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42歳、マグカップで飲む

 佐々木の訪問があった翌日、美和はリビングでコーヒーを飲みながら、改めて夫の庭での活動について考えていた。

 佐々木が帰る際に言った「非効率な贅沢」という言葉が、頭の中で反芻される。


 最初の頃、陽介が庭でゴソゴソ何かを始めた時、美和は正直、「現実逃避の延長」「みっともない趣味」だと冷めた目で見ていた。夫の心が会社で折れそうになっていることのサインだと、内心では心配しつつも、どう干渉していいかわからず、ただ見守るしかなかった。それが、「外から見るだけ」というルールを自然と形成していた。


 しかし、土鍋ご飯の成功、高圧洗浄機を使った手入れ、そして何より昨夜の佐々木との楽しそうな交流を見て、美和の評価は大きく変わった。陽介の活動は、単なる「現実逃避」ではない。ストレスを燃焼させ、新しい道具を学び、そして佐々木のような人間と健全なコミュニケーションを取るための、不可欠な「リフレッシュ」の場になっている。


 陽介が庭にいるとき、家庭内の空気も以前よりずっと安定していることに、美和は気づいていた。陽介の顔つきが穏やかになり、家族との会話にも以前のような疲弊した影が薄れている。


 美和は、陽介の趣味を「奇行」として扱う段階は完全に終わったと悟った。これからは、彼の活動を「家族を支えるための重要な行為」として、積極的に、しかし陽介の自主性を尊重した静かな方法で承認し、支援していくべきだと結論付けた。この静かな承認こそが、陽介にとって最も必要なものであり、美和なりの家族との共有への第一歩だった。



---



 陽介は、庭で使う道具の選定と管理において、無意識のうちに厳格な境界線を引いていた。


 特に、美和や子どもたちがリビングで日常的に使う家族の領域の道具を、庭の自分の領域に持ち込むことは断固として避けていた。

 彼の食器棚には、庭用と銘打たれた一角がある。そこには、以前のキャンプで使い古したプラスチックのコップ、百円ショップで買った小さくて薄い陶器の皿、錆びついたフォークなどが無造作に押し込まれている。


 それは、庭で何をするにしても、家族の生活に迷惑をかけないという陽介なりの配慮であり、同時に「どうせ趣味の道具なんて」という自己卑下の現れでもあった。もし家族の高級な食器を庭に持ち出し、誤って割ってしまったり汚してしまったりしたら、それこそ妻の不興を買う最大の原因になる。


 だから、夜、庭で晩酌をする際も、彼が手に取るのは決まって、軽くて、少々雑に扱っても問題のないプラスチックのコップだった。そのコップで飲む缶ビールは確かに美味しかったが、プラスチック特有の安っぽい触感と、飲み口の厚みが、陽介の心のどこかに「一時的な遊びだ」という制限を課していた。


 彼の庭遊びは、道具の選択からして、どこまでも家族の日常から切り離された、孤立した空間に留まっていた。

 この境界線を曖昧にすることは、陽介自身、家族からの暗黙の「干渉なし」というルールの崩壊を意味するようで、恐れていたのだ。庭の道具が粗末であることは、彼の趣味がまだ家族にとって「非公式」であることを示す、物理的な証拠だった。



---



 その日の夜、陽介は疲れて帰宅し、いつものようにリビングでの会話もそこそこに、庭へと向かった。早くあの小さな焚き火台の火を見て、ビールを飲みたい。

 それが、一日の終わりの唯一の楽しみになっていた。


 庭に出ると、折りたたみ式のテーブルの上に、いつものプラスチックのコップと、アルミ缶のビールが並べてある。いつもの光景だ。陽介はコップに手を伸ばしたが、指先に触れた質感に違和感を覚えた。


 それは、プラスチックではなかった。

 彼は目線を落とし、ハッとした。そこにあったのは、リビングの食器棚の一番奥、美和が来客用に大切にしている、少し洒落た陶器製のマグカップだった。素朴な白地に青のラインが入った、手触りの良い一品だ。陽介が庭で使うことを躊躇していた、「家族の領域」の道具そのものだった。


 陽介はマグカップを手に取った。ずっしりとした重みと、土の温かみを感じる。


「……え、これ、使っていいのか?」


 陽介は立ち上がり、思わずリビングの美和に向かって声をかけた。美和はキッチンで食器を片付けている最中で、振り返りはしなかったが、やがて水が止まり、声が返ってきた。その声には、冷たさも、過度な優しさもなく、ただ淡々としていた。


「いいけど。割らないようにね。」


 それだけだった。

 美和は、マグカップを庭に持っていくことの是非や、陽介の趣味について何も語らなかった。ただ、「割るな」という一言で、その道具が「価値あるもの」であり、陽介の庭の時間が粗末に扱っていい遊びではないことを静かに伝えた。


 陽介はマグカップを握りしめたまま、庭に立ち尽くした。これは、これまで美和から受けたどの具体的な褒め言葉よりも、深く、重い承認の行為だと感じた。


 彼は、マグカップをテーブルに戻し、ビール缶を開けた。境界線は、美和によって静かに、しかし決定的に、取り払われた。



---



 陽介は、マグカップにビールを注いだ。いつもなら、缶から直接プラスチックのコップに注ぎ、一気に流し込む。それが彼にとっての「効率の良い」飲酒だった。しかし、今は違う。


 陶器のマグカップは、ビールが注がれたことで、ほんの少し冷たさを帯びた。

 それを両手で包むと、心地よい重量感と、温かい土の感触が、手のひらに伝わってくる。

 ビールを一口。

 グラスとは違う、厚めの飲み口で飲むビールは、口当たりがまろやかで、香りが鼻腔をくすぐる。それは、これまで庭で飲んでいたどのビールよりも、格別に美味しかった。


 陽介の心臓は、静かに、しかし力強く鼓動していた。美和は、このマグカップを庭に持ってくることで、何も言わず、彼の趣味を「家族の財産を使うに値する、ちゃんとした活動」として認めたのだ。これは、彼が庭遊びを始めて以来、家族から受けた最高の静かな承認だった。


 かつて、庭で使う道具は消耗品であり、隔離されたものでなければならないという強迫観念が陽介にはあった。それは、彼自身の「趣味なんて、どうせ会社の役に立たない無駄なものだ」という自己否定の裏返しでもあった。しかし、美和がリビングの食器棚から、大切なマグカップを差し出した瞬間、その自己否定の壁が崩れ去った。


 陽介の庭での時間は、最早「現実逃避の隅っこ」ではない。家族の日常と地続きの、価値ある時間なのだ。このマグカップの「内部昇格」は、陽介自身の自己肯定感の昇格と同義だった。

 ビールが美味いのは、陶器の性能だけではない。家族の信頼という、見えないスパイスが効いているからだ。彼はマグカップを大事そうに傾けながら、その重みを噛みしめた。



---



 陽介が陶器のマグカップでビールを飲み干した後、彼はそのマグカップを大切に洗い、キッチンへ戻した。いつもなら、庭用のプラスチックコップは、専用の道具箱に無造作に戻されるだけだ。


 キッチンに立つ美和は、陽介がマグカップを洗い、食器乾燥機に入れるのを、静かに見つめていた。その行動は、陽介の庭での時間が、家族の日常のルーティンに組み込まれた瞬間を意味していた。


 これまで、陽介の庭遊びは、生活空間から隔離された「特区」だった。

 しかし、美和の差し出したマグカップは、その特区とリビングという家族の空間を繋ぐ、一本の細い橋になった。


 美和は、あえて「今日からこれを使いなさい」とは言わなかった。ただ、「割らないように」という注意を添えることで、彼に選択の自由を与えた。

 陽介は、このマグカップを使うことで、美和の承認を物理的に感じ、庭の活動に責任と価値を見出した。


 この瞬間、物理的な距離は変わらないが、陽介が引いていた心理的な境界線は大きく取り払われた。庭は、最早、彼一人の避難所ではない。

 家族の「使うもの」の領域にまで触れ、家族の美意識や配慮が微かに交差する、拡張された「家族空間」へと統合され始めたのだ。


 陽介は、洗い終わったマグカップの水滴を眺めながら、満足感に満たされた。これは、一方的な干渉ではなく、美和からの「静かなる共有の提案」だった。

 最初のフェーズの「外から見るだけ」というルールは、形骸化し、次の段階、すなわち「家族が実用的な形で陽介の趣味に関わり始める」というフェーズへの明確な布石が打たれたのだった。

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