42歳、焚き火をする
翌週の月曜日。会社の営業部では、その高揚感が陽介の仕事ぶりにも表れていた。顔には以前のような疲弊した営業スマイルではなく、心の底から湧き出るような自信が宿っている。
「佐藤さん、最近なんか吹っ切れた感じしますね」
昼休憩中、後輩の佐々木誠が、陽介の向かいの席で声をかけてきた。陽介はインスタントコーヒーを飲みながら、週末の土鍋ご飯の成功を熱弁する。
「ああ、土鍋で炊く飯は格別なんだよ。手間はかかるが、あの炊き上がりを見ると、仕事の疲れなんて吹っ飛ぶ。家族も喜んでくれたしな」
佐々木は目を輝かせ、「さすがっす!やっぱり手間かけることがロマンですよね」と応じた。以前の陽介なら、仕事の話題から逃避するために庭の話をしていたが、今は違う。
庭で得た充足感が、そのまま仕事の活力を生んでいる。高橋上司の「効率」とは真逆の「非効率な時間」が、結果的に最も「効率の良い精神充電」になっていることを、陽介は肌で感じていた。
しかし、土鍋ご飯の成功は、陽介に新たな渇望を生んだ。料理は道具と技術を究めれば、必ず「成功」という終着点がある。だが、陽介が本当に求めているのは、もっと「不確かなもの」、もっと「情緒的なもの」だった。それは、かつて若き日の陽介が、大自然の夜の中で体験した、「炎をただ見つめる静かな時間」。
「次は、炎を極めるぞ」
陽介は決意した。
「あの炎には、人を瞑想的な状態に誘う力がある。料理という目的を離れ、ただ、燃える炎を鑑賞する。それが、今の俺に一番必要な『余白』だ」
その日の残業は定時で切り上げ、陽介はまっすぐ家に帰った。
彼の頭の中は、今夜、庭で繰り広げられるであろう「炎のショー」の段取りでいっぱいだった。仕事の資料やノルマは、彼の思考の隅にも入り込む余地はなかった。陽介の趣味は、ついに「実用」から「純粋な情景の追求」という、次の段階へと進化を遂げようとしていた。
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帰宅後、陽介は手早く夕食を済ませ、家族に「今日は庭で少し火を使うから」とだけ告げて、裏庭へ向かった。リビングでは、美和がテレビを見て、翔と咲はそれぞれ自室へ向かう、いつもの光景だ。
しかし、陽介の心はもう、リビングの団欒に参加できないことへの罪悪感に苛まれることはなかった。庭が、彼にとって紛れもない「自分の場所」になったからだ。
庭の隅、コンクリートの叩きの上。陽介は、通販で購入したばかりのミニ焚き火台を、まるで精密機械を扱うように丁寧に組み立てた。手のひらに乗るほどのコンパクトさ。だが、この小さな鉄の器が、これから自分に最高の癒しをもたらすと知っていた。
本格的な薪は使わない。近くのホームセンターで買った、焚き火用の小さな薪片と、着火を助けるための固形燃料。それを焚き火台の中に慎重に配置する。ライターで固形燃料に火を点けると、オレンジ色の小さな炎が、パチパチという音と共に、細い薪片へと這い上がっていく。
夜の闇の中、ランタンのぼんやりとした光と、焚き火台の炎だけが、庭の主役となった。
陽介は、折り畳み椅子に深く腰掛け、缶ビールを開けた。
一口飲んで、目を炎に集中させる。
炎は予測不可能で、一定ではない。赤い塊が金色に変わり、青白いガスがゆらめき、そして灰となって崩れ落ちる。その揺らぎと不規則さが、陽介の疲れた脳には最高の鎮静剤だった。
「非効率性」。
その言葉が、ふと頭に浮かんだ。会社では、一秒の無駄も許されず、会議も資料も、すべてが「効率」のために存在する。だが、この炎は違う。ただ燃えているだけ。何の生産性も、結果も求められない。
この「無目的な時間」こそが、陽介の心のバッテリーを再充電するのだ。
薪が燃え尽きていく「パチッ、パチッ」という小さな音。それは、都会の喧騒とも、リビングのテレビの音とも違う、心地よい自然のリズムだった。陽介は、炎の温かさと、夜風の冷たさを交互に感じながら、何も考えず、ただ炎の「美しさ」に没頭した。
この時間だけは、彼は営業部員・佐藤陽介ではなく、ただの一人の観察者に戻ることができた。そして、その静かな炎の鑑賞こそが、彼の心を深く、確実に癒していくのだった。
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リビングのソファに座り、ヘッドホンでゲームの音を聞いていた翔は、焚き火の匂いに気づき、コントローラーをそっと置いた。
「ん、なんか煙たいな…」
窓の外はすっかり暗くなっている。リビングのカーテンは閉められているが、かすかに燻ったような、微かに甘い匂いが漂ってきた。それは、七輪でソーセージを焼いたときの香ばしさとも、父が焦がしたホットサンドの苦い匂いとも違う、もっと複雑で、非日常的な香りだった。
翔は立ち上がり、カーテンの隙間から、庭を覗き見た。
父の陽介は、折り畳み椅子に深々と腰掛け、小さな焚き火台の前に座っている。ランタンのオレンジ色の光と、焚き火台から立ち上る炎の揺らめきが、父の横顔を照らしていた。父はビール片手に、ただ、その炎を見つめている。
翔はヘッドホンを外し、窓際に立つ。いつもより長い時間、父の背中を観察した。
翔の心理描写は複雑だった。
「父さん、疲れてるくせに、何が楽しいんだろう?」
翔にとって、父の存在は、仕事に疲れて帰宅し、無口で、自分のことにはあまり関心を示さない、「頼りない大人」の典型だった。だから、突然始まった庭での活動も、最初は現実逃避の奇行に見えていた。
しかし、その夜の父の姿は、いつもの疲弊した父親とは別人のように見えた。
父の顔は、会社のノルマや高橋上司のプレッシャーに歪んだ表情ではない。それは、翔が幼い頃、家族でキャンプに行った際に、たき火の世話をしていた「あの頃の穏やかな父の横顔」だった。
あの時、父はいつもより少しだけ優しく、少しだけ楽しそうだった。
翔は、焚き火台の炎と、その前に座る父の姿を、まるで偵察兵のように静かに見つめる。
「あの火で、一体何が生まれるんだ?」
料理をしているわけでもない。ただ、火を燃やし、見ているだけ。
翔の合理的で効率を重視する高校生の感覚からすると、それは究極の無駄だ。だが、その無駄な時間に没頭する父の姿からは、不思議と「満足感」が滲み出ているように見えた。
翔は、父が楽しそうにしていることで、家の中の空気も少しだけ穏やかになっているような、微かな変化を感じ取った。
翔は、父に声をかけることはせず、ただ窓の外の光景を、夜の静寂の中で共有した。
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焚き火の炎が落ち着き、小さな薪が灰へと変わっていく。陽介はビールを飲み干し、至福の溜息をついた。炎の美しさを堪能した後、彼はすぐに道具の手入れに取り掛かる。ミニ焚き火台を丁寧に解体し、燃えカスや煤を専用のブラシで払い落とす。この一連の儀式もまた、彼の重要な「癒しの時間」の一部となっていた。
しかし、陽介はまだ、自分の趣味が完全に家族に受け入れられているわけではないことを知っている。特に美和は、陽介が次々と新しい道具を購入することに、心の底では懐疑的であることを薄々感じていた。
翌朝、陽介がリビングで磨き終わった焚き火台を眺めていると、キッチンで朝食の準備をしていた美和が、その小さな金属の塊に目を留めた。
「また何か買ったの? そんな小さな火、カセットコンロで十分じゃない」
美和の言葉には、以前のような冷たい拒絶はない。むしろ、コストパフォーマンスを問う、現実的な疑問だった。
陽介は、ここで「ただの趣味だ」と正直に言ってしまうと、それ以上の追求を許すことになると察した。彼は、焚き火台の鏡面を磨きながら、少し真面目な顔で美和に向き直る。
「これはな、美和。ただの遊びじゃないんだ。ほら、この素材、チタンなんだが、すごく軽くて丈夫だろう? いざという時、避難用にも使える」
陽介は、焚き火台を両手に乗せてみせる。
「最近は、災害が多いだろう? もし電気が止まって、ガスも使えなくなったら、これがあれば、小さな枝や紙でも、暖を取って、お湯を沸かすことができる。防災意識の向上というわけだ。趣味への投資は、危機管理への投資でもあるんだよ」
陽介は、自分の趣味への投資を「合理化」し、「家族の安心」という大義名分を盾にした。美和は、一瞬目を丸くしたが、その説明に反論する言葉を持たなかった。
「ふうん。まぁ、割と真面目な顔して言われると、そうね、確かに便利かもしれないけど」
美和はそれ以上何も言わなかった。陽介は、この小さな「自己正当化」が美和の理性に届いたことを感じ取る。彼は、自分の趣味が家族にとって「無駄な出費」ではなく「合理的な備え」として映るよう、細心の注意を払って努めた。これは、陽介が家族との共有を目指す中で編み出した、「家族の目から見て否定されないための防衛戦略」でもあった。
そして彼は、磨き終えた焚き火台を、少し誇らしげに庭の道具箱へと戻した。
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その夜、陽介は再び庭に出た。会社での出来事が脳裏にこびりつく。特に今日は、高橋上司から受けた朝の詰問の言葉が、耳の奥で反響していた。
「佐藤、この数字の伸びの悪さは何だ?情熱が足りないんじゃないのか。結果が出ない無駄な努力は、コストでしかない。君の『非効率』な部分は、もう見過ごせない」
その冷たい言葉の重圧と、追い立てられるような営業ノルマの重みが、陽介の肩にずっしりと乗っていた。リビングの明かりは静かに漏れているが、陽介は意図的に背を向け、焚き火台の前に座った。
固形燃料と小さな薪片が、チタンの皿の上で燃え盛る。陽介は、焚き火台の炎を静かに見つめた。
炎の揺らぎは、高橋上司の「効率」という絶対的な概念とは完全にかけ離れた、自由で気まぐれな存在だ。陽介は、炎の非効率な美しさに自分の心を重ね合わせた。
薪が燃え尽きていくにつれて、陽介の心に張り付いていた高橋の冷たい言葉や、営業ノルマの重圧が、まるで燃え尽きていく薪の燃えカスのように小さく、遠のいていくのを感じた。
庭と炎。ここには、彼を責める人間はいない。彼に効率を求める声もない。炎はただ、そこに存在する陽介を受け入れている。この静かで無言の時間が、彼にとって、もはや趣味というよりも不可欠な精神安定剤として定着し始めていた。
陽介は大きく深呼吸をした。
新鮮な夜の空気と、焚き火の煙の匂いが混ざり合う。一日の重荷が、文字通り灰となって、夜の闇に消えていく感覚。彼は、庭が自分の心を守るための「砦」から、精神を静かに再生させる「治療院」へと役割を変えたことを悟った。
焚き火台を片付け、リビングのドアを開けた時、陽介の顔には、もう高橋上司の残像はなかった。穏やかな表情で、彼は家族のいる家へと戻っていった。




