42歳、庭でビールを飲む
椅子に深く腰掛けていた陽介は、再び静かに立ち上がり、勝手口へ向かった。
戻る際、彼は冷蔵庫からキンキンに冷えた缶ビールを一本取り出す。美和の視線がキッチンから届かないことを確認し、そっと缶をジャケットの内ポケットに隠す。
この瞬間、彼はまるで秘密基地にこっそり食料を持ち込む少年のように、わずかな高揚感を覚えていた。
椅子に戻り、再び深く座る。
プルタブを「プシュッ」と開ける、あの小気味良い音。その音は、リビングのテレビの音や家族の話し声とは明らかに異なる、彼の世界だけの音だった。
缶を傾け、一口飲む。
冷たい液体の刺激が、まず喉の奥を突き抜ける。そして、胃に流れ込む瞬間の、熱を帯びた身体が冷やされていく感覚。
この感覚が、一日の終わりを告げる儀式のように、陽介の細胞の隅々まで染み渡る。
「うまい……」
彼は声に出さずに呟いた。
このビールは、リビングで家族と飲むいつものビールと同じ銘柄だ。
だが、この夜の闇と、この椅子の上で飲むそれは、格別の味がした。それは、仕事の後のご褒美ではなく、「自分を取り戻したことへの祝杯」だった。
陽介は習慣で、ズボンのポケットからスマートフォンを取り出しかけた。
仕事のメールチェック、ニュースアプリ、あるいはただのSNSのスクロール。
家での彼の主な時間の使い方は、この小さな画面を見つめることだった。それは休息であると同時に、脳の疲労を加速させる行為でもあった。
しかし、今夜は違った。
彼はスマホをジャケットのポケットに戻す。ランタンのような人工的な光がないため、暗闇の中で画面を凝視しても、光が強すぎて落ち着かないだろう。
「何もしない」。
彼はその目標を自分に課した。缶ビールを握りしめたまま、ただそこにいる。
すると、普段なら全く意識しない、庭を囲む世界から、様々な音が聞こえてきた。
遠くを走る車のエンジン音。隣家の風呂場から聞こえる微かな給湯器の作動音。そして、庭の芝生や植え込みの奥から聞こえる、虫の鳴き声。
それらの音は、仕事の喧騒や家庭の賑やかさとは異なる、静寂に包まれた「自然の背景音」だった。
陽介は目を閉じ、それらの音を一つ一つ拾い上げた。まるで、疲れた脳がようやく、聴覚という単純な機能だけに集中して休んでいるような感覚。
椅子に座っていると、昔の記憶が微かに蘇ってきた。
若かった頃、友人とテントを張り、夜通し焚き火を囲んだこと。大袈裟な道具を運び、泥まみれになりながらも、その不便さ自体を楽しんでいたこと。あの頃の自分にとって、アウトドアは「非日常への挑戦」であり、「ロマン」だった。
しかし、結婚し、子どもが生まれ、責任が増えるにつれ、そのロマンは消滅した。キャンプは「労力」となり、疲労だけが残るイベントになった。
だが、今はどうだろう。
彼は大袈裟なテントも、高価なバーナーも持っていない。あるのは、安物の折り畳み椅子と、缶ビールだけだ。
それなのに、彼は今、極上の安らぎを感じていた。疲弊しきった42歳の彼にとって、求めているのはロマンでも挑戦でもない。ただ、この「何もしない静かな時間」。
この椅子に座るという「小さな工夫」だけで、日常から切り離された「小さな開放感」が手に入った。この瞬間、陽介は、この庭の隅が、彼の心のエネルギーを再び満たし始める、最初の場所になることを直感的に悟った。
彼は缶ビールを飲み干し、再び深く、夜の闇にその身を預けた。
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陽介が椅子に座り、缶ビールを飲み干したとき、彼の背後のリビングの窓のカーテンが、ごくわずかに揺れた。
佐藤美和は、キッチンの片付けを終え、リビングのソファに戻ろうとしていた。その瞬間、窓の外、暗闇の中にいる夫の姿が、ふと気になった。
普段なら、帰宅した陽介はすぐに風呂に入り、自室かリビングの隅でスマホをいじる。彼がリビングの団欒に入ってこないのはいつものことだが、庭にいるのは初めてだった。
彼女は家族に悟られないよう、静かに窓際へ寄り、厚手のカーテンの隙間を、人差し指一本分だけ開けた。
暗闇に座る陽介の背中が見えた。
彼は動かない。
ただ、折り畳み椅子に深く沈み込み、空を見上げているようにも、ただ目を閉じているようにも見えた。彼の隣には、空になった缶ビール。彼の周りには、ランタンすらない、完全な闇だけだ。
美和は、彼の姿を見て、胸の奥がきゅっと締め付けられるような、複雑な感覚を覚えた。
美和は、現在の無口で疲れ切った陽介と、結婚当初の活発で好奇心旺盛だった陽介とのギャップを思い返す。
二人が結婚したのは、まだお互いに20代後半だった頃。
当時の陽介は、本当にアウトドアが好きで、週末になると友人や美和を誘って、山へ海へ出かけていた。泥だらけになって笑い、焚き火の煙に燻されても楽しそうだった。彼は、その活動的な趣味を通して、仕事のストレスを燃焼させていた。
あの頃の彼の瞳には、いつも生命力に満ちた輝きがあった。
しかし、長男・翔が生まれ、長女・咲が生まれ、住宅ローンを組み、会社での責任が重くなるにつれ、その趣味は徐々に、そして決定的に消滅していった。道具は物置の奥深くにしまい込まれ、週末は「疲れているから」と、ただソファに横たわるか、スマホを見つめるだけになった。
美和は理解していた。
陽介は、家族のために、自分の楽しみを犠牲にしてきたのだと。だが、その結果、彼は「陽介という個」を失い、ただの「家族を養う機械」になってしまったのではないか、という不安が常にあった。
そして、今。陽介は、何の照明もない庭の隅で、折り畳み椅子に座っている。その行動は、美和にはまるで、孤独な反抗か、あるいは最後の抵抗のように見えた。
美和の胸の中で、二つの衝動がせめぎ合った。
一つは、「声をかけるべきではないか」という心配性の妻としての衝動。「風邪をひくわよ」「中で飲めばいいじゃない」と、現実的な言葉をかけて、彼を家の中に引き戻したい。
しかし、もう一つは、「そっとしておいてあげよう」という、夫の心を尊重する思いだった。
彼女は、声をかけたら、陽介がせっかく見つけた「自分だけの時間」が壊れてしまうことを知っていた。彼は今、誰の干渉も受けたくないのだ。
彼の背中が、そう語っている。
もし声をかければ、彼は社交的な仮面を引っ張り出してきて、また疲れてしまうだろう。
美和は、この奇妙な行動を否定せず、「見守る」という選択をした。
彼女は、そっとカーテンの隙間を閉じた。陽介の背中が見えなくなった。
(疲れているんだから、無理しないで、少しでもいいから休んでね)
美和は心の中でだけ、そう呟いた。
物理的な干渉はしないが、心の中では彼を支える。この「肯定的な距離感」こそが、美和が夫の心を守るために選んだ、最初の愛情表現だった。彼女は、陽介がこの庭で何を見つけようとしているのか、まだわからなかったが、それが彼を救う何かになることを、静かに祈っていた。
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陽介は、空になった缶を握りしめ、静かに椅子から立ち上がった。約30分間の、誰にも邪魔されない時間だった。
缶ビール一本。折り畳み椅子一つ。
それだけの小さな行為が、彼の心にもたらした効果は絶大だった。仕事のノルマ、高橋上司の冷たい視線、家族に対する罪悪感――それらでパンパンに膨らんでいた心の風船が、わずかに空気を抜かれ、軽くなっているのを感じる。
彼は、椅子を丁寧に畳んだ。パイプフレームを握る手に、微かな冷たさが残っている。その感覚が、今夜の出来事が夢ではなかったことを証明していた。
椅子を抱え、缶をポケットに入れたまま、勝手口から静かに家の中に戻る。
リビングを通る際、彼は再び視線を合わせないよう注意したが、家族はテレビに集中しており、彼が庭から戻ってきたことに気づいた様子はなかった。
そのまま風呂場へ直行し、熱いシャワーを浴びる。汗と、一日分の会社の埃を洗い流す。湯船に浸かると、庭で感じた夜の冷たさが、身体を内側から温めていくのを感じた。
湯船の中で、陽介は今日の「疲労」の質が、いつもと違うことに気付いた。
いつもの疲労は、脳と神経が張り詰め、体を動かしても休んでも、なかなか消えない、精神的な消耗からくるものだ。
それは、どこか否定的で、次の日への意欲を奪うものだった。
しかし、今感じている疲労は、椅子に座り、夜風に当たったことによる物理的な疲労が混ざっていた。それは、深く心地よく、まるで体を動かした後のような、健全な疲労だった。心の重さが、身体の重さに置き換わったような感覚。
彼は、明日への不安よりも、先に「小さな希望」を見つけた。
(また、明日も…この時間がある)
この庭の隅。折り畳み椅子。缶ビール。
大したことではない。誰かに言えば、哀れに思われるかもしれない。だが、この小さな習慣が、明日への仕事を耐え抜くための、心の支えになるだろうと確信した。
彼は、この「小さな工夫」を、誰にも知られずに、自分の秘密にしておこうと決めた。
風呂から上がり、自室へ向かう。美和はまだリビングでテレビを見ていたが、陽介は特に声をかけず、そのまま寝室へ。
家族との直接的なコミュニケーションは、今夜も皆無だった。彼は依然として、家族の輪から「疎外」された状態にある。しかし、その疎外感が、もう彼を深く傷つけることはなかった。なぜなら、彼はリビングでも、自室でもない、第三の場所を見つけたからだ。
それは、家の敷地内でありながら、「日常」から切り離された空間。彼の心を解放し、回復させるための、生まれたての居場所。
布団に入ると、陽介は驚くほど早く眠りに落ちた。それは、ここ数ヶ月経験したことのない、深い、質の良い眠りだった。
夜の闇の中、庭の隅には、陽介の熱とビールの冷たさが残ったコンクリートの叩きと、翌朝、陽介によって再び畳まれ、物置スペースに立てかけられるのを待っている折り畳み椅子が、静かに横たわっていた。




