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42歳のすみかは庭になりました  作者:
第2部 第6章「それぞれの2ヶ月〜佐々木の章〜」

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共生のプラクティス

 五月。都会の空気は、新緑の鮮やかな生命力を孕んで、瑞々しく輝いていた。

 植物園でのあの日から数週間。佐々木にとっての日常は、劇的な変化を遂げていた。


 営業部での仕事は、かつてないほどに充実していた。

 佐藤陽介が人事部へと去り、一時はその喪失感に打ちひしがれていた佐々木だったが、今は違う。陽介が残した「ナレッジ・ガーデン」を守り、部員たちの言葉を繋ぎ合わせる中で、彼は自分なりの営業スタイルを確立しつつあった。

 効率だけを追うのではなく、相手の懐に「余白」を投げかける。一見すると無駄に思える会話や、沈黙を共有する時間。それが結果として、顧客との強固な信頼関係を築き、成約率という数字に結実していく。


(佐藤さんの言っていたことは、本当だった……)


 佐々木は、自席で最新の数字を確認しながら、深く息を吐いた。この営業部は今や「人間らしい温度」を保ちながら、組織としての最強のパフォーマンスを発揮していた。


 だが、その充実感の裏側で、佐々木の心には小さな棘が刺さっていた。

 週末になるたびに訪れる、住宅街の小さな園芸店「緑の小道園芸」。

 店主の娘であり、佐々木にとって今やかけがえのない存在となった真澄の表情が、ここ最近、目に見えてかげっていたからだ。


 その日、仕事帰りに店を訪れた佐々木は、異様な光景を目にした。

 夕暮れの淡い光に包まれた店内。いつもなら季節の苗で溢れかえっているはずの入り口付近の棚が、寂しく空いている。並んでいる植物たちも、どこか元気がなく、手入れの行き届いていない様子が伺えた。


「……真澄さん?」


 奥の作業場で、力なく椅子に座っていた真澄が、肩を震わせた。

 彼女は佐々木に気づくと、慌てていつもの微笑みを作ろうとしたが、その瞳の奥にある深い疲弊までは隠しきれなかった。


「あ、佐々木さん。いらっしゃい。……今日は、もう閉店にしようと思ってたところなんです」


 真澄の声は、春風に消えてしまいそうなほど、細く、頼りなかった。



---



 佐々木は、閉店作業を手伝いながら、静かに問いかけた。


「……何か、あったんですよね。隠さないでください」


 真澄はしばらく黙って、ハーブの苗に溜まった埃を指先でなぞっていたが、やがて諦めたように口を開いた。


「……大型の、ホームセンターができたんです。二駅先に。……先週のオープン以来、うちのお客さん、みんなあっちに行っちゃって」


 彼女が差し出したのは、店の収支が記された古いノートだった。

 そこには、残酷なまでの数字の羅列があった。

 大型店による圧倒的な物量と、大量仕入れによる低価格戦略。小さな個人商店である「緑の小道園芸」にとって、それは抗いようのない濁流だった。


「お父さんも、もう限界だって……。先代から続いてきたこの場所も、来月で畳むべきなんじゃないかって話し合ってるんです。不採算店舗の整理……ビジネスの世界では、それが正しい判断なんでしょう?」


 真澄の言葉は、かつての佐々木自身が口にしていたはずの「効率至上主義」の論理だった。

 一秒の無駄も許さず、数字に繋がらないものは切り捨てる。それが組織を、そして自分を守るための唯一の「解」だと、彼は信じていたはずだった。


 だが、今の佐々木の心は、激しくそれを拒絶していた。

 この店は、単なる植物の販売拠点ではない。

 自分が真澄と出会い、共に「温室の対話」を重ねた場所だ。陽介が説いた「余白」を、最も純粋な形で体現している、佐々木にとっての「心の聖域」なのだ。


(ここを失ったら……俺は、俺自身の一部を失うことになる)


 佐々木は、真澄の手をそっと握りしめた。その手は、冷たく震えていた。


「真澄さん。……営業マンとして、言わせてください。この店は、まだ終わっていません」

「え……?」

「大型店にはできない戦い方がある。佐藤陽介さんが教えてくれた、僕の持っている技術を……全部、この店に注ぎ込ませてください。この庭を、枯らさせはしません」


 佐々木の瞳に宿った、静かで強固な意志。

 それは、かつて陽介から受け継いだ「バトン」が、佐々木の中で熱い光を放ち始めた証でもあった。



---



 その夜から、佐々木は不眠不休の戦いを始めた。

 日中は営業部での激務をこなしながら、深夜、マンションの自室で「緑の小道園芸」の再生計画を練り上げた。

 以前の彼なら、まずコストカットを考えただろう。しかし、今の佐々木が立案したのは、全く逆のアプローチだった。


「価格で勝負してはいけない。大型店が売っているのは『商品』だ。でも、この店が売るべきなのは『体験』であり、『時間』そのものだ」


 翌週末。佐々木はスーツのまま、真澄と、頑固一徹な店主である彼女の父親の前に立ち、プレゼンテーションを行った。

 かつて営業部で何十回と行ってきたプレゼン。だが、これほどまでに魂を込めて語ったことはなかった。


「お父さん、真澄さん。コンセプトは『リトリート・ガーデン(都会の喧騒を忘れるための、何もしないための庭)』です」


 佐々木は、持参したスケッチを広げた。


「入り口の棚を半分に減らします。空いたスペースには、売り物ではないベンチと、真澄さんが淹れるハーブティーを出す小さなスペースを作ります。

 ……ここは、植物を買う場所ではなく、植物に囲まれて『何もしない時間』を過ごすための場所に変えるんです」


 店主は眉を潜めた。


「売り場を減らして、どうやって食っていくってんだ。馬鹿馬鹿しい」


「お父さん、今の都会の人間は、疲れているんです。僕がそうだったように。みんな、何かに追い立てられ、効率の奴隷になっています。彼らが求めているのは、安い苗ではなく、自分が『一個の人間』に戻れる場所なんです。

 この店には、真澄さんが丁寧に育てた、物語のある植物たちがいる。それを、物語ごと売るんです」


 佐々木は、陽介から学んだ「認知資源の回復」という言葉を、誰にでもわかる言葉に置き換えて語った。

 真澄が教えてくれた「見守る手間」という言葉。それを、そのまま店づくりの哲学に据えた。

 真澄は、佐々木の言葉を、一言も漏らさぬように聞き入っていた。

 彼女の目には、希望の灯火が再び宿り始めていた。


「……やりましょう。私、佐々木さんを信じたい」



---



 翌週から、佐々木は休日を返上して、店の改装作業に没頭した。

 営業部でのディスプレイのノウハウを活かし、植物たちが最も美しく見える角度、そして風が通り抜ける「余白」を意識して、重い鉢を運び、配置を変えた。

 営業部で磨いたコピーライティングの技術を使い、一つ一つの苗に手書きのPOPを添えた。


『頑張りすぎたあなたへ。夜に香る、少しだけ傲慢なミント』

『迷っているなら、今は何もしないことを選んでもいい。休眠期のパキラ』


 SNSでの発信も始めた。

 真澄が朝露に濡れる苗に水をやる瞬間、土の温かさを語る横顔。それを、佐々木は営業マンとしての確かな嗅覚で「価値」として切り出し、世界へ発信していった。

 作業の合間、真澄と二人でハーブティーを飲む時間が、佐々木にとっての救いだった。


「佐々木さん、すごいですね。……ビジネスって、こんなに温かいものだったんですか?」


 真澄が、汗を拭いながら微笑む。


「僕も、知らなかったんです。佐藤さんに会うまでは。……仕事は、誰かを蹴落とすための武器じゃない。誰かの庭を豊かにするための、スコップなんだって」


 共に汗を流し、一つの理想に向かって土を耕す。

 それは、佐々木と真澄の距離を、これ以上ないほどに近づけていった。

 二人の間に流れる空気は、温室での静寂を超え、共に嵐を乗り越える「戦友」のような、太い絆へと変わっていった。



---



 改装オープン当日。

 佐々木は不安と期待を胸に、店の前に立っていた。

 果たして、自分の提案は受け入れられるのか。都会の人間は、本当に「何もしない時間」を求めているのか。

 

 その答えは、昼過ぎに現れた。

 SNSを見てやってきたという、疲れ果てた表情の若いOL。彼女は、佐々木が提案したベンチに座り、真澄が差し出したハーブティーを一口飲むと、しばらくの間、じっと目の前のシダ植物を見つめていた。

 やがて、彼女の瞳から大粒の涙がこぼれ落ちた。


「……なんだか、呼吸がしやすくなった気がします」


 彼女は、小さなハーブの鉢を抱えて、軽やかな足取りで店を後にした。

 それを皮切りに、客足は少しずつ、しかし確実に増えていった。

 

 「効率」という名の激流に飲み込まれそうになっていた人々が、この小さな「余白の聖域」を求めてやってくる。

 大型店では決して味わえない、真澄との静かな会話。植物たちが放つ、手間をかけられた分だけの深い香り。


 締日。店主のノートに記された数字は、かつての絶望的な赤字を脱し、微かな、しかし力強い黒字へと反転しつつあった。


「佐々木さん……本当に、ありがとう」


 閉店後の店内で、真澄は深々と頭を下げた。

 佐々木は、その細い肩を抱き寄せたい衝動を抑え、優しく言った。


「僕の方こそ、ありがとう。……この店を守ることで、僕は確信できたんです。佐藤陽介さんの哲学は、会社の中だけじゃない、この広い世界を救える本物の力だって」


 佐々木は、自分の手が、もう震えていないことに気づいた。

 彼はもう、陽介の背中を追うだけのひ弱な後輩ではない。

 自らの手で土を耕し、大切な場所を守り抜いた、一人の誇り高き「庭師」へと成長していたのだ。



---



 五月後半。

 「緑の小道園芸」に再び平穏が訪れ、佐々木と真澄の間には、言葉にせずとも互いの存在が不可欠であるという、瑞々しい感情が育っていた。

 そんなある日の月曜日。

 営業部に出社した佐々木のデスクに、一通の事務的な内線が入った。


「佐々木君。人事部の野村だ。……至急、こちらのフロアまで来てもらいたい。昨年からの営業部経費の照合、および佐藤陽介君の案件について、君に確認したいことがある」


 野村部長の声は、電話越しでもわかるほどに乾き、冷え切っていた。

 その響きは、せっかく芽吹いたばかりの五月の風景を、一瞬にして凍りつかせるような不吉さを孕んでいた。


(……陽介さんの案件?)


 佐々木の脳裏に、「消えない棘のような不安」が、巨大な影となって蘇る。

 自分は私生活で庭を守り、仕事で成果を出してきた。だが、その根源である陽介さんは今、どうなっているのか。


「……承知しました。すぐに向かいます」


 佐々木は受話器を置き、ジャケットを羽織った。

 

 窓の外。

 あんなに輝いていた新緑の葉が、急に立ち込めた黒雲に覆われ、ざわめき始めていた。

 

 佐々木は、自分の胸の中に、真澄から教わった「土の温かさ」がまだ残っていることを確かめるように、深く息を吸い込んだ。

 

 そして、彼は一歩を踏み出した。

 あの日、陽介を最高級の賞賛と共に送り出した、あの「処刑場」へと向かうために。

 

 五月の風が、湿り気を帯びた嵐の匂いを運んできていた。

 咆哮へのカウントダウンが、静かに始まった。

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