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42歳のすみかは庭になりました  作者:
第2部 第5章「それぞれの2ヶ月〜高橋の章〜」

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砂漠に降る毒

「おめでとうございます、高橋部長。今月の営業成績、ついに全社でトップですよ。佐藤課長が抜けてからというもの、部内がより引き締まった印象ですね」


 役員会議室へと向かう廊下で、経営企画部の理事が、満面の笑みで高橋に声をかけてきた。

 高橋は、鏡の前で練習した通りの、非の打ち所がない優雅で冷徹な微笑を浮かべた。


「ありがとうございます。部員たちが自分の役割を再認識した結果だと思っております」


 その言葉が口を突いて出た瞬間、直子の喉の奥で、苦い鉄の味がした。

 皮肉。これ以上の皮肉があるだろうか。

 営業フロアに戻れば、そこにはかつてないほどの活気が満ちている。だが、その活気の源泉は、役員たちが信じているような「厳格な管理」によるものではない。


 部員たちが、佐藤陽介の残した「余白の戦略」を、彼がいない寂しさを埋めるかのように、より深く、より自発的に実践しているからに他ならなかった。

 佐々木は、顧客との商談の合間に「十分間の沈黙」を戦略的に取り入れ、顧客の本音を引き出すことに成功していた。

 他の若手部員たちも、陽介が教えた「認知資源の管理」を徹底し、疲弊する前に休息を取ることで、夕方の商談でも朝一番のような集中力を維持している。


 数字は嘘をつかない。

 皮肉にも、陽介がいなくなった後の営業部は、陽介の哲学の正しさを証明し続けていた。

 しかし、組織の頂点に立つ者たちは、その成果を「佐藤という不純物」を排除した高橋直子の手腕だと解釈している。


(違う。この数字は、佐藤が命を削って残した花の香りなんだ……)


 高橋は自席に戻り、山積みになった承認書類に目を落とした。

 周囲からの賞賛は、今の彼女にとって、傷口に塗られる塩のような、あるいはゆっくりと精神を麻痺させていく劇薬のようなものだった。成功すればするほど、彼女は陽介を裏切った「加害者」としての立場を固められていく。


 机の下で、高橋は自分の爪を手のひらに食い込ませた。

 この営業部の活況が、陽介を救うための盾になると思っていた。だが、現実は違った。この成功こそが、陽介を「不要な理想主義者」として断定するための、最も残酷な証拠として利用されているのだ。



---



 午後、高橋は備品申請の書類を直接届けるという、普段なら部下に任せるような口実を作り、人事部のフロアへと足を向けた。

 

 人事部の奥、窓のない薄暗い一角。そこには、かつて「倉庫」として使われていた、空調の風も届かないような隔離部屋がある。

 その扉の前を通りかかったとき、高橋の足が止まった。

 中から、規則的な、しかしひどく乾燥した音が聞こえてくる。

 カサリ、カサリ。

 それは、古い紙資料を一枚ずつ捲り、分類し、ホチキスを外す音だった。

 あの日、世界の美しさを論じ、組織に革命を起こそうとした「人間的な戦略家」が、今はそこで、デジタルトランスフォーメーションから取り残された、過去十数年分の勤怠データの整理という、知性を必要としない作業に従事させられている。

 それは作業ではない。組織による、精神的な解体作業だった。


「おや、高橋部長。営業部のトップが、こんな場所まで何の御用かな」


 背後からかけられた冷ややかな声に、高橋は肩を震わせた。

 人事部長の野村だった。

 廊下を歩く野村の足音は、以前よりも重く、権力の重みに依存しているように聞こえた。


「備品の確認に。……佐藤君は、どうですか」

「見ての通りだよ。彼は今、あの単調な作業の中で、自分の論理がいかに空虚であったかを噛み締めている。理想だけでは、古い紙束一つ動かせないということをね。役員会も、彼が『謙虚』になった頃を見計らって、最終的な審議を下すだろう」


 野村の言葉は、高橋の耳の奥で、黒い毒液となって浸透していった。

 野村は、自分に警告しているのだ。理想を語る者の末路を見ろ。組織に従順であることこそが、君の椅子を守る唯一の方法だ、と。


「……そうですか」


 高橋は、それ以上何も言えず、その場を立ち去った。

 隔離部屋から聞こえる「カサリ」という音が、高橋の背中に突き刺さる。

 あの中の陽介は、今、何を考えているのだろうか。

 自分が信じた高橋直子が、役員会議で沈黙し、自分の横を冷たく通り過ぎたあの瞬間を、何度反芻しているのだろうか。


 高橋は、自分の指先が、人事部の廊下の壁に触れていることに気づいた。

 冷たく、硬い、意志を持たない壁。

 この組織そのものが、一つの巨大な壁となって、陽介を圧し潰そうとしている。そして自分もまた、その壁の一部を構成するレンガの一つに過ぎないのだという絶望が、彼女を支配した。



---



 週末の土曜日。

 高橋直子のマンションのベランダは、かつてないほど濃い緑に覆われていた。

 陽介に勧められ、彼から贈られた株を植え替えたハーブたちが、初夏の湿った風を受けて、野生のような逞しさで成長している。

 高橋は、蹲るようにして、ローズマリーの鉢に手を触れた。

 土の匂い。

 陽介の「庭」の哲学によれば、土は生命の循環を受け入れる、最も慈悲深い場所であるはずだった。


 だが、今の高橋にとって、この土の感触は、彼を生き埋めにしようとしている墓穴の冷たさにしか感じられなかった。


(私が、彼を見つけ出した。私が、彼を『戦略家』だと持ち上げた。だから……)


 激しい自責の念が、胃の腑を抉る。

 もし、あの時、彼女が彼の提案を「面白いけれど、現場では無理よ」と冷たくあしらっていれば。

 もし、彼を営業部の一職員として、自分の目の届く範囲に留めておけば。

 彼は今も、週末には家族と庭を弄り、平日は部下たちと談笑しながら、穏やかな人生を送っていたはずなのだ。

 彼の才能を信じたこと。

 彼の翼を広げようとしたこと。

 その「善意」が、彼を最も残酷な戦場へと引きずり出し、敵の真っ只中に無防備なまま放置する結果を招いた。

 

 高橋は、ベランダの手すりに頭を押し付けた。

 視界の端で、若々しく伸びるミントの茎が揺れている。


「佐藤……ごめんなさい……」

 

 声にならない呟きが、都会の喧騒の中に消えていく。

 バードウォッチングに出かける気力さえ、今の彼女には残っていなかった。双眼鏡を覗けば、また「境界を越える鳥」の自由さを見せつけられ、自分の卑怯さが際立つだけだ。


 彼女は、陽介が教えてくれた「非効率な寄り道」を、今や「苦痛への寄り道」としてしか歩めなくなっていた。

 ハーブの香りを嗅ぐたびに、彼の憔悴した顔が浮かぶ。

 水をやるたびに、隔離部屋で乾いた音を立てる彼の指先を思い出す。

 高橋は、自分という人間が、内側から腐食していくような恐怖を感じていた。



---



 午前二時。

 寝室の明かりを消したまま、高橋はリビングのソファで、一束の書類を抱えていた。

 佐藤陽介が書き上げた「LTP戦略提案書」。

 それは彼女にとって、もはやビジネスの資料ではなく、一人の男の遺稿であり、あるいは自分を裁くための聖書となっていた。


 手元の読書灯だけが、紙面の文字を浮き彫りにする。


『短期的な効率主義は、社員の「認知資源」を急速に消耗させ、結果的に長期的な生産性の最大化を阻害する』


 高橋は、その一行を指でなぞった。

 今の陽介が、まさにその「消耗」の極致に立たされている。

 組織は、彼の認知資源を回復させるどころか、意図的にそれを枯渇させ、彼から「思考」という人間最後の砦を奪おうとしている。


『営業の本質は、論理的なデータだけでなく、相手の感情を理解する人間性にこそある』


 この言葉に、あの日、自分は涙したのだ。

 だが、今の自分はどうだ。役員会での沈黙。廊下での拒絶。

 「人間性」を最も重んじた彼の言葉を、最も「人間味のない」沈黙で裏切ったのは、他ならぬ自分ではないか。


 ページを捲る。

 余白に、陽介の自筆でメモが書き加えられていた。


『庭に咲く花は、誰に見られるためでもなく、ただそこに在ることで完成している。組織もまた、かく在るべし』


 高橋は、その文字に顔を伏せた。

 陽介の筆跡からは、彼の人柄そのままの、温かさと誠実さが立ち上ってくる。

 会社という砂漠を、少しでも緑に変えようとした男の、汚れなき情熱。

 その情熱を、自分が「推薦」という名の刃で切り刻んだ。

 深夜の静寂の中で、高橋は、提案書を胸に強く抱きしめた。

 紙の束が、微かに彼の体温を宿しているかのような錯覚に陥る。

 

(まだ、終わらせない。佐藤。あなたが奪われた「幸福」を、私が必ず取り戻すから)


 だが、その誓いは、暗い部屋の中で誰に届くこともなく、虚しく溶けていった。

 彼女にはまだ、そのための具体的な武器も、道筋も見えてはいなかった。



---



 季節は、ゆっくりと梅雨の足音を忍ばせていた。

 湿った空気が肺にまとわりつき、高橋直子の心身を、底なしの重さで支配していく。

 月曜日の朝。

 高橋は、洗面台の鏡に向かっていた。

 ファンデーションを厚めに塗り、目の下の隈を隠す。真っ赤な口紅を引き、冷徹な「営業部長」の面を完成させる。


 だが、装えば装うほど、鏡の中に映る女が、自分ではない別の「幽霊」のように見えてくる。

 営業部長としての成功。

 社内での確固たる地位。

 それらを享受すればするほど、自分という人間の「核」が、砂のように指の間からこぼれ落ちていく感覚。


(私は、一体誰なんだ……?)


 窓の外では、降り始めの雨が、ガラスを叩き始めていた。

 細く、冷たい、砂漠に降る毒のような雨。

 高橋は、真っ暗なリビングに戻り、出勤前の数分間、ソファに深く座り込んだ。

 彼女の膝の上には、いつも陽介の提案書がある。

 

「佐藤。私は……私は、あなたを捨てたのではない。あなたと同じ泥に塗れる時を、虎視眈々と待っているだけ……」


 その独白は、もはや救いではなく、自分を保つための呪文のようだった。

 彼女の瞳には、かつての輝きはなく、ただ深い闇だけが澱んでいた。


 外の雨は、次第に勢いを増していく。

 高橋直子は、震える手で玄関のドアノブを回した。

 砂漠のようなオフィスへ。自分を殺し、彼を救うための「嘘」を重ねる、孤独な戦場へ。

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