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42歳、上司からの叱責を受ける

 週末が明け、月曜日の昼休み。陽介は、給湯室で後輩の佐々木誠と顔を合わせた。佐々木は気さくに話せる数少ない相手だ。佐々木は陽介の表情を見て、すぐにその変化に気づいた。陽介の顔には、いつも張り付いていた疲労の色が薄れ、どこか内側から湧き出るような活気が宿っていた。


「佐藤さん、なんか週末、いいことあったんじゃないですか? 顔がやけにスッキリしてますよ」


 佐々木の言葉に、陽介は少し照れながらも、思わず笑みをこぼした。庭での活動について、誰かに話したいという小さな衝動が抑えきれなかった。


「ああ、まあな。ちょっと庭で、ホットサンドを焼こうとして失敗した」


 陽介は、真っ黒に焦がしたホットサンドのエピソードを、自虐とユーモアを交えて話した。佐々木は陽介の話を聞き、手を叩いて笑った。


「焦げたんですか! まじっすか! 

 でも、ホットサンドとか、完全に『庭キャン』じゃないですか! 憧れますわ」


 失敗談は笑い話になったが、陽介は、七輪で焼いたソーセージの「成功体験」についても熱く語り始めた。


「七輪で炭火を使うと、ガスとは別物なんだ。焦げたけどな。あのソーセージの香ばしさと、パチパチって炭が爆ぜる音。あれを聞きながら飲むビールが最高でな…」


 陽介の声は自然と大きくなり、身振り手振りも加わる。

 日頃、高橋上司の前では効率やノルマの話しかしなかった彼からは想像もつかない、子どもじみた熱中ぶりだった。彼は、会社ではなかなか出せなかった「素の自分」を、佐々木になら見せられることに心地よさを感じていた。


 佐々木は、興奮気味の陽介の話を真剣に聞き、目を輝かせた。


「いいな! やっぱ男のロマンっすよ、炭火! 

 僕も七輪買おうかな、手軽にできるのありますかね? 佐藤さん、どの七輪にしたんですか?」


 佐々木は、陽介の趣味に心から共感し、自分もそれに参加したいという姿勢を見せた。陽介にとって、佐々木の反応は、家族の無言の肯定とは違う、「仲間」からの明確な承認だった。


 陽介は、七輪の選び方や、着火剤のコツなどを熱心に佐々木に教えた。

 この「庭トーク」は、彼の心を大きく満たした。庭の話題が、仕事のストレスを忘れるだけでなく、仕事仲間の人間関係にも微かにポジティブな影響を与え始めていることを、陽介は肌で感じていた。


 庭での活動は、彼の疲れた心を保つだけでなく、会社での彼の「存在感」を、以前より少しだけ明るく、人間味のあるものに変えつつあった。



---



 佐々木と陽介が、七輪と炭火、そしてホットサンドの「ロマン」について熱く語り合っている最中、突如として、その給湯室の空気が氷点下へと冷え込んだ。


「佐藤くん、佐々木くん」


 背後から聞こえてきた、一切の感情を排した声。


 二人が振り返ると、そこには営業部のチーフマネージャーである高橋直子が立っていた。

 彼女は、その場にあるべきではない、冷徹な「効率」と「生産性」の空気を、全身から発していた。彼女の視線は、二人が手に持っているインスタントコーヒーのマグカップよりも、彼らの背後にある積み上げられた資料の山に向けられているようだった。


 高橋は、二人の会話の内容が全て聞こえていたことを示唆するように、かすかに眉をひそめた。


「遊びではなく効率が全てよ」


 高橋直子は、口角を上げることなく、静かだが鋭い声で二人に近づいた。彼女の姿勢は、まるで無駄な時間を過ごしている部下たちに、冷たい水浴びをさせているかのようだ。


「そんなにロマンに浸る時間があるなら、来月の厳しいノルマについて議論してもらってもいいかな? 先週の数字、覚えているでしょう?」


「す、すみません、高橋さん」


 佐々木が慌てて頭を下げた。陽介も反射的に背筋を伸ばしたが、彼の内側では、せっかく庭で満たされた心のエネルギーが、急速に奪われていくのを感じていた。


 高橋は、二人を順に見据え、最後の一言を、まるで部署全体に言い聞かせるかのように、冷徹に放った。


「うちの部署は、遊びではなく効率が全てよ。個人的なリフレッシュが、全体の数字に繋がらないなら、それはただの無駄だわ」


 彼女は陽介の目を見て、特に長くその言葉を突き刺した。陽介の顔が、一瞬にして硬直する。彼女は、陽介が最近見せ始めた微かな「人間味」を、容赦なく摘み取ろうとしているように感じられた。


 高橋はそれ以上何も言わず、二人の横を通り過ぎていった。彼女の背中は、まるで動く「ノルマ表」のようだった。給湯室には、コーヒーの残り香と、高橋が残した冷たいプレッシャーの残滓だけが漂っていた。



---



 高橋直子の冷たい一言が、陽介の胸に鋭く突き刺さった。


「うちの部署は、遊びではなく効率が全てよ」


 その言葉は、まるで彼の胸の奥で、週末に庭で育み始めたばかりの小さな幸福の芽を、踏み潰す音のように響いた。陽介は一瞬にして、給湯室の壁に打ち付けられたような気分になり、全身が萎縮した。


(そうだ。俺のやっていることは、高橋さんから見れば全て無駄な遊びだ。生産性のない、非効率な時間の使い方だ…)


 陽介は、自分自身が職場において「非効率」な存在であるかのように感じた。高橋の言う「効率」「ノルマ」といった価値観は、彼が長年身を置いてきた企業の論理そのものだ。それは、彼の日常を常に支配し、彼の心のエネルギーを吸い尽くしてきた「病原菌」のように思えた。


 この環境が、彼を無口にし、家で孤立させ、そして庭という「避難所」を必要とさせた張本人だ。高橋の存在は、庭で見つけた安らぎが、いかに現実の世界、特にこの会社の中では脆く、簡単に否定されてしまうかを示していた。


 しかし、萎縮の時間は長く続かなかった。陽介の脳裏に、高橋の冷たい声とは対照的な、暖かく心地よい情景が浮かび上がった。


 それは、夜の庭で、たった百円のLEDランタンが放っていたぼんやりとしたオレンジ色の灯り。そして、七輪の中で静かに燃え、ソーセージを焼いた炭火の温かさだ。


 あの光の中で座っているとき、高橋の冷徹な声も、来月のノルマの数字も、全てが遠く、冷静に、少し距離を置いて考えられたはずだ。彼は、ランタンの弱い光の下で、スマホを閉じ、静かに夜風と土の匂いを感じることで、仕事の思考をリセットできていた。


(違う。あれは、無駄じゃない。あの時間があるから、俺は今、高橋さんのプレッシャーに潰されずに、こうして立っていられるんだ)


 陽介は、庭での活動が、単なる「趣味」や「遊び」ではないことを、改めて深く認識した。高橋の言葉が、自分の日常を蝕む「波」だとすれば、庭での時間は、その波の衝撃を和らげ、自分の心を保っている「防波堤」なのだ。


 彼は、高橋の冷たい論理を内面で拒絶し、「庭での時間は、この仕事のストレスを中和し、自分の心を保っている『防波堤』だ」と心の中で強く再認識した。


 この心の対比こそが、彼が会社という戦場で生き抜くための、新たな自己防衛本能となり始めていた。

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