42歳、リベンジと娘の指導
以前、陽介が初めて庭で焼いたホットサンドは、火加減の失敗により「焦げ付いた、固い鉄の塊」と化し、家族からの評判は散々だった。
あの苦い思い出は、陽介の心の中に、ひとつの小さな「失敗の遺産」として残っていた。
しかし、美和が庭に日常の食卓を持ち込み、桜井慎という外部の承認を得た今、陽介は自分の庭飯の「レパートリー」と「品質」を、本格的に向上させる時期が来たと感じていた。特に、娘の咲から「お父さんの焦げたホットサンドより、お母さんの魚の方が断然美味しい」と茶化された言葉が、陽介の職人気質の火を点けた。
「次は、絶対に焦がさない。そして、家族を唸らせるものを作る」
陽介は、この週末、ホットサンドメーカーを磨き上げ、再挑戦を決意した。
まずは、最も難しいとされる「火加減」の研究から始めた。彼は、ミニ焚き火台の熱源を隅に寄せ、熾火のじんわりとした熱だけを利用することにした。さらに、砂時計で片面3分と時間を厳密に計り、何度か試作を繰り返した。
具材も工夫した。これまではハムとチーズという手軽なものだったが、今回は、自家製のバジルをふんだんに使ったジェノベーゼソースと、モッツァレラチーズ、そして美和が以前作っていた自家製のローストチキンを贅沢に使った。
最高の食材と、精密な技術。
陽介は、まるで重要なプロジェクトの成功を目指すかのように、このホットサンドに全力を注いだ。
これは単なる料理ではない。
陽介にとって、これは家族に自分の「成長」と「真剣さ」を示すための、大切な儀式だった。焦げたホットサンドは、かつての孤立した自分。完璧なホットサンドは、家族との共有という目標を達成した新しい自分。
陽介は、家族からの「承認」を、今度は自分の「技術」と「成果物」で獲得することを目指した。再挑戦への熱意が、彼の庭活動の新たなフェーズを切り開こうとしていた。
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陽介が、慎重に火加減を調整し、試行錯誤の末に焼き上げたホットサンドは、これまでの焦げ付いた失敗作とは一線を画していた。外側はこんがりとした黄金色に焼き上がり、熱が均一に通った柔らかな手応えがある。
陽介は「よし!」と心の中でガッツポーズをし、早速そのホットサンドを小型のまな板の上に置き、切り分けようとした。彼は、かつて美和がパンを切るように、まっすぐ垂直に包丁を入れようとした。
その時、二階の自室の窓がガラッと開き、娘の咲が身を乗り出して、陽介に大声で指示を出した。
「ちょっと、お父さん!何やってんの!」
咲は、父の焼き上がりの良さには気づいたものの、その後の「見せ方」があまりにも素朴で致命的に「映えない」ことに耐えられなかったのだ。
咲は、すぐにリビングの窓から庭に降りてきて、陽介のそばに駆け寄った。彼女は、陽介が手に持っている包丁を指差しながら、苛立ったように言った。
「ダメだよ、真っ直ぐ切っちゃ! ホットサンドは、中の具がトロッて出てるのが命なんだから」
咲は、陽介の包丁をそっと取り上げ、ホットサンドに45度の角度で包丁をあてた。
「斜めに切るの! こうやって、真ん中で切ると、切り口からチーズとかローストチキンが綺麗に見えるでしょ?
これが『映え』なんだよ!
お父さん、せっかく上手く焼けたのに、切り方一つで台無しじゃん!」
咲の言葉はいわゆる「技術的な干渉」だった。
これまでの関与は「道具を借りる」「素材を依頼する」といった受動的なものだったが、今回は娘の持つ「感性」と「最新のトレンド」という技術指導だ。
陽介は、自分の知らなかった新しい調理法、新しい価値観に触れ、驚きと共に興奮を覚えた。
「なるほど、切り口が勝負か…」
咲は、自分の持つ知識が父親の趣味に役立っていることに、密かな満足感を覚えているようだった。陽介は、この娘からの「映え」指導が、彼の庭活動の質を一気に向上させる鍵になることを直感した。
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咲に促され、陽介は包丁の角度を45度に傾け、慎重にホットサンドを斜めにカットした。
「ほら、見て!」と咲が言った。
その切り口は、まるで専門店のサンドイッチのように美しい断面を見せた。こんがり焼けたパンの間から、陽介の力作であるジェノベーゼと、とろりと溶けたモッツァレラチーズが顔を出す。ローストチキンの断面も肉厚で、色鮮やかな自家製バジルの緑が、コントラストを際立たせている。
陽介は目を見張った。
「なるほど! 全然違うな!」
陽介がこれまで考えていたのは、あくまで「美味しく焼く」という機能的な技術だけだった。
しかし、咲がもたらした「映え」という概念は、料理を「食べるもの」から「鑑賞するもの」へと昇華させる、クリエイティブな視点だった。これは、娘の持つ「感性」と、SNS時代の「最新のトレンド」という、陽介のビジネス脳では思いつかなかった新しい価値観だった。
咲の指導は、盛り付けだけに留まらなかった。
「あとね、お父さん。写真撮るときは、テーブルの上に置くんじゃなくて、芝生の上に、この前お母さんが使ってた布を敷いて、そこに置いてみて。そんで、上から撮るの。『俯瞰』ってやつ」
陽介は言われるがままに、ホットサンドを芝生の上に敷いた布の上に置いた。
彼はスマホを持ち、咲の指示通り、真上からシャッターを切った。佐々木からもらったコーヒーミルと、横に添えた摘みたてのミント。そして、美しい断面のホットサンド。
モニターに映し出された写真を見て、陽介は再び感銘を受けた。庭という空間が、ホットサンドという料理が、一気に雑誌のワンシーンのような「作品」に変わったのだ。
「す、すごいな、咲。お前、写真の先生みたいだ」
「当たり前じゃん。こういうのが今、大事なの」
咲は得意げに胸を張る。
陽介は、この世代間の交流を通じて、趣味の「技術」が、単なる熟練度だけでなく、「感性」や「演出」といった多様な要素から成り立っていることを学んだ。娘から技術を教わることは、かつての凝り固まった父親像を打ち破る、新鮮で心地よい体験だった。
娘が持つ新しい視点を取り入れ、自分の庭活動がさらに進化していく予感に胸を躍らせた。
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咲の指導を受け、陽介が芝生の上に布を敷き、ホットサンドを斜めにカットして配置し、上から撮影した写真は、陽介自身の目から見ても完璧だった。道具の配置、光の加減、そして何より、中身が覗くホットサンドの「表情」が生き生きとしている。
陽介はすぐにこの傑作を、唯一庭の趣味を共有する同僚である佐々木にLINEで送った。
陽介:新作のホットサンドです。今回は娘の指導を受け、見栄えにもこだわってみました
数秒後、すぐに佐々木から返信が来た。
佐々木:レベル高っ! 佐藤さん、マジでプロの雑誌みたいじゃないっすか! あの焦げたホットサンドはどこ行ったんすか(笑)?!
佐々木からの素直な驚きと賞賛は、陽介に大きな誇らしさを感じさせた。自分の技術の進化が、社内でも認められたのだ。
陽介は咲にスマホの画面を見せた。
「おい、佐々木も驚いてるぞ!お前のおかげだ」
咲は、スマホの画面に目をやりながら、口元だけを緩めた。「ふーん。まあ、そうなると思ったけど。写真の撮り方一つで、全然違うからね」
咲は、その表情こそクールだったが、内心では密かな満足感を覚えていた。
これまでの彼女の「映え」の技術は、友人とのコミュニケーションやSNSの投稿のためのもので、親、特に父の生活とは完全に切り離された世界だった。
しかし、今回、自分の技術が、長年溝ができていた父の趣味に具体的な「貢献」をし、その成果が父を心から喜ばせているという事実が、彼女にとって大きな喜びだった。
(お父さんの趣味、道具ばっかり集めてて、ちょっとダサいと思ってたけど。私の『技術』を使えば、ちゃんと今っぽくなるんだ。お父さんの頑張りが、無駄にならないなら、まあ教えてあげてもいいかな)
陽介と咲の間で、「映え」という新しい種類の「技術」が共有された瞬間だった。陽介は、道具の機能だけでなく、娘の感性という「ソフトウェア」を取り込んだことで、庭活動が「ソロの修行」から「家族との共同創作」へと進化していく確かな手応えを感じた。
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咲から受けた「映え」指導は、陽介の庭活動全体に、決定的な影響を与えた。
陽介はこれまで、道具の「性能」や、料理の「味」といった、42歳の男性の合理的な価値観に基づいた要素を重視してきた。しかし、咲の持つ「見栄え」「雰囲気」「演出」というクリエイティブな視点を取り入れたことで、庭活動は単なる「ソロの趣味」や「道具集め」の範疇を大きく超え、一気に「質の向上」を果たした。
翌日以降、陽介の庭での行動は変わった。
コーヒーを淹れる際も、豆の挽き方や湯温だけでなく、ドリッパーとマグカップの色の組み合わせや、ランタンをどの角度で置けば影が美しく落ちるかを考えるようになった。焚き火台を使うときも、炎の揺らめきが最も美しく見えるよう、周囲の小石の配置にまで気を配るようになった。
(道具は、ただ使うだけではだめだ。その道具が作り出す「空間」や「体験」を、いかに魅力的に「演出」するかが、真の醍醐味だったんだ。
私は、娘に教わるまで、このことに気づかなかった。ビジネスでいうところの「機能」の追求から、「デザイン」と「ユーザーエクスペリエンス」の創造へのシフトだ。)
娘の視点を取り入れたことで、陽介の趣味は、より家族や外部の人間にとって魅力的なものとなり、その奥行きが劇的に広がった。
咲は、自分が提供した「技術」が、父の趣味を洗練させ、家の中の雰囲気を明るくしていることに満足感を覚えていた。
陽介の庭は今や、機能的で実用的な空間であると同時に、美しく、心地よい「ギャラリー」の要素を兼ね備えるようになった。
この進化は、次の段階、すなわち翔からの「具体的な提案」という、家族との完全な「共同作業」へと陽介を導く、重要な足がかりとなった。ホットサンドの切り口から覗いたのは、陽介の新しい庭活動の可能性だった。




