表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
3/32

42歳、草むしり

 土曜日の朝、午前8時過ぎ。

 陽介は目覚まし時計の音もなく、自然に目が覚めた。体が鉛のように重い。疲労が、彼を布団に縫い付けているかのようだった。目覚めても、すぐに起き上がろうという気力が湧いてこない。


 平日であれば、仕事という明確な目的と義務が、この重い体を無理矢理引き起こす。しかし、週末にはその「強制力」がない。

 彼は布団の中で、今日一日をどう過ごすか、と考えるも、頭に浮かぶのは「何もしたくない」という虚無感だけだ。


 昨夜、庭の椅子で得た微かな充足感は、まだ彼の心の底に残ってはいるが、週末という「自由な時間」が持つ、「何かをしなければならないのではないか」という重圧に、すぐに押し潰されそうになる。


 家族はすでに活動を始めていた。

 キッチンからは美和が朝食の準備をする軽快な音が聞こえ、リビングからはテレビのニュースと、子どもたちの笑い声が聞こえてくる。彼らには、今日という日をどう過ごすかという、明確な計画と目的がある。


 陽介だけが、この広い家の中で、「何もない」自分を持て余していた。


 陽介はなんとか体を起こし、リビングへ向かう。


 食卓では、すでに長男・翔が朝食を掻き込んでいる。自転車部所属の翔は、今日は午前から練習があるのだろう。


「早くしないと遅れるわよ」


 美和が声をかけると、翔は「わかってるって」と素っ気なく返し、しかし食事のスピードは落とさない。彼の体からは、汗と活力がにじみ出ているようだった。


 長女・咲は、スマホを見ながら、楽しそうに友達とのメッセージのやり取りをしている。


「今日、午後からショッピングモールに新しいタピオカのお店ができたから、行ってくるね」


 その言葉からは、流行と、友との交流を楽しむ「青春のエネルギー」が溢れていた。


 彼らを見ていると、陽介の胸に自己嫌悪が募る。


 翔は、目標に向かって邁進している。咲は、活発に社会と関わっている。美和は、家庭を支え、パートという社会との接点も持っている。


 それに比べて自分はどうか。仕事の鎧を脱いだ途端に、ただの「中身のない抜け殻」だ。趣味もなく、体力もなく、ただソファで横になり、スマホをスクロールして時間を潰すだけの存在。


「お父さん、またゴロゴロしてるの?」


 咲がスマホから目を離さず、半分冗談めかして言った。

 陽介はその言葉にグサリと刺されるが、反論の言葉を持たない。事実、自分は今、生産性のない「怠惰な大人」なのだから。


 朝食後、翔は部活へと元気よく出て行った。咲も、友達と合流するために身支度を整え始める。


 陽介は、ソファに座り、テレビを眺めるが、内容は頭に入ってこない。すぐにスマホを取り出し、ニュースアプリやゲームを開く。しかし、どの情報も、どのゲームも、彼の心を満たしてはくれない。


 このまま、昼までソファでダラダラ過ごし、昼食を食べて、また午後は昼寝。そして夕方になり、また「何もせず終わった週末」を後悔する。

 この悪循環が、彼の「いつもの週末」だった。


 陽介は、この「何もしていない自分」に対する自己嫌悪と、このままではいけないという漠然とした焦燥感に耐えられなくなった。この週末も、単なる疲労の蓄積と消失だけで終わらせたくない。


 彼は、ふと視線をリビングの窓の外、昨夜の避難場所だった庭へ向けた。荒れた芝生と、緑の濃い雑草の群れ。


 その雑草の姿に、「このままではいけない」という、昨日とは違う、「何かしなければ」という、彼の奥底に眠っていた「かつての責任感」が、微かに、しかし確かに刺激され始めた。

 それは、「強迫観念」としての義務感ではなく、「現状を変えたい」という、自発的な「小さな反抗の予兆」だった。



---



 陽介は、ソファから立ち上がり、窓辺へと移動した。荒れた庭が、彼の目に焼き付く。


 芝生はまばらになり、土が露出している部分が多い。その隙間から、生命力に満ちた雑草が、遠慮なく勢いを増していた。

 特に、目につくのは、駐車場との境目のコンクリートの隙間から、まるで地中深くに根を張って反抗しているかのように伸びる、濃い緑色の数本だ。


 彼は、その雑草を見て、なぜだか苛立ちを覚えた。それは雑草そのものへの怒りというより、この庭を放置している自分自身への苛立ちだった。手入れを怠れば、すぐに荒れ放題になる。

 それは仕事も、家庭も、そして自分自身の心も同じことだ。


 「これではいけない」という強迫観念ではなく、もっと純粋な「美意識」のようなものが、陽介を突き動かした。この荒れた一角を、少しでも元の姿に戻したい。


 陽介は、庭の様子から、遠い昔の記憶の残像を呼び起こされた。


 20代の頃。彼は、今の自分からは想像もつかないほど、活動的だった。仕事のストレスは、ジムや週末のアウトドアで発散していた。


(あの頃は、自分の時間を自分の意思で使っていたな…)


 彼は思い出す。友人たちと山へ行き、手つかずの自然の中で過ごした時間。テントを設営し、薪を割り、焚き火を起こす。すべての行動に目的と達成感があった。都会のルールや会社のノルマから解放され、自分の力で「生きている」感覚。


 それが、彼にとっての「自由」だった。


 しかし、その自由は、結婚、子育て、そして昇進に伴う責任の増加と共に、少しずつ、まるで潮が引くように消えていった。


 いつしか、アウトドアは「疲れるもの」「大変なもの」にすり替わった。家族連れでキャンプへ行けば、準備・移動・設営・子どもの世話で、陽介自身の休息は皆無だった。彼はその労力に耐えられなくなり、最終的に「もういいや」と、趣味そのものを手放してしまった。


 今、目の前の雑草の群れは、その諦めと、放置された「かつての自由」の象徴のように見えた。


 今の陽介には、あの頃のような大掛かりな活動をする体力も時間もないことはわかっていた。

 だが、昨夜、椅子に座って缶ビールを飲んだ時の、あの小さな開放感が、彼の背中を優しく押した。


「大きなロマンは無理だとしても、この小さな庭で、少しだけ、自分の手を動かしてみることはできるのではないか?」


 この「何かをしなければ」という義務感ではなく、「何かをしたい」という自発的な欲求が、長らく眠っていた陽介の心に、初めて芽生えた瞬間だった。


 それは、仕事でも家族サービスでもない、純粋に自分のための行動。


 彼は、その衝動に従うことにした。道具を探しに、階段下の物置スペースへ。折り畳み椅子があった場所のさらに奥。埃をかぶった段ボール箱の中から、古びた汚れた軍手をようやく見つけ出した。


 軍手に袖を通す。硬く、土と汗でゴワゴワした感触。それは、長らくデジタルな書類やキーボードしか触っていなかった陽介の手には、異物のように感じられた。


 そして、彼は、この小さな庭で、失った「自由と活動の感覚」を、雑草を抜くという極めて原始的な行為を通して、取り戻そうと決意するのだった。彼はリビングの家族に背を向け、庭へと踏み出した。



---



 軍手をはめた陽介は、リビングの窓に背を向けたまま、庭の隅にある、最も雑草が密集している一角にしゃがみ込んだ。


 芝生の隙間から、まるで地面を支配するかのように横に広がった、生命力の強い雑草。

 陽介は、これを引き抜くことに決めた。

 彼は、道具を使うことを選ばなかった。熊手も、小さなシャベルも使わず、ただ自分の五指と軍手の摩擦力だけを頼りにする。


 彼は深くしゃがみ込み、まず雑草の根元をしっかり掴んだ。


 指先に伝わる、土の湿った冷たさ。そして、雑草の茎の硬くザラザラした感触。長らくキーボードと書類、そして取引先の名刺の感触しか知らなかった陽介の手が、今、久しぶりに「生きているもの」に触れた。


「ふっ…」


 陽介は息を吐き、体重をかけながら、垂直に雑草を引き抜いた。


 ブチッ!


 乾いた、しかし確かな音が鳴る。根から引き抜かれた雑草は、土と共に、彼の手に残った。土の湿った、原始的な匂いが鼻を衝く。


 彼は、その一瞬の「抵抗と解放」の感覚に、強い満足感を覚えた。


 デジタルな仕事では、結果が出るまでに多くの人間関係、会議、そして時間がかかる。だが、ここでは、手を動かした直後に、目に見える結果が出る。


 この即時性が、陽介の疲れた脳に、新鮮な刺激を与えた。


 彼は無心になった。頭の中の「来月のノルマ」「高橋上司の視線」「家のローンの支払い」といった、日常の重苦しい懸念事項が、一瞬にして消え去った。彼の意識は、ただ一つに集中している。


 目の前の雑草の根を掴み、引き抜くこと。


 その作業は、まるで瞑想のようだった。しゃがむ、掴む、引く、捨てる。その単純な反復作業が、陽介の心を、複雑な思考から解き放った。汗が額から流れ落ち、腕と腰が痛み始める。


 しかし、この痛みは、デスクワークによる神経的な凝り固まった痛みとは異なっていた。それは、体が実際に使われていることを教えてくれる、健全な疲労感だった。


 陽介はさらに深く、芝生の根元に潜り込む、しつこい雑草の根を狙った。


 土に手を突っ込むと、さらに強く土の匂いがする。彼は、この匂いを嗅いだのがいつ以来か思い出せない。それは、子どもの頃の砂遊びや、若い頃のキャンプで感じた、懐かしい記憶と結びついた匂いだった。


 彼は、雑草を抜き終わった後の、指先に残る土のザラザラした感触、そして、抜き跡に残る、土が新しく露出した穴を見て、再び小さな達成感に浸った。


 彼が動かすのは、肉体だけではない。彼は五感を通して、「今、ここにいる」という実感を強めていた。スマホの画面から得る情報ではなく、自分の身体を通して得る、生の情報。


 30分ほど作業を続けただろうか。

 小さな一角だったが、彼の周りには、根のついた雑草の山が築かれていた。腰はもう限界だったが、作業を終えた後の「スッキリとした感覚」は、休日の昼寝では決して得られないものだった。


 陽介は、達成感と共に、その場に座り込んだ。この疲労こそが、自分が求めていた、仕事とは違う場所で得られる「健全な疲労」であることを、彼は確信した。


 この庭は、彼の心を休ませるだけでなく、彼の肉体に「活動」という名の栄養を与え始めたのだ。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ