五月雨の咆哮
五月、最終週。
東京の空は、厚く湿った灰色の雲に覆われ、数日間一度も太陽の光を見せていなかった。窓を叩く雨音は、執拗で、どこか責め立てるような一定のリズムを刻んでいる。
営業部長室にこもる高橋直子は、デスクに広げられた月次報告書を眺めていた。
数字は、神がかっていると言っても過言ではないほど好調だった。佐藤陽介が異動して二ヶ月。営業部員たちは、彼が残した「余白」を自らの魂の拠り所とするかのように、驚異的な集中力で成果を上げ続けている。
だが、その数字が積み上がるほどに、高橋の胸の奥にある空洞は広がっていった。
部内の空気は、凪いだ海のように静かだが、その底には重苦しい沈黙が澱んでいる。
部員たちは、人事部で陽介が受けている過酷な処遇を、噂として聞き及んでいた。彼らは時折、部長室のドアを、何かを訴えかけるような視線で見つめては、高橋の冷徹な表情に圧されて立ち去っていく。
午後三時。廊下で偶然、人事部長の野村と行き当たった。
野村の顔には、かつての苦悩の色は消え、勝者の余裕に似た卑屈な笑みが張り付いていた。
「高橋部長。例の佐藤君のプロジェクトだがね……。次の役員会で『否決』にすることで、常務との握りが完了したよ。彼はもう、組織のレールからは完全に脱落だ」
高橋は、手にした手帳を強く握りしめた。
「……そうですか」
「ああ。君もこれで安心だろう? 営業部から厄介払いができて、数字も過去最高。君の『管理能力』は役員会でも高く評価されているよ。
佐藤君には悪いが、彼は『組織の浄化作用』に引っかかったというわけだ」
野村が去った後、高橋は壁に手をついて、激しい吐き気を堪えた。
浄化。
あの純粋な、人間の幸福を願う哲学を、この男たちは「汚れ」と呼んだのだ。そして自分は、その浄化を黙認し、自身の「評価」という報酬を受け取っている。
高橋は、自分の指先を眺めた。
完璧なマニキュアが施された指先。だが、その爪の下には、陽介から奪い取った血が滲んでいるような錯覚に陥る。
降り止まない雨の音が、室内にまで染み込んでくるようだった。
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終業のチャイムが鳴り、オフィスから人の気配が消え始めた頃。部長室のドアが、ノックもなしに激しく開け放たれた。
入ってきたのは、佐々木だった。彼の瞳は怒りに燃え、肩は激しく上下している。
「部長……本当なんですか。佐藤さんのプロジェクトが、完全に潰されるっていうのは」
高橋は、パソコンの画面から目を離さず、氷のように冷たい声を絞り出した。
「佐々木、ここは部長室よ。入室の作法を教えたはずだけど」
「作法なんてどうでもいい! 答えてください。部長が、佐藤さんを人事部に推薦したんじゃないですか。彼ならこの会社を変えられるって、そう信じて送り出したんじゃないんですか!」
佐々木がデスクに詰め寄る。その熱量が、高橋の仮面をじりじりと焼く。
「組織には順序があるの。彼の案は、まだわが社の体制には早すぎた。ただ、それだけのことよ」
「早すぎた? 違うでしょう!
部長、あんたは逃げたんだ。佐藤さんが役員会で袋叩きにされている間、あんたは自分の椅子を守るために、一度だって彼を助けなかった。人事部の人から聞きましたよ。会議中、部長はずっと黙って、佐藤さんのことを見捨てるように下を向いてたって!」
高橋の心臓が、早鐘を打つ。
「……感情で動くのはプロではないわ。私は営業部長として、この部の利益と部員たちの生活を守る義務がある。一人の理想主義者と心中するわけにはいかないの」
「プロ……? それがプロの仕事ですか!」
佐々木の声が、慟哭のように響いた。
「佐藤さんが教えてくれた『余白』のおかげで、俺たちは今、初めて人間らしく働けてる。この数字は、佐藤さんの魂の結晶なんですよ。
それを、産みの親を見捨てて自分たちの手柄にするなんて……そんなの、ただの泥棒じゃないか!」
「下がりなさい、佐々木」
「部長……あんたは、佐藤さんの心を殺した共犯者だ。一生、その椅子で罪の重さを噛み締めてればいい!」
佐々木は、吐き捨てるようにそう言うと、背を向けて出ていった。
激しく閉まったドアの音が、静寂の中にいつまでも残響している。
高橋は、一人になった暗い部屋で、ようやく呼吸を再開した。
共犯者。
その言葉は、どんな罵倒よりも正確に、彼女の本質を射抜いていた。
彼女は、自分が守り抜こうとした「正論」という名の殻が、内側から粉々に砕け散っていく音を聞いた。
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午後八時。
誰よりも遅く、誰もいないフロアの明かりを消し、高橋直子はオフィスを出た。
完璧に切り揃えられたスーツ。乱れのない髪。しかし、その内側にある「高橋直子」という個体は、もはや形を保てないほどに崩壊していた。
ビルのエントランスを出た瞬間、激しい雨の咆哮が彼女を包み込んだ。
五月末の雨は、生温かさを残しながらも、肌を刺すような鋭さを持っていた。
視界を白く遮る雨のカーテン。
それは、彼女を「営業部長」という社会的記号から切り離し、孤独な一人の女へと引き戻す、絶縁の壁のようだった。
傘を差しながら、高橋は重い足取りで駅へと向かう道を歩いた。ヒールが水溜りを叩く音が、虚しく響く。
雨音を聞きながら、脳裏を過るのは、かつて陽介が語っていた言葉だった。
『雨は、庭を洗うんです、高橋部長。汚れを流し、根に深く水分を届ける。植物にとって、雨は試練であると同時に、再生のための恵みでもあるんですよ』
(……佐藤。今の私を洗う雨は、どこにある?)
自分の心は、組織という乾燥した砂漠で、もう修復不可能なほどにひび割れている。
陽介を裏切った。
自分に「人間」としての呼吸を教えてくれた恩人を、保身のために見殺しにした。
その事実は、どんなに完璧な仕事ぶりでも、どんなに輝かしい営業成績でも、決して拭い去ることのできない「汚れ」として、彼女の魂に張り付いている。
雨脚はさらに強まり、風が傘を激しく揺さぶる。
直子は、街灯の光が水面に反射し、歪んで見える夜の街を、あてもなく彷徨うように歩き続けた。
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駅まであと数百メートル。
薄暗い街灯が、点々と続く道。
その一本の街灯の下、高橋の足が止まった。
そこには、一人の男がいた。
傘も差さず、雨を避ける素振りも見せず、ただ街灯のポールに片手を置いて、呆然と立ち尽くしている。
……佐藤陽介だった。
高橋の喉が、ひゅっと鳴った。
かつて「最高の戦略家」と賞賛し、誇りを持って送り出したあの男の面影は、そこにはなかった。
安物のスーツは雨を吸って無惨に肌に張り付き、泥水が裾を汚している。整えられていたはずの髪は乱れ、額にへばりついていた。
何より、高橋の心を凍らせたのは、彼の瞳だった。
街灯の光を反射することもなく、ただ虚無を映し出している。
あの役員会議からここまでの数週間、彼がどれほどの毒を飲まされ、どれほどの尊厳を削り取られてきたのか。
その立ち姿だけで、すべてが分かってしまった。
組織という巨大な圧砕機は、彼の豊かな感受性を、その「人間性」という名の核心部分を、徹底的に粉砕し、ただの「動く死体」へと変えてしまったのだ。
「……ああ」
高橋の口から、嗚咽に近い溜息が漏れた。
自分が彼を、ここへ連れてきたのだ。
彼が静かに「庭」を愛で、家族と笑っていられたはずの人生を、自分の「期待」という名の傲慢が、この土砂降りの地獄へと引きずり出したのだ。
陽介は、高橋の存在に気づいていない。
ただ、降り注ぐ雨を、自分を罰する鞭のように受け止め、深い泥の中に沈んでいく自分を眺めているようだった。
その無防備な絶望の姿は、高橋の胸の奥に残っていた最後の「管理職としての矜持」を、一瞬で粉砕した。
理性が、「関わるな」と命じていた。
ここで彼に声をかければ、すべてが露呈する。
営業部長としての権威も、築き上げてきた地位も、すべてが崩壊するリスクがある。
だが、高橋の体は、理性の命令を拒絶した。
陽介が駅のガード下に入る。
彼女は、激しい雨の中に踏み出した。バシャリ、とヒールが大きな水音を立てる。
彼女は陽介へと駆け寄った。
雨音が、傘の布越しに少しだけ遠のく。
陽介が、ゆっくりと、錆びついた機械のような動作で、顔を上げた。
「……佐藤、か?」
呼びかける声が、震えていた。
傘を握る指先が、白くなるほど強張っている。
近距離で見る彼の顔は、想像以上に凄惨だった。頬はこけ、唇は紫色に震えている。
陽介の瞳に、かすかな揺らぎが生じた。
「部長……」
掠れた、死者のような声。
その声を聞いた瞬間、高橋の中で、何かが音を立てて決壊した。
(ごめんなさい。ごめんなさい、佐藤)
言葉にはならなかった。
ただ、彼女は震える手で、精一杯傘を高く掲げた。
土砂降りの雨の中、街灯の薄明かりに照らされた一本の傘。
その下だけが、世界から切り離された、小さな、しかし痛切な聖域となっていた。
高橋は、陽介の絶望を見つめた。
それは、彼女自身が作り出した絶望だ。
だが、だからこそ、彼女には義務がある。
この男を、このまま泥の中に沈ませてはいけない。
彼が教えてくれた「余白」が、まだ営業部で生きているように。
彼自身の中に眠る「庭師の魂」を、自分が再び呼び覚まさなければならない。
「なんだ、その格好は。ずぶ濡れじゃないか」
高橋の声に、湿った熱がこもる。
雨の咆哮は、激しさを増していく。
だが、一本の傘を共有する二人の間には、言葉を超えた、重く、苦しい、しかし確かな「共闘」の予感が漂い始めていた。
高橋直子は、心に誓った。
もう、営業部長としての仮面はいらない。
この男と共に泥を啜り、この醜い組織の深部で、本当の「庭」を芽吹かせるための戦いを始めるのだと。
「……少し、付き合え」




