泥をすする覚悟
居酒屋の引き戸を開けると、湿った熱気と、安っぽい揚げ物の匂い、そして仕事帰りの労働者たちの濁った喧騒が、容赦なく押し寄せてきた。
土砂降りの路上から逃げ込んできた高橋と陽介にとって、その喧騒は、むしろ世界から自分たちを隠してくれる防音壁のように感じられた。
隅の小さなテーブル席。
向かい合わせに座った佐藤陽介は、いまだに激しく震えていた。
雨に濡れた立派なスーツが、彼の痩せた身体に無惨に張り付いている。
高橋は、店員から受け取ったビニール袋に自分の濡れたジャケットを押し込み、震える陽介におしぼりを差し出した。
「……拭きなさい、佐藤」
その声は、自分でも驚くほど低く、硬かった。
高橋の指先もまた、冷たい雨のせいか、それとも目の前の「惨状」への戦慄のせいか、感覚を失いかけていた。
陽介は、焦点の定まらない瞳で、差し出されたおしぼりを見つめている。
あの役員会議からここまでの数週間、組織という巨大な機械が、この男をどれほど執拗に磨り潰してきたのか。
彼が今、この居酒屋の安っぽい椅子に座っていることさえ、奇跡のように思えた。
「熱いお茶を二つ。それと、ビールを」
高橋は事務的に注文を済ませた。
管理職としての「配慮」などではない。これは、瀕死の兵士を戦場から引きずり出した者が行う、最低限の救命処置だった。
湯気の立つお茶が運ばれてきても、陽介は動かない。
高橋は、自分の胸の奥が、熱い鉛を流し込まれたように疼くのを感じていた。
あの輝くような春の日、彼女が彼の才能を見出し、この残酷な「組織の深部」へと送り出した。
その結果が、これだ。
誇り高き戦略家は、ただの「雨に濡れた敗残者」に成り果て、その豊かな感受性は、絶望という名の毒によって麻痺させられている。
(私が……私がお前を、この地獄へ連れてきた)
高橋は、自分の指先を強く握りしめた。
謝罪の言葉は、喉の奥に張り付いて出てこない。
今、ここで「ごめんなさい」と言えば、それは彼の苦しみを、自分の罪悪感を解消するための「安っぽい慰め」に貶めてしまう。それは、高橋直子の矜持が許さなかった。
---
店員がテーブルを置いたビールを、陽介は手に取った。それを唇につけ、ほんの一口だけ口に含んだ。
「部長……俺、理想を殺しました」
冷たいビールが喉を震わせる。
「余白なんて、この会社には必要ないんです。人は数字で、コストで、ただの消耗品なんです。俺がやってきたことは、ただの遊びだったのかもしれません」
高橋は、時折テレビに目線を向けながら、湯気の向こう側にいる陽介の瞳を、射抜くように見つめた。
「佐藤。お前、組織を変えるってことが、どういうことだか分かってるか?」
陽介が、怯えたように肩を揺らし、ゆっくりと顔を上げる。
「……理想を掲げ、共感を得ることではないのですか」
「違うな」
高橋はジョッキを置いた。
「組織を変えるのは、理想を掲げることじゃない。理想を抱えたまま、泥を啜り続けることだ」
「泥を、啜る……」
陽介の瞳に、困惑と、深い傷跡が走る。
だが、高橋は目を逸らさなかった。
この言葉は、彼に対する宣告ではない。自分自身に対する、そしてこの組織という怪物に対する、呪詛に近い「宣戦布告」だった。
「お前が今回出した案は、綺麗すぎたんだ。正論は、人を傷つけるし、組織を硬直させる。
私たちがいる場所は、庭じゃない。泥沼だ。
その泥の中に手を突っ込んで、汚れながら、それでも底にある『意志』を捨てない奴だけが、いつか景色を変えられる」
直子は、わざと冷淡な口調を選んだ。
彼女自身、役員会議で、沈黙という名の泥を啜った。彼が罵倒されている間、末席で唇を噛み切り、自分の地位という名の椅子にしがみついた。
その時の屈辱、その時の自己嫌悪。
それは、理想を掲げていた頃の自分を殺し、新しい「戦い方」を覚えるための通過儀礼だった。
「私だって、お前を助けられなかった。役員たちの顔色を伺い、保身に走った。
私も泥まみれなんだ。だがな、佐藤。泥まみれになったからこそ、見えるものがあるんだよ」
陽介の震えが、微かに収まった。
泥を啜る。
それは、今の自分を全否定することではない。
この醜い現実を、組織の理不尽さを、そのまま「土」として受け入れ、栄養に変えろという意味だ。
高橋直子は、彼に「聖人」であれとは言わなかった。
「生き残れ」と、泥まみれになっても這い上がってこいと、命じたのだ。
高橋の瞳には、慈悲を殺した「支配者」の強さと、その奥に潜む、張り裂けんばかりの「敬意」が同居していた。
---
陽介が、震える手でお茶の湯呑みを持ち上げた。
温かい蒸気が彼の顔を包み、ほんの少しだけ、血の気が戻る。
「……部長。私は、間違っていたのでしょうか」
消え入りそうな声。
彼は、自分の信じていた「人間の幸福」という言葉が、この世界ではただの無価値なゴミに過ぎないのではないかという疑念に、心を引き裂かれていた。
「間違っていない。……絶対に」
高橋は、今度ははっきりと、断定するように言った。
「あなたが異動した後、営業部がどうなっているか、知っている? 数字は過去最高よ。でも、それは私が厳しく管理したからじゃない。佐々木たちが、あなたの残した『余白』を必死に守り、それを武器に戦っているからよ。
……あなたの戦略は、現場で、血の通った人間たちの手で、既に勝利を収めているの」
陽介の瞳が、大きく見開かれた。
自分は全てを失い、全否定されたと思っていた。
だが、自分の蒔いた種は、自分が知らない場所で、ちゃんと芽吹いていた。
「あなたが人事部で泥を啜っている間も、あなたの意志は営業部で生き続けている。……だから、自分を無能だなんて思うな。あなたが耐えている時間は、無意味なんかじゃない」
高橋は、身を乗り出した。
「謝らせてくれ、佐藤。……私が、あなたをこんな場所へ連れてきた。私の期待が、あなたを追い詰めた。……その責任は、すべて私にある」
初めて口にした、懺悔の言葉。
それは、雨の夜の居酒屋という、密室のような場所だからこそ許された、上司と部下の「境界」を越えた真実の独白だった。
陽介の頬を、雨ではない熱い滴が伝い落ちる。
高橋はそれを黙って見守った。
絶望の底で、自分の価値を再確認すること。それが、再起のための唯一の足場になることを、彼女は知っていた。
---
「これから……どうすればいいんですか」
陽介の声に、わずかながらの力が宿った。
高橋は、残り少なくなって、冷めたお茶を一口飲み、唇を硬く結んだ。
「表向きは、今のまま『無能』を演じ続けなさい。野村や常務たちの前では、完全に牙を抜かれた従順な羊でいること。
……彼らがあなたへの関心を失い、『もう終わった人間だ』と油断するまで、徹底的に泥にまみれるのよ」
それは、正攻法の「革命」ではなく、組織の闇に紛れる「ゲリラ戦」の提案だった。
「その代わり、私があなたの盾になる。営業部の実績という強力な盾を使い、あなたが再び動けるようになるための『場所』を、私が必ず守り抜く」
高橋直子は、この瞬間に決めた。
自分は、この組織の醜い論理に、誰よりも精通した「怪物」になる。
陽介を光の中に導くために、自分は深い闇の中に留まり、権謀術数という泥を啜り続ける。
「これは、契約だ、佐藤。……あなたは、諦めない。私は、あなたを捨てない。……いいな?」
陽介は、潤んだ瞳で直子を真っ直ぐに見つめ返した。
そこには、かつての「期待に応えようとする部下」の顔ではなく、共に地獄を生き抜こうとする「同志」の覚悟が宿っていた。
「……はい、部長」
居酒屋を出る頃には、雨は小降りになっていた。
都会の夜の匂いは、雨に洗われて、どこか清々しくさえ感じられた。
「佐藤。一気に変えようとするな。植物だって、四季を経て育つだろう」
高橋は合わない焦点で、それでも目を凝らして陽介を見る。
「組織にも、冬が必要なんだ。今は耐えて、根を伸ばす時期なんだよ。お前の言う『余白』は、まだ若すぎた。
組織という土壌を耕すには、まずお前自身が、その土の一部になる覚悟が必要だったんだ」
歩み出した高橋の歩調は、数時間前とは違い、わずかに地面を踏みしめる力強さを取り戻していた。
高橋は、自分の濡れた肩に手を当てた。
冷たい。けれど、心地よい。
彼女は、自分がもう、あの「孤高の椅子」に縛られた孤独な部長ではないことを確信していた。
---
翌朝。
高橋直子のマンションの寝室には、鋭い朝の光が差し込んでいた。
彼女は、鏡の前で、昨日よりもさらに完璧な、隙のない「武装」を整えていた。ダークネイビーの高級スーツ。完璧に切り揃えられたボブ。そして、一切の迷いを殺した、冷徹なメイク。
鏡の中に映る女は、もはや「人間の幸福」を願って涙した昨夜の女ではなかった。
それは、組織という砂漠で、一人の庭師を守り抜くために牙を研ぐ、一匹の狼だった。
出社し、人事部フロアの廊下で野村部長とすれ違う。野村が、探るような視線を向けてくる。
「高橋部長。昨日は佐藤君と会っていたそうだね。何か進展はあったかな?」
高橋は、立ち止まることなく、冷たく鼻で笑った。
「ええ。顔を見てきましたが、ひどい有様でしたわ。……もう、再起は不能でしょう。あんな男に期待した私の方が、どうかしていたようです」
野村の顔に、下卑た満足感が広がる。
「ほう、それは重畳。君もようやく、現実が見えたようだね」
高橋は背を向け、自分のオフィスへと歩みを進めた。
その心の中で、彼女は静かに微笑んでいた。
これでいい。
彼らが陽介を「死んだ」と信じれば信じるほど、彼の根は、誰にも気づかれずに地下深くへと伸びていく。
部長室に入り、大きな窓から外を眺める。
遥か下の階にある、あの人事部の「隔離部屋」は、ここからは見えない。
だが、高橋には分かっていた。
あの中で今、一人の男が、汚い書類の山に埋もれながら、その瞳の奥に「次の季節」への種火を灯していることを。
「待っていなさい、佐藤。……この砂漠を、本当に緑に変える日まで」
彼女は、デスクの上に置かれた、陽介のあの提案書をそっと撫でた。
高橋直子の「第二の戦い」が、今、静かに幕を上げた。
それは、光の当たらない場所で、泥を啜りながら進む、気高い叛逆の物語の始まりだった。




