42歳、焦げを落とす
夕食の時刻。陽介が炊き上げたばかりの土鍋ご飯は、テーブルの真ん中に置かれた。ご飯の粒が艶やかに輝き、湯気が立ち上っている。美和は豚の角煮と味噌汁を用意しており、いつも通りの家族四人の食卓だ。
しかし、今日の食卓はいつもと少し違っていた。家族はまだ、陽介の庭活動に直接的に干渉してこないというルールは保たれているが、土鍋から立ち上る香ばしい匂いと、陽介の自信に満ちた佇まいが、一種の静かな緊張感を生んでいた。
「さあ、ご飯。陽介さんが外で炊いてくれたのよ」と、美和が穏やかに促す。
陽介は、しゃもじでご飯をよそい始める。その米粒の弾力と、底にできたおこげのザラッとした感触が、手に心地よく伝わった。美和、翔、咲、それぞれの茶碗にご飯を盛り付ける。
家族は誰も、感想を口にしない。しかし、その静けさは、これまで陽介が感じていた家族からの「疎外感」や「無関心」の静けさとは異なり、目の前の食べ物に対する集中と期待を含んだ静けさだった。
最初に箸をつけたのは、高校生の翔だった。彼はいつも通りヘッドフォンを首にかけ、スマホを横に置きながら、無言でご飯を口に運んだ。
陽介は緊張で、翔の表情を盗み見る。翔は、何かを言うでもなく、ただ咀嚼を続けた。しかし、いつもなら一口食べればすぐにスマホに目を落とす翔が、二口、三口と、白飯だけを続けて頬張った。
翔は、言葉として発することはなかった。しかし、その箸の進みの早さ、そして、おかずではなく白飯に集中しているその行動こそが、陽介にとって最高の褒め言葉だった。
陽介は、翔が七輪のソーセージを無言で食べた時の小さな喜びを思い出し、それが今回は「家族全員の食」に広がったことに、胸の奥が熱くなるのを感じた。
そして、普段はパン食が多く、白飯にはあまり興味を示さない、流行に敏感な咲までもが、茶碗を手に取った。
「…なんか、今日のご飯、匂いすごいね」
咲が発したその一言は、いつもの茶化しではなく、純粋な好奇心からくるものだった。彼女も一口、頬張る。咲はしばしの間、咀嚼し、目を閉じた。
そして、陽介がこれまで見たことのないほど、美味しそうに、そして嬉しそうに白飯を頬張り始めた。彼女もまた、言葉は発さないが、その表情と食べる勢いが、炊き立てのご飯への「肯定」を物語っていた。
そして、向かいに座る美和は、ゆっくりと自分のご飯を味わった後、そっと顔を上げ、陽介の目を見た。
美和は何も言わず、ただ小さく、深く頷いた。
その頷きは、土鍋ご飯の出来栄えだけでなく、陽介がこの数週間、庭で孤独に、しかし前向きに取り組んできた全ての活動に対する、最高の「無言の肯定」だった。それは、美和の陽介への愛情と、夫婦間の信頼を取り戻す、大きな一歩となった。
陽介は、自分の小さな工夫が、家族の「日常の幸福度」を確実に向上させたことを肌で感じた。外で炊いた温かいご飯が、家族の心の距離を、目には見えない形でわずかに縮めたのだ。
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夕食後、陽介は土鍋を抱えて台所に向かった。美和は食後の片付けを申し出たが、陽介は「これは俺の仕事だ」と、譲らなかった。熱い土鍋を水につけ、ご飯の焦げ付きを静かにこそぎ落とす。
彼の心の中には、深い静けさと、満ち足りた幸福感が広がっていた。
思えば、庭での活動を始めた最初の頃、その目的は明確に「自己保全」だった。会社の効率至上主義とノルマ、そして家に帰ってからの家族との距離感に疲れ果て、ただただ「何もしない時間」を確保するための「避難所」として、庭は存在した。缶ビールと百均ランタン。それは、外界からのストレスをシャットアウトし、心を一時的に回復させるための防波堤だった。
しかし、雑草を抜き、七輪でソーセージを焼き、雨の日に和室で熱燗を飲む中で、彼の心は確実に変わっていった。道具への愛着が生まれ、小さな失敗を笑い飛ばす自己肯定感を取り戻し、そして今日、家族全員が「美味しい」と感じるものを自分の手で作り出した。
陽介は、土鍋の底に残ったわずかなおこげの匂いを嗅いだ。この匂いは、もう彼一人の孤独なロマンではない。
(そうか…)
彼は、庭遊びの目的が、知らず知らずのうちに「自己保全(ストレスからの逃避)」から、「家族とのささやかな幸福の共有」へとシフトしていたことを理解した。
翔の無言の「美味い」も、咲の「匂いすごいね」という純粋な言葉も、そして美和の深く小さな頷きも、すべて陽介が庭で起こした小さな行動の結果だった。直接的な会話や干渉はなくても、陽介が前向きに何かを楽しむことで、その幸福の波動は間違いなく家族の日常に伝播していたのだ。
それは、仕事での成果や、高橋上司に認められることとは全く質の違う、「家庭内での存在意義」を再確認させてくれる感覚だった。
洗い終えた土鍋を布巾で丁寧に拭きながら、陽介は既に次のことを考えていた。
(次は、何を作ろうか。ホットサンドは失敗したけど、今なら火加減を完璧にコントロールできるはずだ。それとも、美和や咲が好きそうな、もっと「映える」ものを庭で作ってみるのもいいかもしれない。)
彼の思考は、もはや「疲れた体を休ませる」ことに留まらず、「家族の笑顔と満足を引き出す」という、ポジティブで能動的な目標に向かっていた。
これで、第1フェーズで課せられた「一人で小さな充足感を取り戻す」という陽介の内面的な旅は、完璧に完了した。庭は、避難所から「創造と共有の場所」へと変貌を遂げた。
陽介は、きれいになった土鍋を棚に収め、満足げに微笑んだ。
「よし。次は、家族がもっと楽しめるものに挑戦しよう」
彼の庭遊びは、次の段階、すなわち「家族の距離が縮まり始める段階」への確かな一歩を踏み出したのだった。




