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42歳、雨天に悩む

 金曜の夜、終業間際に窓の外を見た陽介は、すでに微かな雨粒がアスファルトを濡らしているのを知っていた。天気予報は週末を通して「雨」。それも、庭で七輪やミニ焚き火台を使うには難しい、しとしとと降り続く雨だ。


 高橋直子からのプレッシャーを佐々木の機転でなんとか乗り越え、陽介の心は、週末の庭での「炎の癒し」を何よりも渇望していた。あのミニ焚き火台の炎を眺めることこそが、疲弊した脳と心をリセットする唯一の方法だと信じていたからだ。


 土曜の朝、陽介は期待と不安を抱えながら目を覚ました。カーテンを開けるまでもなく、耳に入ってきたのは、窓ガラスと軒先を規則正しく叩く雨音だった。その音は、まるで彼の期待を嘲笑うかのように、止む気配がない。


 陽介は、庭のコンクリートの上に立ち、雨に濡れる芝生と、濡れそぼった七輪カバーを眺めた。


(だめだ。これじゃあ、火も起こせないし、椅子に座ってコーヒーやビールを飲むこともできない)


 わずか数週間前まで、彼は家の中で「何をしよう」という虚無感に苛まれていた。その虚無感から逃れさせてくれたのが、あの小さな庭だった。

 しかし、庭という「物理的な場所」が使えないと分かった途端、彼の内面には、再び以前の閉塞感が逆戻りしてきた。


 リビングからは、テレビのバラエティ番組の賑やかな笑い声が漏れてくる。美和は家事をし、咲はスマホをいじり、翔は自室でゲームをしている様子だ。

 家族はそれぞれ、家の中で自分の場所を見つけ、当たり前の日常を送っている。陽介だけが、「庭」という避難所を失い、宙ぶらりんの状態になってしまった。


 ソファに座る気にもなれず、立ち尽くす陽介の心に、小さな焦燥感が湧き上がる。


(庭が使えないだけで、こんなにも心が不安定になるなんて…)


 彼の庭遊びは、まだ「物理的な空間」に強く依存していることを痛感させられた。庭が彼の心の安定に欠かせないものになっていたからこそ、その場所が使えないことへの落胆は大きかった。

 手に入れたばかりの小さな幸福が、雨によって簡単に流されてしまうかのような不安に襲われた。


 彼は、このまま家の中でゴロゴロと過ごす週末を想像し、自己嫌悪に陥るのを恐れた。この雨は、陽介に「庭の外で、どうやって自分を保つか」という、新たな課題を突きつけたのだった。



---



 庭の閉塞感に苛まれた陽介は、家の中を目的もなくさまよった。リビングの喧騒は相変わらずで、彼の疲れた心をさらに擦り減らすだけだ。居場所がない。


 ふと、廊下の突き当たりにある和室に目が留まった。


 この家を建てた際、「客間として使えるように」と設けたものの、結局は家族の誰も使わない「物置未満」の空間と化している。普段は、美和の裁縫道具や、季節外れの扇風機などが雑然と置かれているだけだ。


 陽介は、この誰も気に留めない空間なら、自分の「非日常」を持ち込めるのではないかというひらめきを得た。庭が使えないなら、「庭の気分」を室内に持ち込めばいい。


 陽介は、早速行動に移した。


 まず、彼の最初にして最高の避難場所を形作る折り畳み椅子を和室に持ち込んだ。畳の上に、金属と布でできたキャンプ用の椅子が広げられる。その異質な組み合わせが、日常から切り離された感覚を生み出す。


 次に、彼の夜の安らぎを演出してくれた、百円ショップのLEDランタンと小型テーブル。テーブルを椅子の横に置き、ランタンを灯す。蛍光灯の明かりを消すと、天井の白熱灯だけでは届かない和室の隅が、ランタンの温かいオレンジ色にぼんやりと照らされた。


 そして、道具へのこだわりが彼にもたらした、次の「小さな贅沢」の準備だ。陽介は、庭でコーヒーを淹れるために購入していた卓上コンロを畳の上に慎重に置き、その上に小さなやかんを乗せた。


(まさか、和室で熱燗を作ることになるとはな…)


 やかんに水を入れ、火にかける。小さくチリチリと燃える卓上コンロの青い炎と、やかんから立ち上る湯気。その光景は、外の雨音と相まって、彼の和室をまるでテントの中のような空間に変貌させた。


 畳の上にあえて椅子を置き、あぐらをかく代わりに座ることで、彼は日常の視点から自分を切り離した。これは、単なる場所の変更ではなく、「庭で得た解放感」を、場所の制約を超えて再現しようとする、陽介の懸命な「転用の工夫」だった。


 和室に広がるこの空間は、外の雨音と相まって、彼の内面に、庭とはまた違う「内向きの非日常」の安らぎを生み出し始めていた。



---



 和室の障子を閉め切ると、リビングの喧騒は遠のき、周囲を支配するのは雨の音だけになった。外の景色を遮断し、ランタンの灯りに絞られたこの空間は、陽介にとって、庭の夜と同じ、あるいはそれ以上に密度の高い「非日常」の繭を形成した。


 彼は椅子に深く腰掛けた。あえて和室で椅子に座るという行為が、日常の「座る」という動作から切り離され、新鮮な解放感をもたらす。畳の香りが、雨に濡れた土の匂いとは違う、懐かしい安らぎを彼の嗅覚に訴えかける。


 卓上コンロのやかんで温められた熱燗を、ちびちびと木製の升で飲み始めた。


 熱燗のじんわりとした熱が、彼の体の芯から冷えと緊張を解きほぐしていく。彼は、ただひたすらに雨の音に耳を傾けた。


(ザー、ザー…)


 それは、会社での高橋の冷たい声や、ノルマの数字を叫ぶ上司の声とは全く無縁の、自然で、無関心で、しかし優しい音だった。陽介は目を閉じ、ランタンのぼんやりとした光をまぶたの裏で感じながら、意識を研ぎ澄ませる。


 ここは、外の雨が侵入できない、彼だけの「転用の工夫」で作り上げられたシェルターだ。物理的な庭の開放感はないが、その代わり、彼の内面へと深く潜り込める「内向きの非日常」があった。


 彼は、ふと仕事のことを思い浮かべようとした。だが、和室の静けさと熱燗の暖かさ、そしてランタンの柔らかな光は、彼の思考を強制的にリセットする力を持っていた。


(まあ、いいか。明日のことは明日考えよう)


 仕事の重圧や、家庭での疎外感。それら全てが、この畳と椅子の異質な空間の中では、遠くの出来事のように感じられた。この時間は、庭にいる時と同じ、彼が彼自身でいられる「心の休憩」なのだと、深く呼吸しながら実感した。


 この安らぎこそが、彼が疲れた体で探し求めていた、また別の形の「小さな幸福」だった。



---



 和室の中で、熱燗を飲みながら雨音に耳を澄ませていた陽介は、背後の襖が微かに開く気配に気づいた。


「あら、陽介さん」


 美和の声だった。彼女はリビングの蛍光灯の明かりを背負い、ぼんやりとした和室の光景を覗き込んでいる。畳の上に椅子、小型テーブル、そして揺らめく百均ランタンの灯り。傍らには熱燗を温めるための卓上コンロ。


 美和は一瞬、その光景に言葉を失ったように見えたが、すぐに小さく微笑んだ。その笑みには、呆れや冷たさではなく、むしろ温かい好奇心と安堵が混じっていた。


「ふふ、和室でキャンプ? 楽しそうだね」


 美和の言葉は、陽介の行動を初めて「楽しそう」という肯定的な感情で捉えた具体的な言葉だった。ホットサンドの失敗の時も励ましはあったが、今回の言葉には、彼の工夫を認め、理解しようとする意図が込められている。


 陽介は、椅子に座ったまま、少し照れくさそうに「まあな」とだけ答えた。言葉は続かなかったが、美和の否定のない反応は、陽介の心に小さな喜びの波紋を広げた。


 彼女は、これ以上立ち入ることはせず、「ゆっくりしてね」とだけ言い残し、襖を静かに閉めた。美和は、陽介がようやく見つけた「心の拠り所」を、この肯定的な距離感で守ろうとしていた。



---



 二階の自室にいた息子の翔が、水を飲みたくなったのか階下に降りてきた。リビングを通り過ぎ、キッチンへ向かう途中で、彼は開いていた和室の襖の隙間から、父の姿を目にした。


 その光景は、なかなかにシュールだった。畳という極めて和の空間に、無機質な折り畳み椅子と、レトロなランタン。そして、そこで一人、静かに熱燗を飲んでいる父。


 翔は立ち止まり、父の背中をしばらく見つめた。普段、会社で疲れて無口でしかめっ面をしている父の姿しか見ていない翔にとって、この光景は、まるで未知の生物を見るような、しかしどこかユーモラスなものだった。


 彼は特に言葉を発することはなかった。ただ、父が熱燗の升を傾けた瞬間、翔の口元に、微かに小さな笑みがこぼれた。


 かつては「疲れているのに変なことを始めた」程度の認識だったが、今は父の奇妙な行動が、自分たちの日常に小さな波紋と娯楽をもたらし始めている。


 翔は笑みをすぐに引っ込め、無言でキッチンへ向かった。そして、また無言で自分の部屋に戻った。



---



 熱燗を飲み干し、卓上コンロの火を消した陽介は、ランタンの灯りの下で、改めて自分の持ち込んだ道具たちを見つめた。


 ホームセンターで衝動買いした折り畳み椅子。

 百円ショップで見つけたLEDランタン。

 そして、庭での「小さな挑戦」のために揃えた、小型テーブルや卓上コンロ。


 それらはすべて、高価なものではない。むしろ、道具マニアから見れば、安価で簡易的なものばかりだろう。しかし、この安価でシンプルな道具たちが、場所が使えないという制約さえも乗り越え、陽介に「非日常」を作り出し、彼の心を深く安らげた。


(すごいな、こいつら。場所を選ばない魔法の道具だ)


 陽介は、道具一つ一つに触れ、愛着を感じた。これらの道具は、もはや単なる「キャンプ用品」や「百均の雑貨」ではない。

 それは、会社での疲弊と家庭での疎外感に苦しむ42歳の自分を救い出した「心のセラピスト」であり、彼自身の意志の象徴だった。道具がある限り、彼はどこでも自分だけの安息の空間を作り出せる。


 椅子を畳み、使った升を片付けながら、陽介の心に確信が生まれた。


 雨が降って庭に出られなくなったとき、彼は一瞬、深い落胆を覚えた。しかし、こうして和室に避難し、同じ道具を使って同じ「非日常の気分」を味わえたことで、彼は重要な真実を悟った。


 「庭」は、物理的な場所ではない。


 「庭」とは、彼が自らの手で、自らの工夫と愛着のある道具で作り出す「心の状態」だった。それは、仕事のプレッシャーや家族の視線、日常の義務から切り離された、純粋な自己肯定感と安息の領域を指す言葉だった。


 雨の日でも、家の中で自分の居場所を見つけることができた。この発見は、陽介の庭遊びが一時的な逃避ではなく、持続的な自己再構築のプロセスであることを確信させた。


(もう大丈夫だ。どこにいたって、俺はリフレッシュできる)


 心のタンクに満たされた温かいエネルギーを感じながら、陽介は和室の襖を開けた。次の週末、庭で何をするか、あるいは、どんな道具を工夫して使うか。既に彼の心は、次の「小さな幸福」で満たされていた。

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