42歳、土鍋で米を炊く
雨の日の「和室キャンプ」を経て、陽介の心の状態は大きく変わっていた。庭遊びはもはや、ただの自己保全ではなかった。自分の内面に静けさとエネルギーを取り戻すだけでなく、そのエネルギーを家族へと還元したいという、かつてなかったポジティブな欲求が生まれていた。
(庭で過ごす時間が、俺をこんなに変えるなんてな)
週末の午前中、陽介はホームセンターの調理器具売り場で立ち止まっていた。七輪での炭火焼きソーセージ、ホットサンドの失敗。これまではすべて、自分一人のための、あるいは自分を励ますための挑戦だった。しかし、次に彼が試したいのは、家族がもっと明確に、もっと純粋に「良いもの」だと感じられるもの。
そこで彼の頭に浮かんだのは、かつて夢中になって視聴していた配信者・桜井慎の動画で見た光景だった。静かな庭で、ミニ焚き火台の上に置かれた土鍋。桜井は、「外で炊いたご飯は格別ですよ。家族の反応が楽しみで、つい作りすぎちゃいます」と、満足げに笑っていた。その「外で炊いたご飯は格別」という言葉が、陽介の頭から離れなかった。
「よし、これだ」
陽介は決意し、小さめの土鍋と、米を計量するための合が刻まれた簡易的なメジャーカップを購入した。家族のために何かを準備する、という行為そのものが、彼の心を温かく満たした。
帰宅後、陽介は妻の美和に声をかけた。
「美和。今日の夕飯、ご飯だけは俺に任せてくれないか」
美和はキッチンで夕飯の準備を始めていたが、振り返って陽介が持つ土鍋と米を見て、少し目を丸くした。
「土鍋?ご飯を炊くの?」
「ああ。庭の卓上コンロでな。……うまくいくかわからないけど、試してみたいんだ」
陽介が遠慮がちにそう言うと、美和は少し考えるそぶりを見せた後、笑顔で頷いた。
「わかった。いいよ。じゃあ、私はおかずを用意するね。でも、火加減は焦げ付かないように気を付けてね。土鍋をダメにされたら困るから」
その言葉には、陽介の趣味を尊重しつつ、道具と家計を守ろうとする妻としての現実的な配慮が感じられた。陽介はその配慮をありがたく受け止め、早速、庭へと土鍋と米、卓上コンロを持ち出した。
土鍋と米を庭の卓上コンロにセットし、水に浸す。これまでで最もシンプルな道具だが、家族の食卓を担うという重みが、陽介の集中力を高めた。この挑戦の成功は、彼の自己肯定感をさらに深め、家族との「美味しい」共有という次のフェーズへの扉を開く鍵となるだろう。
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水に浸した米と土鍋を卓上コンロに乗せ、陽介は庭の折り畳み椅子に腰を下ろした。目の前の土鍋の底に、カチッと点火する。まずは強火で一気に加熱し、沸騰させる。
これまでの七輪やホットサンドの挑戦では、火力の調整がうまくいかず、焦げ付きという失敗を経験した。特に七輪の炭火は制御が難しかった。しかし、今回は卓上コンロ。シンプルな操作だが、美和に任せてほしいと言った手前、失敗は許されないという新たなプレッシャーが陽介を襲う。それは、会社での「ノルマ達成」のプレッシャーとは全く異なるものだった。
仕事のノルマは、効率と数字、そして上司・高橋の冷徹な管理によって課せられる重圧だ。それは陽介の心を削り、消耗させる。一方、この土鍋の火加減は、純粋な集中力と繊細な感覚を要求する。
(強火で加熱し、沸騰したらすぐに弱火……。火を操るって、こんなに神経を使う作業だったのか)
陽介は、土鍋の様子から目を離さない。耳はフタの向こうから聞こえる水の音に集中し、鼻は土鍋から漏れ出るかすかな蒸気と匂いに意識を向ける。頭の中は、仕事の資料でも、高橋の顔でもなく、「米を美味しく炊く」というただ一つの目標で満たされていた。
この、デジタルな仕事とは真逆の、五感を研ぎ澄ます時間が、陽介にとっては何よりも深いリフレッシュとなった。
数分後、フタの隙間から勢いよく蒸気が吹き出し始めた。沸騰の合図だ。陽介は急いで火力を極弱火に絞り、タイマーで時間を測り始める。ここからが米の旨味を引き出す勝負どころだ。
最初は水蒸気が勢いよく上がっていたが、やがてその勢いは落ち着き、土鍋のフタの穴からは、かすかに香ばしい匂いが流れ出始めた。それは、米が最高の状態で炊き上がっていることを示す、何よりのサインだった。
この匂いは、過去の庭遊びで発生した匂いとは、明確に性質が異なっていた。
七輪の時の「煙たさ」や、ホットサンドの失敗時の「焦げた匂い」は、家族を茶化したり、警戒させたりする匂いだった。しかし、今、家の中に流れ込んでいるのは、純粋で、食欲をそそる、炊きたてのご飯の温かい香りだった。
この「家族を誘う匂い」を嗅いだとき、陽介は今回の挑戦が「成功」に向かっていることを直感した。
(この匂いなら、きっと…)
土鍋から立ち上る湯気とその香りに、陽介は期待と高揚感を覚えた。それは、自分一人の満足だけでなく、家族全員の夕食の幸福度を上げるという、新たな喜びの予感だった。
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極弱火で指定された時間加熱した後、陽介は火を消し、土鍋を卓上コンロから降ろした。ここからが「蒸らし」のフェーズだ。土鍋のフタは重く、その重さが中の熱と圧力を閉じ込めているのがわかる。仕事では、結果が出るまでは不安と焦燥感に苛まれるが、この蒸らしの時間は、静かで穏やかな期待感に満ちている。
(大丈夫だ。匂いは完璧だった。あとは…)
美和に言われた通りに時間を計り、陽介は緊張しながら土鍋のフタに手をかけた。それは、彼にとって、これまでの庭遊びの集大成を確認する、小さな儀式のようなものだった。
フタを静かに持ち上げる。
その瞬間、熱い湯気と、凝縮された米の甘い香りが一気に立ち昇り、陽介の顔を包んだ。その香りに思わず目を細める。
そして、眼下に広がった光景は、陽介が想像していた以上のものだった。
土鍋の中には、一粒一粒がしっかりと立ち、ツヤツヤと光を反射する白いご飯が詰まっていた。米の表面には、しっとりとした輝きがあり、まさに生命力に満ちた食べ物そのものの美しさだった。
陽介は、しゃもじでそっとご飯をすくい上げる。これまでのホットサンドの失敗が嘘のような、完璧な成功だ。
そして、しゃもじを底まで入れ、ご飯を混ぜようとしたとき、ガリッという心地よい感触が伝わってきた。
底には、見事な「おこげ」ができていた。
狐色を通り越し、焦茶色に近づいたそのおこげは、失敗による焦げではなく、繊細な火加減の末に生まれた、土鍋ご飯の最高の勲章だ。香ばしさと、米の持つ自然な甘みが凝縮されている。
陽介は、胸の奥からこみ上げてくる、深い感動と達成感を覚えた。
「やった…。完璧だ」
仕事で得られる達成感は、常にノルマと数字、高橋上司の査定と結びついていた。だが、この土鍋ご飯の成功は、純粋に自分の手と集中力が、目の前の「良いもの」を作り出したという、根源的な喜びだった。
熱いうちに家族に食べさせたい。その一心で、陽介は土鍋を抱え、家の中へと急いだ。彼の顔には、この数ヶ月で最も晴れやかで、自負に満ちた笑顔が浮かんでいた。




