42歳、芝刈り
会社での小さな勝利と、佐々木との連帯感、そして何よりも家族からの静かな肯定を得て、陽介は深い満足感に包まれていた。彼の趣味は、もはや週末の「現実逃避」ではなく、彼の人生を支える確固たる柱になっていた。
陽介の活動の舞台である庭は、最初の「土鍋飯」の頃とは見違えるほど手入れされていた。苔は消え、鉢植えはセンス良く配置され、コンクリートの叩きは清潔だ。
次に彼の注意を引いたのは、以前から見て見ぬふりをしていた、家の裏手にある小さな芝生だった。
かつては放置され、雑草とまばらな芝が混在し、見てくれの悪い一角だった。
陽介は、この「荒れた余白」に手を加えたいという、強い愛着のようなものを感じ始めていた。それは、仕事のノルマをこなす義務感とは全く異なり、自分の生活空間をより良いものにしたいという、純粋な創造的な意欲だった。
陽介は、週末の朝、美和に内緒でホームセンターへ向かった。そして、これまで躊躇していた芝刈り機をレンタルすることにした。電動式で、高橋上司が好きそうな「効率的」な道具だが、今回はその道具を「自分の愛着の対象」のために使うのだ。
彼の心の中には、完成した後の、均一に整えられた芝生の上で、美和と咲と翔が思い思いの時間を過ごす光景が、ぼんやりと描かれていた。
それは、庭を「自分の避難所」から「家族が自然と集まる空間」へと昇華させたいという、陽介の新たな、そして最も重要な目的の現れだった。この芝生の手入れは、そのための、物理的な第一歩となる。
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レンタルした芝刈り機は、陽介の予想以上に大きな音を立てた。休日の朝、リビングに響き渡る「ブォーン!」という機械音は、静かにそれぞれの時間を過ごしていた家族に、否応なく「父の存在」を意識させた。
リビングでは、美和がコーヒーを飲みながら雑誌を読んでおり、翔はヘッドホンをしてゲームに集中し、咲はソファでスマホをいじっていた。
芝刈り機のけたたましい音が、彼らのプライベートな空間に唐突に割り込んできたのだ。
翔は一瞬ヘッドホンを外し、苛立たしげに窓の外を見た。父が庭で汗だくになって、芝刈り機を押している。
しかし、その苛立ちはすぐに収まった。父の行動は「騒々しい」が、それは「遊び」であり、以前のような重苦しい「気配」ではないことを、翔は無意識に理解していた。
美和は、窓の外の陽介の背中を見て、小さく微笑んだ。
「また、何か始めたわね」
その言葉には、かつてのような冷笑や諦めは含まれていなかった。むしろ、自分の機嫌を自分で取る手段を見つけ、いきいきと活動する夫に対する微笑ましい愛情と、小さな安心感が込められていた。彼女にとって、この騒音は「夫が庭で健全に活動している証拠」であり、リビングの静寂よりもよほど心地よい「生活音」に変わりつつあった。
陽介は、家族の視線を感じる余裕もなく、芝刈り機のスイッチを押す。大きな音と振動が、仕事のストレスと、長年の家庭での疎外感を、物理的にかき消してくれるようだった。
彼は、この騒音によって家族が「自分を無視できない」状況にあることを知りつつ、その上で彼らが「静かに見守る」というルールを破らないことに、感謝と満足を覚えていた。
庭という空間が、音を通じて、確実に家族の中心に食い込んできていた。
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芝刈り機による騒音の嵐が過ぎ去ると、庭には刈り込まれた芝生の清々しい匂いと、静寂が戻ってきた。
陽介は、芝生全体が均一に整えられたことに満足し、最後に隅の方にある小さな雑木や伸びすぎた植え込みの枝を、ハサミを使って手作業で剪定し始めた。
その時、リビングの掃き出し窓に、家族の姿が映し出されていることに陽介は気づいた。
これまでの家族の観察は、個々バラバラで、リビングのカーテンの隙間から「チラ見」する程度のものだった。
しかし、今は違った。
美和、翔、咲の三人が、まるで静止画のように、並んで窓際に立っている。三人の視線は、一様に庭の隅で黙々と作業する陽介に注がれていた。
誰も口を開かない。芝刈り機のような大きな音はないが、この三人の視線が集中していることが、
陽介にとって、先ほどの騒音よりもずっと強い「存在感」となって迫ってきた。
翔は、ゲームのコントローラーを手に持ったまま、その動きを止めていた。咲はスマホを操作する手を休め、眉をひそめながら、父の剪定作業を見つめている。美和は、いつもの穏やかな表情で、陽介を見つめていた。
その瞬間、陽介の体には緊張が走ったが、すぐにそれは心地よい感覚へと変わった。彼が庭で行っている作業は、もはや「隠れてする奇行」ではない。家族にとって「気になる、視線を向けるに値する活動」へと昇華しているのだ。
この集中した視線こそが、彼が求めていた「家族との共有」の最初の具体的な兆候だった。物理的な距離はあれど、心理的な距離は、この芝生と剪定という行為を通じて、かつてなく近づいていた。
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陽介が、古い軍手をはめたまま、植え込みの枝の剪定に集中していると、背後からかすかに床がきしむ音が聞こえた。
リビングの窓を開け、翔が庭のコンクリートの叩きに出てきたのだ。
陽介は驚き、ハサミの動きを止めて振り返った。翔は、ゲームのコントローラーをソファに置いてきたようで、手ぶらだった。
いつもなら父とは一定の距離を保つ翔が、陽介に向かってまっすぐ歩み寄ってくる。
翔は、陽介の前に立ち止まると、その顔を見ることもなく、陽介の手元、そして陽介がはめている軍手を見つめた。陽介の軍手は、苔掃除や土鍋の準備で酷使され、泥と油で黒ずみ、指先には小さな穴が開きかけている。
「……お父さん」
翔は、陽介に直接話しかけた。その声は、以前の純粋な好奇心から来る質問とは違い、わずかな戸惑いと実用的な意図が混じっていた。
「ん?どうした、翔」
翔は、言葉少なに、その手にあるものを陽介に差し出した。それは、美和がホームセンターで買ってきて、玄関の収納にしまい込んでいた、鮮やかな新しい黄緑色の軍手だった。
「お父さん、それ、汚れてるよ。お母さんがこの前買ってたやつ」
これは、翔が初めて父の庭の活動に「実用的な形で干渉」した瞬間だった。これまで家族は「見守る」というルールを固く守っていたが、翔は、父の活動そのものを否定せず、父の作業に必要な「道具」を通じて、助けを差し伸べたのだ。
それは、父が趣味に没頭するための「承認」であり、道具という共通項で繋がれた、最も明確な愛情表現だった。翔と陽介の間の距離はまだわずかに隔たっているが、この新しい軍手が、二人の間の心理的な壁を取り払う橋となった。
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翔から差し出された、まだタグのついた真新しい黄緑色の軍手。陽介は、一瞬ためらった後、素直にそれを受け取った。
「…ありがとう、翔」
陽介の言葉は、かつての遠慮や気まずさを含まず、純粋な感謝の響きを持っていた。翔は、その「ありがとう」に答えず、ただ微かに頷くと、再びリビングへ戻っていった。その行動は、照れ隠しであり、しかし同時に、父の活動への確かな関与の痕跡を残していった。
古い軍手を外し、真新しい軍手に袖を通す。固く張りがある生地は、陽介の心に新しい感触を与えた。その手には、息子からの無言の承認と、家族との繋がりが確かに宿っている。
陽介は、翔が去った掃き出し窓を一瞥した。美和と咲の姿はもう見えない。しかし、彼らの視線が自分に向けられていた事実は、揺るぎない。この瞬間、陽介は確信した。
庭はもはや、高橋上司や会社社会から逃れるための、彼一人だけの「避難所」ではない。
それは、家族の視線が集まる、そして息子が実際に一歩踏み出して関与してくれた「共有空間」へと、その性質を完全に変えたのだ。
「家族は干渉しない」というルールは、翔が軍手を差し出すという実用的な一歩によって、幸福な形で破られた。陽介の「自己保全」から始まった庭遊びは、これまでの過渡期を経て、家族全員の意識に影響を与える「共有の趣味」へと昇華した。
庭は、今、きれいに刈り込まれた芝生のように、次のステップへ進む準備が整っている。陽介は、新しい軍手をはめた手で剪定バサミを握り直し、心の中で静かに宣言した。
(よし、ここからだ。次は、家族がもっとこの庭に出たくなるような、そんな空間を作ろう。)
家族が直接興味を持ち、庭の活動に関与し始める時期の幕が、静かに開いた。




