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42歳のすみかは庭になりました  作者:
第2部 第6章「それぞれの2ヶ月〜佐々木の章〜」

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春雷の導き

 四月初旬の深夜。年度初めの業務を終えた営業部のフロアは、柔らかな月光に照らされていた。

 佐々木は一人、自席のPCをシャットダウンし、大きく背伸びをした。視線の先には、フロアの一角にある、かつて佐藤陽介が座っていたデスクがある。


 そこは今、主を失った物置ではなく、「ナレッジ・ガーデン」という名の聖域へと変貌を遂げていた。

 デスクの横のパーティションを埋め尽くす、色とりどりの付箋。それは部員たちが陽介の「余白」の哲学を実践し、収穫した知恵を分かち合う場所だ。


『顧客の趣味の話で盛り上がった。商談時間は延びたが、信頼関係は一生ものになった』

『疲れたら無理せず十五分、屋上へ。その後の集中力が違う』


 佐々木は、その付箋の一枚一枚を眺めながら、数日前のあの夜を思い出していた。

 陽介と差し向かいで飲んだ、あの古びた居酒屋。


『佐藤さんに教えてもらったんです。仕事は、削ぎ落とすことじゃなくて、積み上げることなんだって。……僕は、僕らは、この哲学の盾になります』


 あの時、自分はそう宣言した。

 だが、現実は甘くない。陽介が人事部へ去ったことで、営業部は表面的には「ナレッジ・ガーデン」のように温かい空気を保っているが、その実、組織という巨大な歯車は、着実にこの場所から陽介の色彩を奪おうとしている。

 高橋部長は今のところこの「余白」を戦略として認めているが、全社的な圧力が増せば、いつこの場所が再び冷徹な数字の戦場に戻されるか分からない。


「……守らなきゃいけないんだ。佐藤さんが残してくれた、この『庭』を」


 佐々木は拳を握りしめた。自分が営業成績を上げ続けること。それが、陽介の正しさを証明する唯一の手段であり、この温かい場所を守るための「盾」になるのだ。



---



 週末の土曜日。佐々木はジョギングを終え、自宅のベランダでハーブの苗に水をやっていた。

 年明けのあの日、効率主義の呪縛を脱ぎ捨てて、一人で見つけたあの寂れた商店街の園芸店。

 あの日、真澄から買ったハーブは、厳しい冬を越えて、今、土の表面に小さな、しかし瑞々しい緑の点を見せ始めている。


 ふと、あの場所へ戻りたくなった。


 営業部で「陽介の代理」として気を張り続け、枯れそうになっている自分という土壌に、新しい水が必要だと感じたのだ。

 佐々木はシャワーを浴びると、迷わずあの「緑の小道園芸」へと向かった。

 商店街は、時の流れから取り残されたように静まり返っていた。再開発の波も、都会の喧騒も届かない場所。

 「緑の小道園芸」の看板が見えた瞬間、佐々木の張り詰めていた肩の力が、ふっと抜けた。


 店の軒先には、手入れは行き届いているが、どこか野趣あふれる鉢植えたちが並んでいる。『手間をかけた分だけ香りが濃くなる』という手書きのメモが、誇らしげに揺れていた。

 佐々木が店内に足を踏み入れると、土と木の混ざり合った、あの懐かしい香りが鼻腔をくすぐった。

 奥の作業台。一人の女性が背を向けて作業をしている。

 真澄だ。

 彼女は小さな篩を使い、土から種を選別していた。その丁寧な、命を慈しむような手の動きは、何度見ても息を呑むほど美しい。


 佐々木が近づくと、彼女は以前と同じように、ビジネス的な愛想を振りまくことなく、ゆっくりと顔を上げた。

 その瞳が佐々木を捉えた瞬間、彼女の表情が驚きに、そして温かな確信に変わった。

「あ……パキラの、お客様……ですよね?」


 佐々木は胸が熱くなるのを感じた。


「覚えていてくださったんですか」

「ええ、もちろん。あんなに真剣な、まるで戦場に持っていく武器でも選ぶような目をして、一時間以上も植物と向き合っていた方は、後にも先にもあなただけですから」


 真澄は作業を止め、こちらへ歩み寄ってきた。

 彼女の微笑みは、成果や数字を求められる日常に晒されている佐々木にとって、乾いた大地に降る恵みの雨のように感じられた。



---



 二人の会話は、自然と植物の話へと移っていった。佐々木は、前回の来店時に買ったハーブの近況を報告した。


「真澄さんに教えてもらった通り、水やりの手間を惜しまなかったら、本当に香りが濃くなった気がします。仕事で疲れて帰ってきても、あの香りを嗅ぐと、ああ、まだ俺も『人間』でいられるなって思えるんです」


 真澄は嬉しそうに頷いた。


「それは、ハーブがあなたの手間を正直に返してくれたんですよ」


 だが、佐々木は少し視線を落とした。


「でも最近、少し不安になるんです。自分の成長が止まっているんじゃないかって。仕事でも、陽介さん……あ、その先輩のことなんですが、彼のようには振る舞えなくて。焦りばかりが募るんです」


 真澄はしばらく黙って、佐々木の顔を見ていた。そして、店の入り口近くにある、まだ芽も出していない茶色の土の鉢を指差した。


「今は、三月の終わり。植物にとっては『目覚め』の時期ですけど、それまでは長い『休眠期』でした」

「休眠期……」

「ええ。冬の間、地上部は何の変化もないように見えます。枯れているんじゃないかと思うくらい。

 でもね、土の中では違うんです。彼らは必死に、目に見えないところで根を伸ばし、春に爆発させるためのエネルギーを蓄えている」


 真澄は、その土を愛おしそうに撫でた。


「人間も同じじゃないでしょうか。目に見える成果や、仕事の伸びだけが『成長』ではないんです。停滞しているように見える時期こそ、実は一番深く、根を張っている時なのかもしれません。

 あなたのその先輩も……今は土の中で、新しい庭の準備をされているんじゃないですか?」



---



 気がつくと、一時間近くが経過していた。

 店内には、いつの間にか遠くで低く響くような音が聞こえ始めていた。

 ゴロゴロ、と空が唸っている。


「……雷?」

「あ、春雷ですね。虫出しの雷とも言って、これでいよいよ春が本格的に始まります」


 真澄が顔を上げ、窓の外の灰色の空を見上げた。

 佐々木は、その雷鳴に背中を押されたような気がした。

 自分の心の中でも、眠っていた何かが、その音に応えるように震え出している。


「あの……真澄さん。……また、来てもいいですか。今度は、ハーブの話だけじゃなくて、俺の『庭』の話も聞きに来てほしくて」


 佐々木は、以前の自分なら、ここでスマートに次の約束を取り付けようとしただろう。だが、今は違う。

 真澄が持つ「非効率な、しかし揺るぎない確信」に触れた後では、駆け引きなど必要ないと感じられた。

 真澄は、これまでで一番柔らかな、そして温かい微笑みを浮かべた。


「ええ。……お待ちしていますね」


 店を出ると、冷たい雨は止み、雲の切れ間から、鋭い、しかし確かな力を持った夕陽が差し込んでいた。



---



 週が明け、月曜日の朝。佐々木は、これまでよりも早く出社した。

 温かな光が差し込む営業部のフロア。

 「ナレッジ・ガーデン」の付箋たちは、朝の光を受けて鮮やかに揺れている。


 佐々木は、自分のデスクの端に、昨日新しく買った苗を置いた。

 高橋部長が出社してくる。彼女はフロアを一瞥し、佐々木のデスクの植物に目を留めたが、何も言わなかった。

 だが、佐々木は気づいた。部長が「ナレッジ・ガーデン」を通り過ぎる時、わずかにその歩みを緩め、付箋に記された部員たちの言葉を慈しむように見つめているのを。


(陽介さん。俺、ようやくわかりました)


 佐々木は、PCを立ち上げた。

 画面に映る数字の羅列。それはかつての彼にとっては冷酷なノルマの象徴だったが、今は違う。

 この数字の一つ一つが、陽介の哲学を守るための「盾の厚み」になるのだ。


「部長、本日の打ち合わせ、十五分だけ時間をください。前回の商談で顧客から得た『余白の声』を、次の戦略に活かす提案があります」


 高橋部長が、ゆっくりと振り返る。

 佐々木の瞳には、かつての焦りはなく、代わりに静かな、しかし強固な「確信」が宿っていた。


「……いいわ。聞かせなさい」


 春雷が告げた通り、いよいよ、本格的な芽吹きの季節がやってくる。

 佐々木は、自分の心の中の庭に、しっかりと根を下ろす感触を確かめながら、力強く受話器を取った。

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