝の念を覚えた。
(この椅子と、この光が、俺を救ってくれた)
彼はこの日から、自分のことを単なる「会社の営業マン」「二児の父」「美和の夫」としてではなく、「庭に秘密の避難場所を持つ男」として認識し始めた。
彼の心の疲弊は、まだ完全に癒えてはいない。家族との断絶や、仕事の重圧という根本的な問題は、解決していない。しかし、彼はその問題と戦うための「武器」と、逃げ込むための「防空壕」を手に入れた。
陽介は、静かに寝室へと向かう。
彼の脳は、情報から遮断され、身体は適度な疲労を覚え、心は妻の優しい肯定で満たされている。彼は、この日もまた、質の良い、深い眠りへと落ちていった。
42歳の佐藤陽介の物語は、こうして、百均のランタンの小さな光の下で、確かにその一歩を踏み出したのだった。




