42歳、健全な疲労感
陽介が庭の一角で、無心に雑草を抜き続けていたとき、彼の背後のリビングでは、子どもたちがそれぞれの活動をしていた。
長男・翔は、部活へ行くまでの短い時間、二階の自室ではなくリビングのソファで、ヘッドフォンを装着してスマートフォンを操作していた。
リビングの窓ガラスには、軍手をはめてしゃがみ込む父親の姿が、ぼんやりと映り込んでいる。
翔はふと顔を上げ、窓の外の陽介をチラ見した。
疲れた体で週末まで仕事に縛られ、帰宅しても無口な父。
そんな父が、突然、庭で雑草を抜き始めた。翔にとっては、それは「疲れているのに変なことを始めた」という程度の、理解不能な行動だった。
彼は特に感情を動かされることなく、すぐに視線をスマホの画面に戻した。父の行動は、自分の興味の範囲外であり、干渉するほどの価値はない。
彼の関心は、今日の練習の結果や、チームメイトとのやり取りに完全に集中していた。
翔の頭の中では、「父の行動」は、今日の部活の予定表の片隅に書かれた、どうでもいいメモ書きのようなものだった。
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一方、長女・咲は、友達との待ち合わせ時間が迫り、身支度を整えるためリビングを忙しなく動き回っていた。彼女は全身鏡の前で髪を整えながら、ふと窓の外を見た。
(え、なにやってんの、お父さん)
咲は心の中でそう呟いた。普段はゴロゴロしている父が、休日に汗をかきながら泥まみれでしゃがみ込んでいる姿は、彼女にとって滑稽に映った。
(変なの。突然、ガーデニングに目覚めたとか?おじさんじゃん)
彼女は内心で軽く茶化すが、それを口に出すことはしない。それは父への気遣いというよりは、自分の行動原理に関係のないことへの「徹底的な無関心」と、「中途半端な干渉は面倒くさい」という思春期特有の心理だった。
彼女の最大の関心事は、今日の友達との約束、新しくできたタピオカ店、そして流行りのファッション。
父の古びた軍手や、抜き取られた雑草の山は、彼女の華やかな週末の予定とは、あまりにもかけ離れた、地味でどうでもいい光景だった。
咲は父の行動に興味を持つ素振りすら見せず、鏡の前で最終チェックを済ませると、美和に「行ってくるね!」と告げ、元気よく玄関へ向かった。
彼女にとって、庭で何が起きているかは、自分たちの生活に全く影響のない、無害なノイズに過ぎないのだ。
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美和は、そんな子どもたちの反応をキッチンから静かに見ていた。
翔と咲が、父の行動を「変なこと」として捉え、干渉しない距離感を保っていることを確認し、美和は少し安堵した。もし子どもたちが大騒ぎしたり、父の行動を揶揄したりすれば、陽介はきっとすぐにその活動を止めてしまうだろう。
子どもたちの「無関心」と「距離感」が、皮肉にも、陽介にとって「誰にも邪魔されない空間」を確保することに繋がっていた。
陽介は、家族の視線を感じ取っていたわけではないが、家の中から何の反応もないことで、彼は完全に孤独な状態で作業に没頭することができた。
彼の庭遊びは、誰の評価も求めない、純粋な自己満足として、ここに成立したのだった。
彼は背後の家族の賑わいをBGMのように感じながらも、自分の手のひらの中にある土の感触と、雑草を引き抜くという単純作業に、ひたすら集中し続けた。
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陽介は、もう腰を曲げているのが限界だった。腕は重く、額からは汗が流れ落ち、軍手をはめた手は土で真っ黒に汚れている。
彼は、自分が取り組んでいた小さな一角の作業を終えることにした。最後のしぶとい雑草の根を引き抜き、その場に座り込む。
目の前には、彼の労働の証が横たわっていた。芝生の切れ目やコンクリートの隙間から抜き取られた、緑色の雑草の山。
その傍らには、雑草が消えたことで、きれいに土が露出した小さなスペースが生まれていた。
その「作業の跡」を眺める。
たったこれだけのことだが、陽介の胸には、仕事の契約が取れた時や、プレゼンが成功した時とは全く質の違う、純粋で静かな達成感が満ちていた。
(やったな。俺が、これをやったんだ)
それは、誰にも指示されず、誰の評価も求めず、自分の意思と力だけで成し遂げた、私的な勝利だった。仕事の成果は、会社の利益や他者の評価に依存するが、この雑草を抜いたという事実は、誰にも否定できない、彼自身の確かな功績だ。
彼は、抜いた雑草の山を見て、その量の多さに苦笑した。この庭が、いかに長い間、自分の無関心によって放置されていたかを物語っている。
陽介は、ゆっくりと立ち上がった。腰が悲鳴を上げ、関節が軋む。肉体的な疲労は想像以上だった。
しかし、その疲労感は、金曜日の夜に帰宅したときに感じていた、あの鉛のように重い心身の疲弊とは全く異なっていた。
仕事の疲労が、脳と神経を蝕む「病的な疲労」だとすれば、この雑草抜きからくる疲労は、「健全な疲労」、つまり、身体が正しく使われ、休息を求めている状態だった。
体は重いが、頭の中は驚くほど軽くなっていた。数時間前まで彼を苛んでいた「何もしていない自分」への自己嫌悪や、週末の重圧は、汗と共に流されたかのように消え失せている。
(これでいいんだ。疲れるなら、こういう風に疲れたかったんだ)
彼は、この庭という小さな空間が、自分にとっての「セラピー」として機能し始めていることを理解した。手を動かし、自然の匂いを嗅ぎ、身体に負荷をかける。
この原始的な行動こそが、複雑な現代社会のストレスにまみれた心を、最も効率よくリセットする方法だったのだ。
陽介は、雑草をゴミ袋にまとめ、汚れた軍手を洗い、家の中に戻った。リビングの家族に特に声をかけることなく、そのままシャワーへ。
シャワーを浴び、泥を洗い流す。鏡に映る自分の顔は、少し赤く火照っているが、昨夜や平日の夜に見る、無表情で疲弊しきった顔とは違っていた。生気が戻っているように感じられた。
その後、彼は深い眠りに落ちた。それは、体が本当に休息を必要としていることの証であり、仕事のストレスからくる不眠とは無縁の眠りだった。
陽介は、眠りの中で確信する。「完璧じゃなくてもいい。少しでも手を動かせば、何かは変わる」。この小さな庭での活動は、単なる趣味ではなく、彼の自己肯定感を取り戻す行為となり始めた。
そして、この「健全な疲労」と「小さな達成感」が、次の月曜日からの仕事の重圧に耐えるための、新たな心の燃料になるだろうと感じたのだった。




