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42歳、豆を挽く

 会社での「効率」の圧力に打ち勝ち、庭の「余白」の価値を再認識した陽介は、週末を心待ちにしていた。彼の庭での活動は、料理や焚き火といった「火」を使うものから、より静かで繊細な「儀式」へと興味の幅を広げ始めていた。


 ある日の昼休み、いつものように桜井慎のキャンプ動画を見ていると、彼の目に止まったのは、手回しのコーヒーミルだった。


 動画の中で、桜井は、電動ミルではなく、あえて手動のミルで豆を挽きながら、静かに語っていた。


「手間をかけることは、面倒くさいことじゃない。それは、贅沢な時間そのものだ」


 その言葉が、陽介の胸に深く響いた。会社では、すべてをデジタル化し、一秒でも速く、無駄なく結果を出すことが求められる。しかし、庭では違う。手間をかけること、時間をかけることこそが、心の豊かさにつながる。これは、彼が庭で見つけた、「効率至上主義」への静かな反抗心を刺激する、魅力的な哲学だった。


(そうだ、コーヒーを飲むという日常の行為を、あえて非効率な儀式に変えてみるのはどうだろう?)


 彼はすぐにネットで、桜井が使っていたものと似た、少し武骨なデザインのコーヒーミルを探し、衝動的に購入した。


 道具への投資を、もはや美和に合理化して説明する必要は感じていなかった。これは自分の精神的な健康のための、必要不可欠な「非効率への投資」であると、陽介自身が確信していたからだ。


 金曜日の夜。陽介は届いたばかりのミルを机に置き、そのずっしりとした重みを感じた。週末の朝、庭でコーヒー豆を挽く音を想像しただけで、仕事の疲れが半分ほど消え去るような気がした。 


 彼の庭遊びは、また一つ、新しい「儀式」を手に入れようとしていた。



---



 土曜の朝。家族がまだ起き出してこない静かな時間に、陽介は庭へ出た。


 コンクリートの叩きに小型の折りたたみテーブルを出し、その上にコーヒーミルと、新しく買ったばかりの豆、そしてマグカップをセットする。すべてが、デジタルとは無縁の、アナログな道具たちだ。


 豆を計量し、ミルに投入する。そして、ゆっくりとハンドルを回し始めた。


「ゴリゴリ、ゴリゴリ…」


 均一な、リズミカルな音が、まだ冷たい朝の空気に響き渡る。この音は、会社でのキーボードを叩く音や、高橋の神経質な指示とは全く違う、「手間をかける喜び」を伝える音だった。陽介は、ハンドルを回す手の感触に集中した。豆が少しずつ砕けていく、小さな抵抗と、それに打ち勝つ自分自身の体の動き。


 数分後、ミルから立ち昇るコーヒーの香りが、庭全体に静かに広がった。その香りは、週末の安らぎと、手作業が生み出した満足感の証だ。


 挽き終わった豆をフィルターに移し、お湯を丁寧にドリップする。細く、優しく注がれたお湯が、豆の粉を均一に湿らせ、ふっくらと膨らむ。


(ああ、これだ。この「非効率」な時間こそが、俺には必要なんだ。)


 ドリップが終わったコーヒーを、陽介は一口飲んだ。舌に広がる深煎りの苦みと、その奥にあるほのかな甘み。電動ミルで一瞬で粉にしたコーヒーでは決して得られない、至福の瞬間だった。彼は、デジタルな仕事から完全に解放され、「手間をかけた」分だけ得られた、純粋な喜びと贅沢を噛み締めた。



---



 陽介が至福の瞬間を味わっていると、リビング側のガラス戸が、静かに、しかし確実に開く音がした。


 コーヒーの香りに誘われたのか、息子の翔だ。


 しかし、翔は陽介がいるコンクリートの叩きには近づいてこなかった。いつものように父の活動を遠巻きに観察するのではなく、彼は庭の隅—自分専用のスペースとして使っている自転車置き場—へ向かった。


 翔は、お気に入りのロードバイクを引っ張り出し、整備を始めた。陽介の「ゴリゴリ」というコーヒーミルの音に代わり、今度は翔が自転車のチェーンにオイルを差す「カチャカチャ」という小さな金属音が庭に響き始めた。


 陽介は、マグカップ越しにその様子を静かに見つめた。


 翔は、父の活動を否定も肯定もせず、ただ、父が趣味に没頭しているように、自分もまた自分の趣味を、「庭」という共通の空間で始めたのだ。


 以前なら、陽介が庭で活動している間、家族は室内でテレビやゲームに没頭し、陽介の存在を透明な壁の向こうに置いていた。しかし今、翔は自らその壁を越えて、陽介と同じ空間に「自分の時間」を持ち込んできた。


 翔の行動は、陽介の活動が「変なこと」ではなく、「没頭できる何か」として、もはや彼の邪魔にならないと認識されていることを示していた。翔は父の静かな存在を、自分の集中を妨げない「安全な背景」として受け入れ始めている。


 コーヒーの香りと、機械の整備のオイルの匂い。二人の男の趣味の匂いが、初めてこの庭で混ざり合った瞬間だった。



---



 庭の片隅では陽介がコーヒーの熱と香りを堪能し、その対角では翔が自転車のチェーンをカチャカチャと弄っている。


 二人の間に会話はない。互いに目を合わせることもない。しかし、彼らは明らかに同じ空間を共有していた。


 陽介にとって、この静かな時間は、これまで経験したことのない「共有」の形だった。かつて孤立していた頃は、庭に出るたびに家族からの冷たい視線や「また始まった」という無言のプレッシャーを感じたものだ。


 しかし、今、翔は父の存在を気にすることなく、むしろ父がそばにいることで安心して自分の作業に集中しているように見えた。


(俺がここにいることが、翔にとって邪魔ではないどころか、安全な空間になっている…?)


 陽介は、翔が工具を丁寧に使う手つきを見ながら、そう感じた。彼が趣味に没頭し、穏やかな表情でいることが、翔にとって「父は変人ではない」「父は今、怒ったりしない」という確かなメッセージになっているのだ。


 翔もまた、父の横顔に時折視線を向けた。父は、いつもの疲れたサラリーマンの顔ではない。自分で挽いたコーヒーを飲み、満足げに微笑んでいる。その姿は、子供の頃、家族でキャンプに行った時、焚き火の前で穏やかに笑っていた、昔の父親の姿に近かった。


 二人は、それぞれの趣味の音と香りに包まれ、無言のうちに心理的な距離を縮めていた。言葉を交わさずとも、互いの「没頭できる時間」を承認し合っている。

 それは、陽介が望んでいた家族との「緩やかな共有」の、最初の確かな一歩だった。



---



 リビングのキッチンにいた美和は、窓越しに庭の様子を眺めていた。


 コーヒーの香りが微かにリビングにも流れ込み、彼女の頬を緩ませた。陽介と翔が、庭という空間で、それぞれの活動に没頭している。陽介はマグカップを手に、満足そうな顔でコーヒーを味わい、翔はロードバイクの精密な部品に集中している。


(まさか、こんな日が来るなんて。)


 以前、陽介が庭にキャンプ道具を持ち出し始めた頃は、美和にとって彼の行動は「現実逃避」であり、家族から孤立するための「壁」を築いているように見えた。彼は疲弊し、庭で一人、外界から身を守るために引きこもっていた。


 しかし、今は違う。陽介の活動は、翔をリビングから庭へと引き出す「磁力」になった。二人は会話をしないが、同じ空間で、同じ時間を共有している。それは、夫婦間にも、そして父子間にも長い間存在していた、心理的な「分断」が、緩やかに修復され始めているサインだった。


 美和は、この「言葉のない共有」こそが、今の家族にとって最も必要なことだと感じた。陽介が孤立することなく、自己肯定感を取り戻し、そして息子が父親の存在を穏やかに受け入れている。


 彼女は、コーヒーミルの音と、自転車の整備音が混ざり合う庭に、静かな安堵と、この小さな変化が家族全体にもたらす未来への淡い期待を抱いた。美和は、二人の邪魔をしないよう、静かに窓から目を離し、キッチンで自分の朝の家事を再開した。

 彼らの時間は、彼らのものだ。しかし、その時間は、確かに家族の空間に流れ込んでいる。

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