42歳、妻への恩返し
芝生の修復作業から一週間が経過した。
まだ枯れた部分の茶色は残っているものの、翔が施したエアレーションと、美和と咲が丁寧に行った目土入れのおかげで、土壌の感触は明らかに改善されていた。
陽介の庭は、嵐を乗り越えた後のように、静かで力強い空気に満ちていた。
その週末、陽介はいつものように庭の椅子に座り、コーヒーを飲みながら、家族の様子を観察していた。
咲は、新しく設置されたハーブ棚の手入れに余念がない。翔は、自転車の整備を庭の端で行っており、時折、父に工具の使い方について質問を投げかけてくる。
美和は、リビングから持ち出した文庫本を手に、庭の陽当たりの良い場所に置かれたウッドデッキの椅子に腰掛けていた。
彼女もまた、この庭で過ごす時間を楽しんでいる。以前のように、陽介の趣味を「監視」するような視線はもうない。そこにあるのは、完全に庭の空気に馴染んだ、穏やかな表情だった。
しかし、陽介は、そんな美和の姿に、ある小さな違和感を覚えた。
(ん?またやってるな)
美和は、本を読み始めて10分も経たないうちに、ページの上から手のひらをかざし、強すぎる日差しを遮ろうとしていた。
美和が読書をするのは午前中の、最も日差しが降り注ぐ時間帯だ。
彼女が座っているのは、まだタープやパラソルといった日除けのない、庭の中でも最も明るい一角だった。
美和は、時折、ため息をつきながら、座る位置を微妙に変えたり、椅子の背もたれの角度を調整したりしている。その動作は、彼女が読書という「安らぎの時間」を、日差しという「物理的な障害」によって邪魔されていることを示していた。
陽介は、この庭活動を始めて以来、常に美和の存在に支えられてきたことを思い返した。
最初は懐疑的だった彼女が、今では自ら率先して庭の共同作業に参加し、彼の趣味を「家族の生活動線」に組み込んでくれた。芝生の修復作業でも、彼女の細やかな配慮がなければ、あそこまで丁寧な処置はできなかっただろう。
(俺の趣味ばっかり、道具ばっかりに投資して、美和が本当に心からリラックスできる「場所」を、まだ作ってあげられていなかった)
陽介の庭は、焚き火をするための「熱源の場」、共同調理をする「第二のキッチン」、星空を眺める「宇宙との接点」へと進化してきた。
しかし、それはすべて、陽介自身が「やりたいこと」の延長線上にあった。
美和が求めるものは、高火力のバーナーでも、頑丈なテントでもない。ただ静かに、日差しを気にせず、本の世界に没頭できる「時間と空間の余白」だ。
陽介は、美和が手のひらで日差しを遮る、その何気ない仕草に、強い恩返しへの衝動を覚えた。
(今こそ、美和のために、この庭をカスタマイズする時だ。俺の道具と経験を、「陽介以外の一人の家族の幸福」のために使うんだ)
陽介は、立ち上がり、美和に向かって声をかけた。
「美和。ちょっとその椅子、動かしてもいいか?」
美和は、日差しに目を細めながら顔を上げた。
「え?どうして?」
「ちょっと、美和専用の『秘密基地』を作ってあげようと思って」
陽介の言葉に、美和はキョトンとした顔をしたが、陽介の真剣な、そして少し照れたような表情を見て、すぐにその意図を察したようだった。
美和は、微笑んで「楽しみにしてるわ」と答えた。
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陽介はすぐにホームセンターへ向かった。
彼が探したのは、大掛かりなキャンプ用のタープではない。庭という限られた空間に、ピンポイントで影を作り出すための、小型の「日除けタープ」、そしてそれを固定するためのポールとロープだった。
選んだのは、タープというよりも、どちらかというと「サンシェード」に近い、明るいベージュ色の、3メートルの軽量なものだった。庭の景観を邪魔しない、シンプルで柔らかな色合いが決め手となった。
帰宅後、陽介は庭で自転車を整備している翔に声をかけた。
「翔、ちょっと手伝ってくれないか。今度の日差しよけ、美和のために設置したいんだ」
翔は、自転車のチェーンから手を離し、新しいタープとポールを見て目を輝かせた。
「タープの設営か!いいよ、やる。これ、軽いけど、ペグダウンしっかりやらないと風で飛ぶぞ」
翔は、陽介が想像していた以上に、前のめりになってくれた。それは、ただの手伝いではなく、「自分の得意分野」が再び父の趣味に役立つことへの、喜びの表れだった。
「これ、設営の練習になるな」
翔はそう言って、タープ設営を「キャンプの練習」という「実用的な価値」に結びつけた。
陽介は、翔のこの「実用主義」的な姿勢が、彼の趣味への関与を深める鍵だと知っていた。
「ああ、なるよ。風の抵抗を最小限にするロープワークも試せる。それに、今回は、美和のために作るんだ。誰かのために道具を使うっていうのは、ただの遊びとは違う、新しいモチベーションになるぞ」
陽介は、自分の心の中で発見した「誰かのため」のDIYの楽しさを、息子にも伝えた。
設営は、前回、家族用テントを設営した時よりも、格段にスムーズだった。陽介がポールを支え、翔がロープを張る。
「お父さん、角度が75度くらいになるように。この方が風を逃がしやすい」
翔は、理科で習った角度や、部活のタープ設営で学んだ経験に基づいた、具体的な指示を出す。陽介は、以前なら「そんな細かいこと」と思っていたかもしれないが、今は素直に息子の指示に従った。
「よし、ペグはここ。家の壁から1.5メートル離して、ロープは45度で地面に打ち込む。これなら、風が吹いても大丈夫だ」
翔のロープワークは正確で、ペグを打ち込む力も強かった。
陽介は、自分が苦手とする「正確な寸法取り」や「力仕事」の部分を、翔が完璧にカバーしてくれていることに、深い喜びを感じた。
(俺の苦手な部分を、翔が補ってくれる。仕事では経験しなかった、役割が逆転する共同作業だ)
陽介は、翔に手伝いを頼んだことが、単に作業効率を上げるだけでなく、父子の間の「技術の共有と承認」の瞬間を生み出していることに気づいた。
陽介は、翔の成長を心から誇りに思った。
約30分後、小型のタープは、庭の一角に、穏やかな影を落とす「屋根」として完成した。
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タープの設営が終わると、陽介は急いで、美和のための「家具」の配置に取り掛かった。
「美和の椅子を、この影の中に置こう。そして、これをここに」
陽介が持ってきたのは、美和がリビングでいつも使っている、背もたれが高く、座り心地の良いクッション付きの椅子だった。
そして、その椅子の横には、佐々木が以前、差し入れとして持ってきてくれた小さな木製のサイドテーブルを設置した。このサイドテーブルは、美和がモヒートを置いたり、コーヒーを置いたりするのに使っていた、美和にとって馴染み深い道具だ。
「よし、完成だ。美和!」
陽介が声をかけると、美和は文庫本を片手に庭にやってきた。
タープの下に、自分の椅子と小さなテーブルが配置されているのを見て、美和は言葉を失った。
「陽介……これ、私のために?」
「ああ。君がいつも日差しを気にしながら読んでるのを見ててね。これなら、強い日差しも遮れるし、風通しもいい。美和だけの『読書空間』だ」
美和は、タープの下に歩み寄り、椅子に腰掛けた。日差しが90パーセント遮断され、柔らかな光だけが、彼女の周りを包み込む。
彼女は、試しに本を開いてみた。ページに影が落ちることはなく、快適な明るさだった。
「すごい……本当に居心地がいいわ。風も通るから、全然暑くない」
美和は、心からの笑顔を陽介に向けた。その笑顔は、これまでの「理解」や「承認」の笑みとは違い、「純粋な喜び」の感情が溢れていた。
「ありがとう、陽介さん。こんな、私だけのための場所を作ってくれるなんて……」
美和は、陽介の肩に優しく手を置いた。
陽介は、その瞬間、自分がこの庭活動を始めて以来、最も大きな「幸福の達成感」を感じた。それは、新しい道具を買った時や、燻製が成功した時の快感とは比べ物にならない、深く温かい感情だった。
陽介の趣味の成果が、初めて「陽介以外の一人の家族の幸福」のために使われた瞬間だった。美和の安らぎの表情こそが、彼にとって最高の「見返り」となった。
美和は、早速、淹れたてのハーブティーをサイドテーブルに置き、読書を再開した。彼女は、ページの端に手をかざすことなく、ゆったりと椅子に体を預け、夢中になって本を読み始めた。彼女の周りだけ、時間がゆっくりと流れているように見えた。
陽介は、その光景を遠くから見つめ、美和の安らぎが、自分自身の心をも深く癒やすことを知った。
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美和の読書空間が完成し、陽介が満足感に浸っていると、今度は咲が「待った」をかけた。
「ちょっと待って、お父さん。これで終わりじゃないでしょ?」
咲は、美和の隣に設置されたサイドテーブルに、持ってきた小さなブリキのバケツを置いた。バケツの中には、ハーブ棚で収穫したばかりのミントやレモングラスの葉が入っている。
「どういうことだ、咲?」
「せっかくお母さんのための『安らぎの空間』を作ったのに、実用的なタープと椅子だけじゃ、殺風景すぎるでしょ。私、『デコレーション』担当ね」
咲は、陽介の「機能性」と「構造」へのこだわりに対し、自身の「美的センス」と「感性」をもって「付加価値」を与えようとしたのだ。
まず、咲はハーブ棚から、陽介が設置したタープのポールに、透明な細いワイヤーで手作りの小さな風鈴を吊り下げた。風鈴は、美和が以前、趣味で作っていたガラス細工を再利用したものだ。
風が吹くと、「チリン、チリン」という涼しげで控えめな音が、美和の読書空間にBGMのように流れる。
次に、咲は、ハーブの葉が入ったブリキのバケツをサイドテーブルに置き、その横に、ハーブ棚に飾った百均ランタンを一つ、地面に置いた。
夜になれば、このランタンの温かい光が、美和の足元を優しく照らすだろう。
さらに、咲は、自分で作ったハーブの香りの小袋を、美和の椅子の背もたれにそっと結びつけた。美和が椅子に座り、風が吹くたびに、ミントの爽やかな香りが漂う仕掛けだ。
咲は、一連のデコレーションを終え、美和に向かって自信満々に尋ねた。
「お母さん、どう?これで『安らぎ』という付加価値が120パーセントアップしたでしょ?」
美和は、読みかけていた本を閉じ、周囲を見渡した。風鈴の音、ハーブの香り、そして娘の温かい気遣い。
「完璧だわ、咲。陽介さんが作ってくれたのは『機能』だけど、咲が加えてくれたのは、『情感』ね。ここが本当に私だけの特別な場所になったわ」
美和は、娘の美的センスと、その裏にある陽介への「サポート」の気持ちに、心から感謝した。咲の「デコレーション」は、陽介が作った実用的な空間に、「安らぎ」という最高の「情緒的価値」を与えたのだ。
父が「構造」を作り、娘が「情感」で仕上げる。家族の「得意な役割」が、美和の幸福のために見事に連携した瞬間だった。
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日が傾き始めた頃、美和は本を閉じ、読書空間から立ち上がった。彼女の顔には、深くリラックスした満足感が漂っていた。
陽介は、その日の作業を終えた翔と共に、美和の表情を見て安心感を覚えた。
夕食の準備をしながら、美和が陽介に語りかけた。
「陽介さん。この庭って、本当に変わったわね。前は、陽介さんが一人で道具の手入れをする『秘密基地』だったけど……」
美和は、庭をぐるりと見渡した。
「今は、陽介さんの『趣味の空間』だけじゃなくて、私が落ち着ける『読書空間』ができた」
翔が、自転車の工具を片付けながら、それに続いた。
「俺にとっては、『自転車の整備とトレーニングの場』でもあるし、タープ設営の『練習場』にもなる」
咲は、ハーブ棚に水をやりながら言った。
「私にとっては、お料理の『素材の供給源』だし、お洒落な『フォトジェニック・スポット』にもなる」
美和は、微笑んで陽介の目を見た。
「そう。この庭は、陽介さんの活動が起点になっているけれど、今は、家族それぞれが必要な機能を持ち寄るプラットフォームになったのよ」
陽介は、美和の言葉に深く納得した。
庭は、もはや「陽介の庭」ではない。それは、
家族のニーズに合わせて「多機能化」し、それぞれの幸福を支える空間へと進化していた。
陽介は、今回の美和のためのタープ設営が、彼の趣味の最終的な意味を教えてくれたと感じた。彼の活動は、もはや「仕事のストレスからの逃避」ではない。
それは、家族への「愛情を示す具体的な行動」そのものになったのだ。
(俺が、美和のために日除けを作った。その結果、美和は心からの安らぎを得た。そして、美和が心から安らぐことで、俺は最高の満足感と幸福を得る。
そして、美和はその満足感への感謝として、俺の趣味をさらに積極的にサポートしてくれるようになる)
陽介の心の中で、一つの確固たる「幸福の循環」が生まれていた。
陽介の孤独は、遠い過去のものとなっていた。この庭での活動は、家族の絆という揺るぎない基盤の上に立ち、これからも家族の生活を多角的に支えていくプラットフォームとして、秋の夜風の中で静かに存在し続けた。




