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42歳のすみかは庭になりました  作者:
息子との交流

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29/53

42歳、充電の成果を発揮する

 週末の充実した庭活動を経て、週明けの陽介の仕事ぶりは、目覚ましいものがあった。

 芝生の手入れやハーブの栽培で培った集中力、そして何より心の底から得られたリフレッシュ効果が、彼の平日のパフォーマンスを大幅に押し上げていた。


 結果として、陽介は部長である高橋が設定した厳しい営業ノルマを、週半ばにしてクリアした。会議で彼の成果が発表されると、高橋は表面上は満足げに頷いた。


「佐藤くんの今回の成果は、大いに評価する。この調子で、常に高い効率を維持してもらいたい」


 しかし、ノルマを達成した陽介の心には、達成感とは裏腹の、依然として拭い去れない疲弊感が残っていた。


(効率、効率、効率…。結局、会社で求められるのは、この数字だけだ)


 ノルマを達成するために、陽介は週末の庭で得たエネルギーを、効率を追求する無機質な仕事に全投入した。

 その過程で、顧客との人間関係を犠牲にし、マニュアル通りの「最短ルート」だけを選び続けた。成果は出たが、まるで歯車の一部として自分をすり減らしたような感覚が残る。


 高橋の視線、そして会社全体の「効率至上主義」のプレッシャーは、陽介が庭で育てた「心の余白」を、平日のうちに削り取ってしまう。


 陽介は、会議室の窓から見える、わずかな緑の植え込みに目をやった。週末の静かな土の匂い、ハーブの爽やかな香りが、今の彼には遠い世界のように感じられた。


(この疲労感は、週末の「戦略的な充電」を、たった数日で使い果たしてしまった証拠だ。このままでは、また庭が『避難所』に戻ってしまう…)


 陽介は、効率を追求する仕事の場と、非効率を愛する趣味の場との間で、精神的なバランスを保つことの難しさを改めて痛感していた。

 そして、この「効率」という絶対的な価値観が、彼の個人的な空間にまで侵食してくるのは、時間の問題であるように感じていた。



---



 週明けの木曜日。

 陽介は高橋部長に呼び出され、個室に足を踏み入れた。ノルマ達成の報告のためだろうと、陽介は胸中でわずかに身構える。


 高橋は、陽介の成果が記載されたレポートを机に叩きつけ、満足げに口角を上げた。


「佐藤くんの成果は、この通り目覚ましい。評価する」


 しかし、すぐに表情は一変し、鋭い視線が陽介を射抜いた。


「だがな、佐藤くん。佐々木くんから、君が週末、庭で『遊び』に興じていると聞いているぞ」


 陽介の顔から血の気が引いた。

 佐々木は、陽介の庭遊びを面白がって、高橋に話したのだろう。しかし、高橋の口調は、趣味を許容するものではなかった。


「週末の庭での作業、焚き火、ハーブ…そういった活動は、ハッキリ言って『無駄な時間』だ。

 この競争社会において、君のような優秀な人材が、生産性のない活動に貴重な時間を費やすのは、会社にとっても君自身にとっても非効率極まりない」


 高橋は陽介を正面から見据え、畳み掛ける。


「君は、その時間で資格の勉強でもすれば、もっと効率的なキャリアアップが見込めるはずだ。プライベートの時間も、自己投資に充てるべきだ。

 私は、君のポテンシャルを信じているからこそ言う。無駄を削れ。効率を追求しろ。

 それが、40代が生き残る唯一の道だ」


 陽介は、高橋の言葉が、自分の「庭」という心のサンクチュアリにまで土足で踏み込んでくる感覚に襲われた。

 高橋の言う「効率」は絶対的な価値観であり、それ以外は全て「無駄」として切り捨てられる。陽介が庭で得た「心の余白」や「静かな満足感」といった、数値化できない価値は、この場所では一切認められない。


 高橋の介入は、もはや業務指導の範疇を超え、陽介の個人の生き方にまで及んでいた。以前の陽介なら、この圧力に委縮し、すぐにでも庭活動を自粛していただろう。

 しかし、ハーブの香りや、芝生を育てた達成感が、彼の背筋をわずかに伸ばした。


(高橋部長は、僕がこの効率を維持できている、そのエネルギー源こそが、庭の「無駄な時間」だということに、気づいていない…)


 陽介は、反論を飲み込み、高橋の冷たい視線を受け止めながら、自分の心の内に静かな「防御」を築き始めるのだった。



---



 高橋部長からの「無駄な時間」という厳しい批判は、陽介の心に突き刺さったが、以前のように彼を完全に委縮させることはなかった。

 その理由は、彼が週末、庭で土を触り、火を扱い、ハーブを育てていく中で、小さな成功体験を積み重ね、着実に育んできた「自己肯定感」が、心の奥深くに根を張っていたからだ。


(確かに、芝刈りや焚き火は、資格取得のような「効率的なキャリアアップ」には繋がらない。だが、だからと言って無駄ではない)


 陽介は、高橋の言葉に対し、心の中で激しく反論した。


(部長は知らない。週末の庭での「非効率」で、五感を解放するあの時間が、平日の僕の集中力、つまりこの部署の「効率」を支えていることを。あの土の匂い、炎の揺らめき、ハーブの香りが、僕という人間を消耗から救い、成果を生み出すエネルギーを充電しているのだ)


 陽介は、庭での活動が、仕事で高橋に求められる「効率」という機械的な歯車を回し続けるための、「戦略的な充電」であると強く認識した。自分の趣味は、逃避ではなく、仕事の成果を担保するための、積極的な生活戦略なのだと。


 陽介は深呼吸をし、高橋の氷のような目を見返した。表情は冷静そのものだった。


「ご指摘ありがとうございます、高橋部長」


 陽介の声は落ち着いていた。


「しかし、私にとって週末の時間は、平日の集中力、そして何より精神的な安定を高めるための、『戦略的な充電』だと認識しております」


 陽介は、あえて「戦略的」というビジネス用語を使うことで、高橋の価値観に一歩踏み込んで対抗した。「非効率」という言葉を、「戦略的な充電」というポジティブな言葉で上書きしたのだ。


「おかげで、今週は部長の期待を上回るノルマを達成できました。この『充電』がなければ、私は平日のパフォーマンスを維持できないかもしれません」


 陽介の返答は、感情論ではなく、実績に基づいた論理的な防御だった。

 高橋は、陽介の冷静さと、その言葉の背後にある確固たる自信に、わずかにたじろいだように見えた。


 陽介は、庭が与えてくれた「自信」という名の盾を手に、会社の「効率」という怪物と対峙できるようになったことを実感した。それは、42歳の自分にとって、新しい戦い方を見つけた瞬間だった。



---



 高橋部長との面談が終わり、陽介が重い足取りで会議室を出ると、廊下の隅で佐々木が待っていた。佐々木は陽介の様子を見るや、すぐににじり寄ってきた。


「佐藤さん、大丈夫ですか? 高橋部長、また趣味の話掘り返してましたよね」


 佐々木は、陽介が第三者の前でまで趣味を否定されたことに、自分の不注意があったと感じているようだった。


「ああ、佐々木くん。気にするな。君から話したんだろう?」


 陽介はそう言いながら、佐々木に対して怒りは感じなかった。むしろ、佐々木の表情には、陽介への心配と、高橋に対する反感がにじみ出ているように見えた。


「いや、僕も庭で焚き火の話とか、つい面白くて話しちゃったんですけど、まさかあんな言い方されるとは…。でも、佐藤さんのあの返答、シビれました!」


 佐々木は興奮した様子で、陽介の肩を軽く叩いた。


「『戦略的な充電』ですか!

 まさに、佐藤さんが提言した『余白の価値』そのものじゃないですか。あれは部長にも響いたんじゃないですか?」


 佐々木が、陽介が以前プレゼンで使った「余白の価値」という言葉を引用してくれたことに、陽介は驚きと共に深い共感を覚えた。佐々木は、ただのお調子者ではなく、陽介の哲学を理解し、共有してくれている。

 それは、会社という孤立した環境で、陽介の精神的な支えになっていた。


 佐々木は声をひそめて続けた。


「実は僕もですね、先週末、真似して庭で焚き火やってみましたよ。ミニ焚き火台、買っちゃいました!

 マジで頭の中がリセットされますね。

 高橋さんには、ああいう『非効率がもたらす豊かさ』は、一生分からない世界ですよ!」


 佐々木は目を輝かせながら、自分の新しい趣味を打ち明けた。陽介は、自分一人の活動だと思っていた庭遊びが、同僚との間に「趣味の連帯感」を生み出していることに、胸が熱くなった。


 高橋の批判によって生じた心の溝は、佐々木の共感と連帯によって、埋められ、むしろ強固なものとなった。

 陽介は、自分の「余白」という新しい価値観が、社内にも味方を作り始めていることに、静かなる勝利を感じた。



---



 佐々木との連帯感を深めた後、陽介は自分のオフィスに戻り、静かに考えを巡らせた。高橋からの圧力は強かったが、それを撥ね退けたのは、単なる気の強さではない。


(庭での経験が、仕事での僕を支えている。これは単なる気分転換なんかじゃないんだ)


 陽介は、庭での活動が、仕事と相互に作用し合っていることを発見した。


 まず、精神的な防御力。

 以前の陽介なら、高橋の「無駄」という言葉に打ちのめされ、二度と趣味を口にできなくなっていただろう。

 しかし、芝生を育てるという「結果が出るまで時間がかかる」非効率な作業を通じて、陽介は「短期的な効率」だけが世界の全てではないという、確固たる価値観を内面に築き上げていた。

 その自立した価値観こそが、高橋の絶対的な「効率」という価値観に対する、強力な防御の盾となった。


 次に、言葉の「深み」と「説得力」。

 高橋に「戦略的な充電」と返答できたのは、庭で五感をフル活用し、生命の営みという抽象的なものと向き合ったからだ。「余白の価値」という概念は、単なるビジネス書からの引用ではなく、彼自身の人生経験、つまり庭での静かな時間から生まれた、血の通った言葉になっていた。

 だからこそ、佐々木にも深く響き、高橋をも一瞬たじろがせる説得力を持ち得たのだ。


 陽介は、この「相互作用」の発見に大きな自信を得た。


(僕は、高橋部長の「効率」という絶対的な世界に、自分の「余白」という新しい価値観で対抗できるようになった。庭は、僕の人生の「逃げ場」ではなく、「土台」だ)


 この確信は、陽介にとって大きな転機となった。庭活動は、家族との距離を縮めるだけでなく、仕事のフィールドにおいても、彼のアイデンティティと戦闘力を高めるための、強力な源泉となったのだ。


 陽介は、週末の太陽と土の匂いを思い出し、穏やかな自信とともに、午後の仕事に取り掛かった。

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