42歳、後輩から励ましを受ける
高橋直子が去った後、給湯室の冷え切った沈黙を破ったのは、佐々木誠だった。陽介がまだ、高橋の冷たい言葉に打ちのめされ、自席に戻るかどうか迷っている間に、佐々木は陽介の肩をポンと軽く叩いた。
「いやー、高橋さんらしいっすね。相変わらずキレッキレだ。でも、佐藤さん、気にしなくて大丈夫ですよ」
佐々木は、陽介の萎縮した空気を払拭するように、大げさなほど明るい声で笑った。そして、陽介が言えなかった言葉を、まるで高橋に聞かせるかのように、意図的に大きな声で続けた。
「高橋さん、リフレッシュは大事っすよ! 佐藤さん、庭でパワーチャージして、その分、今月は最高の成果を出しますから!
っていうか、あれですよ、七輪でソーセージ焼いてる男が、営業で負けるわけないっすよ!」
佐々木の軽口は、高橋の論理を真正面から否定するものではなく、「リフレッシュも成果に繋がる」という、現代的な合理性で包み込む機転の利いたフォローだった。
陽介は、佐々木の言葉に救われた。
高橋の冷たい視線から受けた否定を、佐々木の明るい肯定が、瞬時に打ち消してくれたのだ。
陽介は佐々木に向かって、深く頷いた。
「…そうだな。ありがとう、佐々木」
佐々木はニッと笑い、コーヒーを飲み干した。「僕も七輪探してみます。やっぱ、仕事漬けだと頭が固まるっすよ。炭火、いいなあ…」彼はそう言いながら、高橋の「遊びは無駄」という価値観の外側で、陽介と「共感」の輪を築いた。
陽介は、この一連の流れから、新たな発見を得た。
(俺のやってることは、この会社では否定されることかもしれない。でも、佐々木くんみたいに、心の繋がりを求める奴もいるんだ)
彼の庭の活動は、孤独な逃避行動から、「自分らしさ」の表現へと変わりつつあった。そして、その「自分らしさ」が、会社という閉鎖的な空間の中で、佐々木との間に連帯感を生み出している。高橋のような上層部の効率主義が支配する中でも、彼の庭の話題は、仕事仲間との間に微かなポジティブな影響を与え始めていた。
陽介は、佐々木の言葉がきっかけで、仕事のプレッシャーで押し潰されかけた自分の心に、「自分は一人ではない」という小さな安心感を取り戻した。庭は、家での家族との距離を保ちつつ、会社での人間関係にも、予想もしなかった形で影響を及ぼし始めていた。
---
高橋からの冷徹なプレッシャーは、陽介が朝から佐々木との雑談で充電したわずかな心のエネルギーを、根こそぎ奪い去った。佐々木のフォローはありがたかったが、高橋の存在が職場全体の空気として重くのしかかり、終業を迎える頃には、陽介の疲労は日常の残業後のそれよりも遥かに倍増していた。
(何が効率だ。この重苦しい空気が、一番の非効率だろうに…)
心の中で悪態をつきながら、彼はパソコンをシャットダウンした。一日中、数字と報告書と、そして高橋の監視の目を気にし続けた結果、脳は鉛のように重く、肩の凝りは石のように固まっていた。一刻も早く、この「効率の牢獄」から脱出したかった。
エレベーターに乗り、地下駐車場に向かう間、陽介の頭の中は、一貫して「庭」というキーワードに占められていた。
今日の庭は、どんな表情をしているだろうか。あの折り畳み椅子は、静かに自分を待っているだろうか。仕事のストレスが強ければ強いほど、陽介は庭の、何の生産性も求めない「無為の時間」を切望した。
彼は、自分の内側から湧き上がる、抑えきれない強い渇望を自覚した。
(早く家に帰って、庭の椅子に座りたい。今日はミニ焚き火台を出して、炎を眺めていたい)
ミニ焚き火台の炎は、小さいながらも、高橋の冷たい目や、オフィス蛍光灯の無機質な光とは全く違う、生きた、暖かみのある光だ。炎の揺らめきを見つめれば、仕事のプレッシャーが作り出した心のささくれが、ゆっくりと燃やし尽くされるような気がした。
陽介は、以前の自分との決定的な違いに気付く。以前の彼は、家に帰ってもリビングに入れず、自室でただ疲労に沈み込むだけだった。しかし今は、疲労が倍増してもなお、彼には帰るべき場所がある。
それは、単なる家の中ではない。
「庭」という、物理的に隔離され、彼自身のルールと彼の選んだ道具だけが存在する「心の安全基地」だ。
庭への強い渇望は、庭での活動が、もう一時的な逃避ではなく、彼の生活に不可欠な精神安定装置として完全に定着し始めたことを示していた。会社という現実世界で受けた傷を、庭の静けさと道具への愛着が、確実に癒やし、彼の「42歳の自分」を支え始めていたのだ。




