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42歳のすみかは庭になりました  作者:
第2部 第6章「それぞれの2ヶ月〜佐々木の章〜」

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温室の対話

 四月中旬。都心の喧騒を縫うように吹き抜ける風には、もう冬の名残はなかった。

 街路樹のハナミズキが白やピンクの苞を広げ、歩道に落ちる影は、先月よりもずっと濃く、鮮やかだ。

 佐々木は、腕時計の針を何度も確認しながら、落ち着かない様子で周囲を見渡していた。

 

 今日の彼は、いつもの隙のないスーツ姿ではない。

 ネイビーのコットンパンツに、少し背伸びをして新調した柔らかな風合いのアイボリーのシャツ。陽介からかつて「休日は仕事の延長線上であってはいけない」と言われたことを思い出し、あえてビジネスの匂いを消した装いを選んだつもりだったが、その背筋は慣れない「私生活の約束」にピンと張り詰めていた。


 営業部でのこの一週間は、嵐のような忙しさだった。

 高橋部長が「ナレッジ・ガーデン」を維持しているおかげで、部内には陽介の残した知恵が花開いている。だがその一方で、人事部からは不穏な噂が風に乗って届いてくる。

 陽介が孤立していること。

 役員層からの風当たりが強まっていること。

 佐々木は、フロアで部員たちの笑い声を聞くたびに、その土台を築きながら今は砂漠のような場所にいる陽介を想い、胸を締め付けられるような思いをしていた。


(だからこそ、今日は……俺自身の心を、ちゃんと耕さなきゃいけないんだ)


 そう自分に言い聞かせた時、人混みの中から、ふわりと春の空気を纏った女性が現れた。

 真澄だった。

 彼女は、店で見せる無骨な作業着姿ではなく、淡いピスタチオグリーンのロングスカートに、生成りのカーディガンを羽織っていた。

 髪はゆるく編み込まれ、そこには花の香りを連想させるような、静かで確かな清潔感が宿っている。


「佐々木さん、お待たせしました」


 真澄が近づき、少しはにかんだように微笑む。

 佐々木は一瞬、息を呑んだ。店の中で土に塗れていた彼女も美しかったが、四月の光を浴びて歩いてくる彼女は、まるで都会の真ん中に現れた小さな森の精霊のように見えた。


「い、いえ! 全然待ってないです。今来たところですから」


 テンプレートのような返答をしてしまい、佐々木は内心で自分の語彙力のなさを呪った。だが真澄は、そんな彼の緊張を見透かしたように、「行きましょうか」と優しく促した。



---



 植物園の中に足を踏み入れると、そこは別世界だった。

 ソメイヨシノはすでに散り、地面を薄紅色の絨毯で覆っているが、代わって八重桜がぼんぼりのような重厚な花を咲かせている。


「見てください。あの八重桜、今年は少し開花が遅かった分、色が濃いですね」


 真澄が指差す先には、春の重みを一身に背負ったような、生命力に満ちた花があった。

 二人はゆっくりと歩き出した。

 真澄は歩きながら、目に入る植物たちの名前や特性を、物語を語るように教えてくれた。


「あそこのツツジは、去年剪定を控えたんでしょうね。枝ぶりが自由で、花がのびのびとしています」


「……剪定を控えると、花は良くなるんですか?」


「一概には言えませんけど、植物にも『自分なりに伸びたい方向』があるんです。それを人間の都合で無理に抑え込むと、翌年の花付きが悪くなることもあります。

 ……あ、ごめんなさい。つい仕事目線になっちゃって」


 真澄が照れたように笑う。佐々木はその言葉に、強く心を揺さぶられた。

 人間の都合で無理に抑え込む。

 それはまさに、高橋部長がかつての営業部で行っていたこと、そして今、会社という組織が陽介に対して行おうとしていることそのものではないか。


「真澄さんの話は、なんだか……僕の仕事にも通じるところが多くて。もっと聞かせてほしいです」


 佐々木の言葉に、真澄は少し驚いたように瞳を丸くしたが、やがて嬉しそうに頷いた。

 芝生広場を抜け、二人は今日の本命である大温室へと向かった。

 巨大なガラス張りのドームが、午後の光を乱反射させて輝いている。その中は、外の世界とは全く異なる時間が流れているはずだった。



---



 重い扉を開け、一歩中へ踏み入れた瞬間、佐々木の視界が一瞬で曇った。

 むせ返るような湿気。そして、土と腐葉土、そして濃厚な花の香りが混ざり合った、圧倒的な「生命の匂い」が全身を包み込む。


「すごい……」


 そこには異界が広がっていた。

 天井まで届く巨大なヤシの木、不気味なほどに巨大な葉を広げるシダ植物。岩肌を這うように咲く極彩色の蘭。

 都会のビル群が「直線と無機質」で構成されているのに対し、ここは「曲線と混沌」に支配されている。


「温室って、不思議ですよね。人工的な建物の中に、一番原始的な自然が閉じ込められている」


 真澄の言葉が、温室の中に反響する。

 通路は入り組んでおり、まるで緑の迷宮を歩いているようだ。

 真澄は時折立ち止まり、植物の葉の裏側を見たり、土の状態を確認したりしている。その指先は、彼女を初めて見た時と同じ、種を慈しむような繊細さを持っていた。


「佐々木さん、これを見てください」


 真澄が指差したのは、大きな木の幹に寄り添うようにして伸びる、小さな着生植物だった。


「この子は、自分一人では高いところまで行けません。でも、大きな木を借りて、少しでも光に近い場所へ行こうとしている。これを『寄生』ではなく『共生』と呼ぶんです。大きな木の方も、この子がいることで幹の乾燥を防げる」


 佐々木は、その小さな植物を見つめた。

 大きな存在を頼りながら、自らもまた、その存在の助けとなる。それは、佐々木自身が陽介に対して抱いていた想いそのものだった。

 自分は陽介さんの背中を追いかけ、彼の哲学に守られてきた。でも、今度は自分が陽介さんという大きな幹を支える一部になりたい。


「……素敵ですね、共生。僕も、そんな風になりたいと思って戦っているんです」


 佐々木の呟きは、水の滴る音にかき消されそうだったが、真澄にはしっかりと届いていた。



---



 温室の最上層まで登り、滝のように水が流れ落ちる岩場の横にある木製のベンチに、二人は腰を下ろした。

 上からは太陽の光がガラス越しに柔らかく降り注ぎ、周囲の緑が深呼吸をしているような静寂が流れている。

 佐々木は、ペットボトルの水を一口飲み、意を決して話し始めた。


「真澄さん。前回、僕が話した『先輩』……陽介さんのことなんですけど」


「はい。素敵な方ですよね」


「彼が教えくれたのは、まさにこの温室のような場所でした。効率を求めて切り詰めるんじゃなく、多様な個性が共生して、無駄に見える『余白』があるからこそ、人は活き活きと働けるんだって」


 佐々木は、自分の言葉が少しずつ熱を帯びていくのを感じた。


「僕は、営業部で彼の遺産を守ってはいますけど、何もできないことが、情けなくて……」


 言葉にすると、改めて自分の無力さが浮き彫りになり、佐々木は膝の上で拳を握りしめた。

 陽介はあんなに優しく「最高の戦友だ」と言ってくれた。それなのに、自分は何も返せていない。

 沈黙が流れた。

 水の音だけが、絶え間なく響いている。

 やがて、真澄が静かに口を開いた。


「佐々木さん。……植物を育てる時、一番大切なのは何だと思いますか?」

「え……水やり、ですか?」

「それも大切です。でも、一番は『見守ること』なんです」


 真澄は、自分の手を見つめながら続けた。


「植物が弱っている時、焦って肥料をやりすぎたり、無理に植え替えたりすると、逆にトドメを刺してしまうことがあります。

 その子が今、自分の力で根を張り直そうとしているのを、ただ信じて、適切な環境を整えて待つ。それが一番難しいけれど、一番大切な手間なんです」


 真澄は、佐々木の顔を真っ直ぐに見つめた。


「あなたが今、営業部でその先輩の哲学を守り、部内の空気を温かく保っていること。それは、肥料をやるよりもずっと大切な『環境づくり』なんじゃないでしょうか」


「環境づくり……」


「その先輩が、いつか自分の根を張り終えて、再び芽を出そうとした時。戻る場所が冷たい石の床だったら、芽吹くことはできません。でも、あなたが耕した温かい土があれば、彼はまたすぐに大きな木になれる」


 真澄の声は、温室内を満たす湿気のように、佐々木の心の隅々にまで染み渡っていった。


「あなたは、何もできていないんじゃない。その先輩が一番必要としている『戻るべき場所』を、今、守っているんです。

 ……それって、すごく勇敢で、素敵なことだと思いますよ」


 真澄が微笑む。

 その微笑みは、「休眠期」の話の時よりもさらに深く、佐々木の魂の奥底にある不安を溶かしていった。

 佐々木は、喉の奥が熱くなるのを堪えられなかった。


 そうか。自分は、無力な傍観者ではなかった。

 陽介という天才的な庭師が、全社という広大な荒野を耕しに行っている間、自分は彼が帰ってくるための「小さな庭」を、最高に瑞々しい状態で維持し続ける使命があるのだ。


「……ありがとうございます、真澄さん。なんだか、ずっと胸につかえていたものが、すとんと落ちた気がします」


 佐々木は、心からの笑顔を浮かべた。

 その笑顔を見て、真澄もまた、少し赤らんだ頬で小さく頷いた。



---



 温室を出ると、外の空気はひんやりとしていて、夕暮れの気配が漂い始めていた。

 黄金色の陽光が木々の間から差し込み、二人の長い影を芝生の上に落としている。


 二人は出口に向かって歩きながら、今度はとりとめもない話をした。

 佐々木の失敗談や、真澄の店に来る変わったお客さんの話。

 ビジネスの世界で「成果」と「効率」に追われている時には決して得られない、意味のない、けれど愛おしい会話の積み重ね。


(これも、『余白』なんだな)


 佐々木は実感した。

 陽介が守ろうとしたのは、まさにこの時間の感覚だ。

 人間が人間として、ただそこに存在し、他者と響き合うことの心地よさ。


「あ……」


 真澄が足を止めた。

 目の前には、池の畔に咲く大きなハルニレの木があった。

 夕陽に照らされた若葉が、透き通るような明るい緑色に輝いている。


「綺麗ですね」

「ええ。この時期の緑は、一年で一番エネルギーに満ちています」


 真澄が眩しそうに目を細める。

 佐々木は、その横顔を盗み見た。

 彼女と過ごす時間は、自分という人間を、営業マンの「佐々木」から、一個の青年としての「自分」へと引き戻してくれる。


「真澄さん。……また、こうして一緒に植物を見に来てくれませんか」


 佐々木の声は、少し震えていた。

 真澄はゆっくりとこちらを向き、少し驚いたような表情を見せた後、夕陽よりも温かな色で頬を染めた。


「はい。……喜んで。私も、佐々木さんとお話ししていると、自分の店の大切なことを思い出せる気がするんです」


 その言葉に、佐々木は胸が高鳴るのを感じた。

 二人の間に、目には見えないけれど確かな「芽」が出た瞬間だった。


 駅へと向かう道すがら、街灯が灯り始めた。

 真澄を駅の改札まで送り、背中を見送った後、佐々木は一人、駅のホームに立った。

 電車に乗り込み、窓の外に流れる都会の夜景を眺める。数時間前まで感じていた重苦しいプレッシャーは、もうなかった。

 代わりに、静かで冷徹な、けれど熱い決意が腹の底に据わっていた。


(陽介さん。見ていてください)


 佐々木は、車窓に映る自分の顔を見つめる。

 かつてのひ弱な後輩の顔ではない。

 守るべき人ができ、受け継ぐべき哲学を持つ、一人の男の顔があった。


(俺は、営業部という庭を、絶対に枯らさない。あなたが人事部でどんなに踏みつけられても、帰ってきた時に『やっぱり俺の庭は最高だな』って笑えるように、俺が最高に瑞々しい土を耕しておきます)


 佐々木は、鞄の中に忍ばせた一冊の手帳を取り出した。

 そこには、今日真澄から教わった「見守る手間」という言葉が書き留められている。

 明日から、また戦いが始まる。

 だが、今の佐々木には、かつてのような迷いはない。

 

 四月の夜風はまだ少し冷たかったが、佐々木の心には、温室で感じたあの熱帯の生命力のような、力強い脈動が刻まれていた。

 

 春の雷が鳴り、雨が大地を湿らせた後には、必ず新しい芽が出る。

 佐々木は、自分がその「最初の芽」であることを確信しながら、夜の街へと踏み出した。

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