42歳、苔との戦闘
土曜の朝。前夜の雨が上がり、湿った空気が庭を覆っていた。
陽介はいつものようにコーヒーを淹れ、庭の椅子に腰掛けた。ミニ焚き火台の炎を眺める静かな夜とは違い、休日の昼間は、庭の「現実」が容赦なく目に飛び込んでくる。
陽介の視線は、コンクリートの叩きの上に吸い寄せられた。そこには、緑色の苔が広がり、場所によっては小さな雑草が根を張っている。玄関アプローチの石畳も、長年の湿気と排気ガスで黒ずみ、家全体の印象を重くしていた。
以前の陽介なら、この光景を見て深い溜息をつき、諦めの感情で蓋をしていただろう。会社での仕事と同じで、結果の出ない作業は手を出すべきではない、と効率の名のもとに切り捨てていた。
しかし、今は違った。土鍋ご飯を成功させ、焚き火で心を癒したことで、陽介の心には確かな自信と「手入れすれば変わる」という前向きな気持ちが生まれていた。荒れ果てた庭の光景は、もはや「克服すべき問題」ではなく、「自分自身で改善できる余地」として映った。
庭の苔や黒ずみは、まるで彼の仕事人生で溜め込んだ「目に見えない停滞」の象徴のようにも見えた。会社で抱える課題は巨大すぎて、自分の力ではどうにもならない。だが、この庭の荒れは、自分の手を動かせば、確実に、そして目に見える形で「結果」を出せるはずだ。
「よし、今日はこいつと戦おう」
陽介は立ち上がった。以前は「逃避」のために使っていた庭が、今、彼にとって自己肯定感を取り戻すための「戦場」へと変わり始めた瞬間だった。彼は、長靴を履き、古いタオルを首に巻いて、いよいよ苔との戦いに挑む準備を始めた。
---
「やるなら、徹底的に、だ。」
陽介は決意を固め、週末を待たずに、仕事帰りにホームセンターへ立ち寄った。目についたのは、小型の高圧洗浄機だった。
高橋上司が常々口にする「効率化」「ROI(投資対効果)」といったビジネス用語が、陽介の脳裏にこだまする。この高圧洗浄機は、まさにその「効率化」の象徴のような道具だ。手作業でゴシゴシ擦るという非効率な作業を、強力な水圧という力で一瞬にして片付ける。
陽介は一瞬ためらったが、すぐにレジへ向かった。
「会社で『効率』を追求させられるなら、せめて自宅では『自分のための道具』として使ってやる」
彼は、この道具を高橋上司の価値観をねじ曲げ、自分の趣味のために利用すると決めた。これは、会社に支配されていた自分自身への、ささやかな反抗だった。
翌土曜日。陽介は高圧洗浄機を庭に運び出し、ホースを接続し、電源を入れた。「ゴオオオ」という大きな駆動音と共に、強力な水流が噴射される。
コンクリートの叩きに蔓延っていた緑色の苔に、ノズルを向ける。水圧が苔に当たった瞬間、べりべりと音を立てるように剥がれ落ち、下からコンクリートの明るい白い地肌が露わになった。一筋の水流が、瞬く間に汚れた過去を消し去っていく。
陽介は、この作業に強烈な快感を覚えた。
仕事では、いくら努力しても、成果は数字として現れるまでに時間がかかり、結果が出ても高橋の冷たい評価に潰されてしまう。しかし、ここでは違う。努力が即座に、目に見える結果として目の前に現れる。一歩進むごとに庭がきれいになる。この明確な「成果」が、長らく自己肯定感を失っていた陽介の心を、力強く満たしていった。
高圧洗浄機の騒音と、水しぶきが飛び散る中、陽介は無心でノズルを動かし続けた。これは、ただの掃除ではない。「自分にもできる。変えられる」という自己肯定感を、物理的な結果として庭に刻みつける儀式だった。
---
陽介が高圧洗浄機の奏でる騒音とともに、水しぶきを浴びながら庭のコンクリートを磨き上げていく中、二階の自室では、咲は友達との約束のため、化粧と身支度を整えていた。
咲は、窓際に立った。普段、父の庭での活動など、関心の対象外だ。ゲームに夢中な翔と違い、咲は「流行」「ファッション」「デジタル」といった、一見すると父の趣味と真逆の世界に生きている。しかし、高圧洗浄機の騒音は、彼女の耳にも届き、意識を否応なしに庭へと向けさせた。
窓から庭を見下ろすと、水しぶきと泥にまみれながら、一心不乱にノズルを操作する父の姿があった。彼の周りでは、苔で黒ずんでいたコンクリートが、鮮やかな白い地肌を取り戻していく。
「…何やってんの、マジで」
咲は、口の中で小さく呟いた。いつもの「変な趣味」に対する蔑視ではない。彼女の脳裏には、数週間前まで庭の片隅で、ただ呆然と椅子に座っていた疲弊しきった父の姿が残像としてあった。
その頃の父は、まるで家の負のオーラを一身に引き受けているように見えた。だが、今は違う。
「汚いものを綺麗にする」
この行動は、彼女の目にも「まとも」に見えた。むしろ、普段彼女が友達のSNSで見る、手の込んだ「映え」写真よりも、よほど健全で建設的な行為に思えたのだ。
咲の心の声が囁いた。
(以前は、現実逃避で『変』だった。でも、今は、ちゃんと汚い場所と向き合って、綺麗にしてる。もしかして、お父さんの行動って、最近ちょっと『健全なこと』に変わってきてる?)
この微かな意識の変化は、咲にとって大きな一歩だった。彼女はまだ父に声をかけたり、干渉したりはしない。友達との待ち合わせ時間も迫っている。
しかし、彼女の視線はいつもより長く父の作業に注がれ、父の活動に対する「初期の承認」の兆しを、静かに灯し始めていた。咲は、父の活動を「否定」の対象から「評価」の対象へと、心の中でそっと格上げしたのだった。
---
陽介は、高圧洗浄機を一旦止め、ふらつきながら庭の水道の蛇口をひねった。作業開始から二時間。全身汗まみれで、水しぶきと泥を浴び、まるで土砂降りの雨に遭ったかのようだ。
顔を上げると、コンクリートの叩きが広範囲にわたって元の白い輝きを取り戻しているのが見えた。その光景は、彼にとって何よりも雄弁な「成功の証」だった。
陽介は、心地よい肉体的な疲労を感じていた。これは、会社で高橋上司から怒鳴られ、数字に追われて夜遅くまでパソコンの画面を凝視し続けた末に感じる、あの内臓を蝕むような精神的な疲労とは全く性質が異なるものだ。肉体が限界まで動いたことで生まれる、健全な倦怠感。彼の奥底から、久しぶりに「生きている」という実感と、「やり遂げた」という満足感が湧き上がってきた。
仕事の疲労は、心を重くし、自己否定を生む。しかし、この庭作業の疲労は、その後の休息の質を高め、自己肯定感を育むのだ。
陽介は、水道水で顔についた泥を洗い流しながら、ふと思った。
庭のコンクリートから苔と黒ずみが消え去ったことで、まるでそれまで彼の心に重くのしかかっていた「心の重荷」や「会社での負の感情」も、一緒に水圧で吹き飛ばされ、取り除かれたような爽快感があった。
彼は、荒れた庭を「綺麗にする」という単純な行動を通して、仕事で失いかけていた「自分の手で何かを変えられる力」と、それに伴う「心の軽さ」を取り戻しつつあった。陽介は、汚れた軍手を脱ぎ、達成感に満ちた表情で立ち尽くした。
---
陽介が、高圧洗浄機の片付けを終え、水しぶきと汗でべとつく服を脱ぎ捨てようとしていたその時、キッチンの勝手口が静かに開いた。
妻の美和が、冷たい麦茶が入ったグラスを二つ持って立っていた。一つは自分の分、もう一つは陽介の分だ。美和は、いつものようにテーブルや縁側にグラスを置くのではなく、泥まみれで立つ陽介のそばまで歩み寄り、直接手渡した。
「はい、どうぞ。きれいになったね。ありがとう」
「え…ああ、ありがとう」
陽介は驚きと、汗で濡れた手で受け取った麦茶の冷たさに、思わず言葉に詰まった。
美和の言葉は、たったそれだけだった。しかし、その「きれいになったね。ありがとう」という具体的な感謝の言葉には、以前の「また変なことしてるわ」という冷ややかな視線や、趣味を許容するだけの「無関心な黙認」とは、質的に異なる感情が含まれていた。
それは、夫の行動が、家族の住環境に「明確な良い影響」を与えたことへの評価であり、そして何より、陽介が庭遊びを通して自己肯定感を取り戻し、穏やかな表情になったことへの深い理解と承認だった。美和は、陽介の「自己保全」の活動が、結果として自分たちの生活を豊かにしていることを肌で感じていた。
言葉を交わした時間は短かったが、陽介は、この一言が、彼の庭遊び全体、つまり土鍋、焚き火、そして今日の苔掃除の全てを肯定していることを感じ取った。二人の間の信頼感は、言葉を超えた形で確実に増していた。
美和はそれ以上何も言わず、グラスを持ってキッチンへ戻っていく。陽介は、キンと冷えた麦茶を一気に飲み干した。その冷たさが、彼の疲れた肉体と心に、温かい幸福感となって染み渡っていった。庭を掃除したことで、彼は初めて、家族からの「無言の協力」という、かけがえのない報酬を受け取ったのだった。




