42歳、ランタンを灯す
水曜日。週の中盤に差し掛かり、佐藤陽介の疲労はピークに達していた。
火曜・水曜といった平日の夜は、金曜日のような「終わりの解放感」もなく、土日のような「活動の自由」もない。ただひたすらに、翌日へのプレッシャーと肉体の消耗だけが、重くのしかかってくる。
今日も定時を過ぎても終わらない商談資料の修正に追われ、帰宅したのは午後8時過ぎ。残業時間は短いが、高橋上司の「目に見えない監視」と、常に効率を求められる緊張感が、陽介の神経を極限まですり減らしていた。
彼の頭の中は、まるでノイズだらけの古いラジオのように、ざらついた思考で満たされていた。
最寄り駅から家までの道のりも、もはや「休息」ではなく「移動」のための義務的な時間でしかない。陽介は、この数日間で庭で得た「小さな充足」の記憶を心の隅で反芻し、なんとかその一日を乗り切っていた。
玄関のドアを開ける。
リビングダイニングから漏れてくる光は、まぶしいほどに明るい蛍光灯の光だ。
美和が夕食の片付けを終えたばかりなのだろう、キッチンからもカチャカチャと食器の音が響いている。
テーブルには、翔と咲が並んで座り、それぞれスマホや参考書を広げている。テレビからは、クイズ番組の甲高い笑い声が流れていた。
陽介は、反射的に「ただいま」と口にしたが、それはいつものように、家族の団欒の音に吸い込まれていった。
美和が、キッチンから顔を出し、「お疲れ様」と声をかけてくれる。その声は優しさを含んでいるが、陽介は、その優しさが今の自分には「重荷」のように感じられた。
彼には、この明るく賑やかな空間に入るエネルギーが残されていなかった。
この蛍光灯の光の下では、自分の顔に再び「元気な父」の仮面を貼り付け、社交的な会話をする義務が生じる。それが、今の陽介の心をさらに消耗させる原因だった。
(あの光が…嫌だ)
彼の脳は、この「日常の明るすぎる光」と、それに伴う「コミュニケーションの義務」を、一種の「攻撃」のように認識し始めていた。
彼は無言で、手洗いと着替えを済ませ、食事を済ませる。家族との会話は最小限。
翔や咲は、父が無口なことに慣れており、特に干渉してこない。陽介も、それを助長するように、早々に食事を終わらせた。
食後。陽介は、普段ならこのままソファに沈み込み、スマホを手に取るところだった。しかし、彼の体はそれを拒否した。
脳が、このままではいけないと警告している。スマホの画面を見つめれば、神経の疲労がさらに進行し、眠りも浅くなるだろう。
彼は、雑草抜きで得た「健全な疲労」や、夜の椅子での「解放感」を求めていた。
(光のない場所へ。音のない場所へ)
彼の視線は、自然と勝手口と、その先の暗い庭へと向かう。
そして彼は、美和に、たった一言だけ、その日の行動を告げることにした。
「美和。悪いが、今日の晩酌は……庭でする」
美和は、食器を拭く手を止め、少し驚いたように陽介を見た。陽介の顔には疲れが滲んでいたが、その目には、昨日までの虚ろな表情とは違う、わずかな決意の光が宿っているように見えた。
美和は、いつものように詮索せず、「分かったわ。何かいる?」とだけ答えた。陽介は首を振り、冷蔵庫から缶チューハイを一本だけ取り出した。
彼は、賑やかなリビングと、まぶしい蛍光灯の光に背を向け、静かに勝手口のドアを開けた。
彼の疲れた体は、もう一度、あの夜の闇と孤独を求めていた。
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庭に出た陽介は、アスファルトの叩きの上に、昨日も使った折り畳み椅子と小型テーブルを広げた。昼間の熱を吸ったコンクリートは、夜の冷気でひんやりとしている。
そして、彼は懐から一つの道具を取り出した。先日、美和への言い訳も兼ねて、防災グッズ売り場で衝動的に購入した、百円ショップのLEDランタンだ。手のひらに収まるほどのプラスチック製で、見た目にも安っぽい。機能もごくシンプルで、ボタンを押すと、ほんのりとしたオレンジ色の光を灯すだけだ。
陽介はそのランタンをテーブルの隅に置いた。
カチッ。
スイッチを入れると、弱い、しかし確かな温かみのある光が、テーブルの上の缶チューハイと、陽介の顔の輪郭を微かに照らし出した。
リビングの蛍光灯の「全てを暴き出す」ような冷たい白色の光とは、まるで違う。
このランタンの光は、その周囲に濃い影を作り、陽介の周りだけを、外界から切り離されたような小さな世界に変えた。
彼は、この安価で小さな道具一つが、これほどまでに空間の雰囲気を変えてしまうことに、素直に驚いた。
陽介は椅子に深く腰掛け、缶チューハイを開ける。一口飲んで、その冷たさを感じながら、ランタンの光を静かに見つめた。
このランタンのぼんやりとした光は、彼にとっての「非日常への入り口」だった。
それは、仕事のストレスや、家庭での無言の責任といった「日常」の要素を、優しくフェードアウトさせてくれるフィルターのように機能した。
(道具は、値段じゃない。どう使うかだ)
彼は心の中でそう呟いた。このランタンの存在が、単なる照明ではなく、「ここから先は日常の延長線上ではない」という、彼自身への明確な境界線の合図となっていた。
ランタンの光は弱く、テーブルの上の自分の手元を辛うじて照らす程度だ。庭の隅は相変わらず暗い。
陽介は、試しにランタンを消してみた。真っ暗闇に戻る。
しかし、目が慣れると、遠くの街灯や、隣家の窓から漏れる光が、かえって強く感じられる。この 「見えすぎる暗闇」は、かえって落ち着かない。
再びランタンを点ける。すると、光の届く範囲だけが彼のプライベートな空間として浮き上がり、外部の刺激が優しく遮断された。
この「光の実験」を通して、陽介は、自分が何を求めているのかを深く理解した。
彼は、完全な孤独を求めていたのではない。彼は、「日常から切り離された、安心できる小さな居場所」を求めていたのだ。
ランニングコストのかからない百均のランタンが、彼にとって、何物にも代えがたい精神的な安らぎを提供している。
彼は、缶チューハイをゆっくりと飲み干しながら、この小さな光の周りで、疲れた心を静かに休ませるのだった。
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ランタンの光は、陽介の周りだけをぼんやりと照らしていた。彼はポケットから無意識にスマートフォンを取り出しそうになったが、すぐに手を止めた。
この百均のランタンの弱い光は、スマホの画面を見るにはあまりにも不向きだった。画面を点灯させれば、ランタンの慎ましい光はすぐに掻き消され、デジタルな青白い光が彼の顔を照らしてしまうだろう。
それは、彼がこの庭に求めている「非日常の静寂」を、一瞬で破壊してしまうことを意味した。
(今日は、いい)
陽介はスマホをジャケットのポケットに戻した。この「小さな光の制約」が、彼に「デジタルデトックス」を強制してくれた。
彼の脳は、毎日の仕事のメールや、ニュース、SNSの絶え間ない情報に晒され、過度に刺激され続けている。彼に必要なのは、情報を取り込むことではなく、情報から遮断されることだった。
ランタンの光の下では、彼は何も「見つめる」必要がない。ただ「そこにいる」ことだけが許されていた。
スマホの視覚的な刺激が消えると、陽介の意識は自然と聴覚へと集中した。
夜の庭は、決して無音ではない。
まず聞こえてくるのは、彼の背後、リビングから漏れるテレビの雑音と、家族の微かな話し声。それは、彼が意図的に距離を取った、日常の喧騒だ。
しかし、それを越えて、もっと遠く、そしてもっと近くの音が聞こえてきた。
遠くの幹線道路を走る、トラックの低いうなり。風が庭の木々や、隣家の植え込みを揺らす、「サー」という微かな摩擦音。そして、土の中から聞こえる、虫たちの生命の音。
彼は目を閉じ、それぞれの音を、まるでオーケストラの楽器のように一つずつ分離して聞き分けた。仕事の会議中に聞く「高橋上司の鋭い声」や「取引先の要求」といったストレス源となる音とは違い、これらの環境音は、彼の心を落ち着かせ、リラックスさせる効果があった。
彼の疲れた脳が、仕事の緊張感から解放され、自然なペースを取り戻し始めている証拠だった。
ランタンの光が届かない闇の中で、彼の嗅覚も鋭敏になっていく。
夜露を吸い込んだ芝生と土の、湿った泥の匂い。そして、遠くから漂ってくる、隣家で焚いているかもしれない、微かな線香花火の煙の匂い。
彼は深呼吸をした。鼻から吸い込む冷たい夜の空気は、彼の肺を清浄にするように感じられた。この匂いも、彼の心を安心させる要素の一つだった。そこには、会社のコーヒーの匂いも、エアコンの埃っぽい匂いも、一切ない。
陽介は、この「何もしない」時間に、五感すべてが、仕事というフィルタリングを通さずに、生の情報を直接受け取っていることを感じた。
この百均のランタンが作り出した「光の結界」の中で、陽介は、情報過多で疲弊した現代人としての自分から離れ、「ただ生きている自分」へと回帰していた。
この深い安らぎこそが、彼にとって、何にも代えがたい最高の充電となっていた。




