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42歳のすみかは庭になりました  作者:
息子との交流

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31/66

42歳、息子の道具を借りる

 陽介が庭に出ることは、すっかり週末のルーティンとなり、家族の誰もがそれを特別なこととして意識しなくなった。


 美和は、陽介が朝早く庭で焚き火台に火を起こす音を、もはや目覚まし時計の音のように感じていたし、咲は、庭の隅に並べられた陽介の道具を、リビングの家具と同じくらい自然な風景として受け止めていた。


 この週末も、陽介はいつものように庭に出ていた。早朝の澄んだ空気の中、焚き火台に細い薪をくべ、コーヒーを淹れる。慣れた手つきと、無駄のない動き。  

 初めの頃の、どこかぎこちない「手探り感」は完全に消え、陽介の庭活動は、生活の一部として滑らかに定着していた。


 コーヒーを飲み終え、一服ついていると、ふと、庭のコンクリートの叩きに置かれたロードバイクが目に入った。それは、翔が前日の夕方に整備を終え、そのまま置いていったものだ。


 陽介は、ロードバイクの繊細なギアやチェーンの美しさに目を奪われた。翔の趣味もまた、陽介の庭活動と同じく、「道具」と「手入れ」を核とする、一種の職人的な世界だ。

 しかし、陽介はふと、普段翔が手が届かないような、奥まったパーツの隙間に、緑色の錆がわずかに浮いているのを見つけた。


(ああ、ここに錆が来てるな。翔の使ってる、あの特殊なスプレーがあればすぐに落ちるだろうけど……)


 陽介は、自分の工具箱の中にある防錆スプレーを思い浮かべたが、それは園芸用の大雑把なもので、翔のロードバイクの精密なパーツには向かないだろうと感じた。


 これまでの陽介なら、翔の道具に手を出すなど考えもつかないことだった。それは、翔の「聖域」に踏み込む行為であり、家族の間の「不干渉ルール」を破るものだったからだ。

 しかし、庭活動を通じて得た自信と、家族との距離が縮まった今、陽介の心の中に、あるアイデアが芽生え始めた。


(僕が、彼の「大切な道具」を借りる。それは、彼への「干渉」ではなく、彼の趣味への「敬意」と、僕自身の「庭を綺麗にする」という目的に対する「真剣さ」を示すことになるのではないか?)


 陽介は、ロードバイクの錆を落としたいという衝動と、息子の道具を借りるという行為への緊張感の間で揺れながら、立ち上がった。彼の視線は、玄関先に立てかけられた、翔のロードバイク専用の道具箱に向けられた。



---



 陽介は、ロードバイクの細部にできた錆を見つめながら、意を決して立ち上がり、リビングへと向かった。翔は、ヘッドフォンをつけてソファで動画を見ていた。


 陽介は、翔に声をかける前に、彼のロードバイク専用の工具箱をチラリと見た。艶消しの黒いケースで、陽介の持っているホームセンターの安物とは違い、細部にまでこだわりが感じられる。中には、翔が自転車関連のバイト代を貯めて買った、専門的な防錆スプレーと高性能クリーナーが入っているはずだ。


「翔。」


 陽介は、できるだけ穏やかな声で呼びかけた。翔はヘッドフォンを外し、不審そうな目で父を見た。


「何?」

「あのさ、お前のロードバイクの、チェーンとギアの奥のところに、ちょっとだけ錆が出てるんだ。あそこの錆、父さんの工具箱にあるスプレーじゃ、たぶん落ちない。」


 陽介は、錆の場所と程度を詳細に伝えた。それは、単なる「父の干渉」ではなく、「趣味の先輩」としての冷静な指摘だった。


 そして、陽介は緊張しながら本題を切り出した。


「それで、お前のその、特殊な防錆スプレーとクリーナー。あれをちょっと借りてもいいか?

 父さんの手で、綺麗に磨いてやりたいんだ。」


 陽介は、初めて息子に、彼の「聖域」の道具を「借りる」という形で、干渉した。それは、息子が大切にする趣味の道具に対する「信頼」と、自分の趣味を通じて培ってきた「道具への敬意」を示す行為だった。

 陽介は、息子の趣味を認め、尊重しているからこそ、その最高の道具を使いたいと正直に伝えたのだ。


 翔は、一瞬にして警戒心を露わにした。

 彼の顔に、「自分の大切なものに触るな」という感情がはっきりと浮かび上がる。しかし、すぐに陽介の顔を見た。その表情は、道具を欲しがっているというより、本当に綺麗にしたいという真剣な意図を伝えていた。陽介が、自分の趣味の成果物である庭を愛し、丁寧に扱っていることを、翔は知っていた。


 陽介は、口を開きかけた翔の言葉を待った。それは、父が子に道具を借りるという、新たな形の「信頼関係」を築くための、重要な瞬間だった。



---



 陽介の真剣な依頼に対し、翔はすぐに返事をしなかった。

 彼の顔には、一瞬にして、自分の領域を侵されることに対する強い戸惑いが浮かび上がった。ロードバイクの工具箱は、彼にとってただの道具入れではなく、部活の成績や日々の努力が詰まった、他者に触れられたくない彼の「城」そのものだったからだ。


(父さんが、僕の道具を? いつも庭で火遊びしてるくせに。自転車の専門的なことなんて分かるのか?)


 翔の頭の中で、警戒心が警鐘を鳴らす。


 しかし、陽介は翔の顔から目を逸らさず、ただ静かに、その返事を待っていた。陽介の表情は真剣そのもので、彼の趣味である庭の手入れと同じ、「道具と作業への敬意」に満ちていた。

 翔は、その父の瞳の奥に、かつて自分に向けられていたような、無関心や軽蔑の色が一切ないことを確認した。むしろ、陽介は自分の趣味を認め、その道具を最高の品質であると尊重しているように感じられた。


 この数ヶ月間、父が庭で道具を大切に扱い、芝生やハーブを丹念に育ててきた姿勢を、翔は傍で見ていた。父は決して、道具をぞんざいに扱う人間ではない。


 長い沈黙の後、翔は重い息を一つ吐き出した。


「……いいけど」


 翔はそう言いながら、ソファから立ち上がり、渋々といった様子で工具箱を開け、目的の防錆スプレーと超極細繊維のクリーニングクロスを陽介に手渡した。


「ただし、条件がある」


 翔は、父の目を見て、はっきりとした声で言った。


「使い終わったら、ちゃんと元の場所に戻して。父さんの工具箱に一緒に入れたりしないで。あと、キャップはしっかり閉めて、倒したりしないこと。これ、すごく高かったから」


 それは、父に対する信頼の表明であると同時に、道具の持ち主としての「責任」を父に課す行為だった。道具を借りるなら、その大切さを理解し、自分と同じレベルで管理する義務を負え、というメッセージ。


 陽介は、その言葉を聞き、内心で激しく感動していた。翔が道具を貸してくれたこと自体もそうだが、「ちゃんと元の場所に戻す」という、翔なりの線引きとルールを設けてくれたことが、嬉しかった。


「ああ、もちろんだ。約束する。お前の大切な道具だ、丁寧に扱うよ」


 陽介は力強く頷き、翔の道具を両手で受け取った。手のひらに伝わるその道具の重みは、彼が翔から得た、初めての明確な「信頼」の重みだった。



---



 翔から高価な防錆スプレーとクリーナーを受け取った陽介は、再び庭のロードバイクへと戻った。

 手が震えるのを感じたが、それは道具の扱いに失敗するかもしれないという不安ではなく、息子からの「信頼」という名の重圧と喜びによるものだった。


 陽介は、翔が言った通り、キャップを固く閉め、慎重にスプレーを吹いた。精密なギアの奥にこびりついていた錆は、ロードバイク専用のスプレーにかかると、驚くほど簡単に溶け出し、クリーニングクロスで優しく拭うだけで、金属本来の輝きを取り戻した。


(やはり、道具は適材適所だな。僕の園芸用とは大違いだ)


 陽介は、翔の道具の専門性と品質に感心し、一つ一つの作業を極めて丁寧に行った。

 彼の頭の中には、翔が要求した「ちゃんと元の場所に戻す」という言葉が響いていた。錆を完璧に落とし終えると、陽介は借りた道具を慎重に拭き上げ、すぐに翔の工具箱に戻した。陽介が勝手に中身を覗き込むようなことはせず、工具箱の蓋を閉め、借りる前と同じ状態に戻したことを確認した。


 陽介はリビングに戻り、翔に声をかけた。


「翔、終わったぞ。ありがとう、助かった。おかげで、奥の錆まで綺麗になったよ」


 陽介は、道具を返しに行くのではなく、「感謝を伝える」ために翔の元へ行った。


 翔は、陽介が道具を元の場所に戻したことを、音で察していたようだった。彼は無言で頷き、父の顔を一瞥してから、ロードバイクの様子を見に庭へ出た。陽介は、その場で静かに待った。評価を待つような、僅かな緊張感が漂う。


 翔は、錆が完全に消え、パーツが見違えるほど綺麗になっているのを確認し、満足した表情を浮かべた。


「……うん、ありがと。大丈夫、綺麗になってる」


 彼の言葉には、以前のような反発の色はなく、父が自分の「ルール」を守り、自分の趣味の道具を丁寧に扱ったことへの満足感が滲んでいた。


 陽介は、息子が自分の趣味を認め、その道具という形で「信頼」を置いてくれたことを深く喜び、より一層、庭の道具たちを大切にする意識が生まれた。この小さな「道具の貸し借り」は、言葉や強制ではなく、お互いの趣味を尊重し合うという、父子の新しい相互承認の形となった。



---



 ロードバイクの整備が終わり、翔が道具箱を抱えて家に戻ろうとした時、彼の視線がふと、庭の隅に置かれた陽介の「趣味の道具一式」に止まった。


 そこには、陽介が丁寧に磨き上げたミニ焚き火台、使い込まれたダッチオーブン、そして豆を挽くための小型のコーヒーミルが、整然と並べられている。以前の翔なら、それらを「非効率な父親の火遊びセット」と一蹴しただろう。

 しかし、今回、父が自分の高価な防錆スプレーを借り、それを預かった者の責任として完璧な仕事で返してくれたことで、翔の認識は完全に変わっていた。


 翔は、父の庭活動が、自分のロードバイクの整備と同じくらい、「道具」と「技術」を必要とする真剣な趣味であると、ようやく理解したのだ。


「父さん、そのコーヒーミル……結構、いいやつなんだな」


 翔は、陽介が普段使っている道具を指差して、初めて興味を示す言葉を口にした。


「ああ。挽き方を調整できるんだ。豆の種類によって変えるとな、味が全然違う」


 陽介は、息子の純粋な関心に驚きつつも、熱を込めて答えた。翔は、自分の自転車のギアの調整と同じく、父も道具の「微調整」を楽しんでいるのだと気づき、少し可笑しくなった。


 陽介の心の中には、確かな喜びが広がっていた。道具の貸し借りを経て、彼らの間には、「良い道具は、良い結果を生む」「道具は大切に扱うべきだ」という、共通の意識が生まれた。

 それは、リビングのソファで交わされる会話よりも、ずっと深い部分での相互理解だった。


(次は、僕の方から提案してみようか)


 陽介は、コーヒーミルを見つめる翔の横顔を見て、そう決意した。これまで陽介は、自分の趣味を家族に「見せる」ことで満足していたが、今はもう一歩踏み込みたくなっている。


「今度、お前の好きな銘柄の豆を買ってきて、このミルで挽いてみるか?焚き火台も、使い方を教えてやるよ」


 陽介が、自分の道具を息子に「使わせてみよう」という、積極的な「共有」のアイデアを提示した瞬間だった。

 翔は一瞬、驚いたように父を見返したが、すぐに口元を緩めた。その表情には、道具の貸し借りを越えた、新しい父子の関係が芽生え始めていた。

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