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42歳のすみかは庭になりました  作者:
第2部 第5章「それぞれの2ヶ月〜高橋の章〜」

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孤高の椅子

 五月中旬、午後の陽光は、オフィスビルの厚い遮熱ガラスに遮られ、どこか不自然な青白さを帯びていた。

 営業部長の高橋直子は、人事部長室の重厚なマホガニーのドアを前に、自身の呼吸を整えた。指先が、無意識のうちにジャケットの裾を直す。それは彼女が極度の緊張を感じているときに出る、数少ない癖だった。


 部屋に入ると、人事部長の野村は、窓の外を眺めていた。

 佐藤陽介が書き上げた「LTP(長期生産性)戦略提案書」を読み、目を潤ませて「わが社の組織文化を根底から変える、革命的な戦略だ」と称賛したあの時の熱量は、今の野村からは微塵も感じられない。


「野村部長。明後日の役員会議の件で、すり合わせに参りました」


 高橋の声は、努めて事務的に、かつ力強く響いた。彼女の手には、営業部における直近三ヶ月のデータが握られている。

 陽介の「余白の哲学」を部員たちが自発的に運用し、結果として成約率が向上した事実を裏付ける、動かぬ証拠だ。


 だが、野村は振り返ることなく、掠れた声で言った。


「……高橋君。その資料は、鞄に仕舞いたまえ」


 高橋は、心臓が一度、大きく跳ねるのを感じた。


「なぜですか。佐藤君の施策が、営業現場でこれだけの成果を出している。これを役員の方々に提示すれば、彼の全社プロジェクトへの風向きも変わるはずです」


 野村が、ようやく振り返った。その顔には、深い疲弊と、それ以上に深い「諦め」が刻まれていた。


「風向き、か。……今の役員会の空気は、そんな生易しいものではない。常務を筆頭とした保守層は、佐藤君の案を『組織を甘やかし、競争力を削ぐ毒虫の思想』だと断じている。

 彼らは今、見せしめを求めているのだよ。自分たちの権威を脅かす、異端児の処刑をね」


「処刑……?」


「そうだ。君がその資料を出してみたまえ。彼らは即座にこう言うだろう。『営業部は佐藤というお荷物を人事部に押し付け、高橋部長の厳格な管理体制に戻ったからこそ、数字が上がったのだ』と。

 そして君のその反論は、佐藤君との共謀罪と見なされる。そうなれば、営業部の来期の予算も、君の進めている若手育成プログラムも、すべて白紙だ」


 高橋の指先が、持っていた資料を強く握りしめた。

 野村はデスクに歩み寄り、低い声で続けた。


「いいか。助言は無用だ。会議では、一言も発するな。それが君にできる、唯一の『佐藤君を守る方法』だ。君まで失脚すれば、彼が営業部に残した芽さえ、根こそぎ抜かれることになるぞ」


 高橋は、喉の奥まで出かかった反論を、血を呑む思いで飲み下した。

 自分が信じ、誇りを持って送り出した陽介。彼が命を削って書いた戦略が、今、組織の権力闘争というどす黒い泥の中に沈められようとしている。

 高橋は、部屋を去る際、野村の瞳の奥に、かつて陽介の提案に感動した男の「抜け殻」を見た気がした。



---



 その日の夜、高橋直子は自宅マンションのベランダで、暗闇の中にぼんやりと浮かぶハーブの鉢植えを見つめていた。

 都心の夜風は、五月だというのにひどく冷たく感じられた。

 スマートフォンに、陽介からのメールが届く。


『高橋部長。明日は、いよいよ役員会議です。部長に繋いでいただいたこの貴重な機会を、決して無駄にはしません。私の信じる「人間のための戦略」を、精一杯伝えてきます』


 その文面は、驚くほど真っ直ぐで、迷いがなかった。

 彼にとって、高橋直子は自分の才能を見出し、広い世界へと押し上げてくれた、絶対的な信頼を置くべき上司のままなのだ。

 その信頼が、今の彼女には、鋭利な刃となって胸を抉る。


(佐藤。私は……私は明日、お前を助けられないかもしれない)


 高橋は、ローズマリーの葉を指先で強く擦った。

 立ち上がる清涼な香りが、皮肉にも彼女の頭を冴え渡らせる。

 バードウォッチングで学んだ「待つこと」の重要性。それは、獲物が現れるのを静かに待つという、忍耐の哲学だ。だが、今の彼女が強いられている「待機」は、それとはあまりに性質が異なっていた。

 愛する者の処刑が執行されるのを、最前列で、無表情に、黙って見ていなければならない。それが、彼女に与えられた役割だった。


 高橋は、自分の指先が微かに震えていることに気づいた。

 彼女は、かつて自分自身を「効率の権化」だと称していた頃の、鉄の意志を懸命に呼び戻そうとした。

 もし、ここで自分が感情に流され、役員会で陽介を擁護すれば、野村の言う通り、営業部に残された彼の「遺産」は破壊される。佐々木や他の部員たちが、ようやく手に入れた「人間らしい働き方」は奪われ、元の砂漠へと戻されるだろう。


「……耐えなさい、直子」


 彼女は自分に言い聞かせた。

 彼が泥を啜るなら、自分もまた、その隣で、より深い沈黙という名の泥を啜らなければならない。

 助言も、加勢もできない。ただ、彼が受ける痛みをすべて、自分の記憶という名の法廷に刻みつけること。

 高橋直子は、暗い夜空を見上げ、名前も知らぬ鳥が闇を横切る音を、祈るような思いで聞いていた。



---



 運命の日。

 本社の最上階にある、重厚なオーク材の扉で閉ざされた役員会議室。

 高橋直子は、冷徹な営業部長の仮面を被り、円卓の末席に座っていた。室内の空気は、設定された二十六度のエアコンの温度以上に、肌を刺すような冷たさに満ちている。


 扉が開かれた。

 入室してきた佐藤陽介の姿を見て、直子は息が止まりそうになった。

 その姿は、あまりに憔悴していた。一ヶ月前、営業部を去る際の、あの春の陽光のような柔らかさは消え失せ、代わりに、組織の重圧に磨り潰された、痛々しいほどに痩せた影があった。


 だが、彼の瞳だけは違った。

 激しく消耗し、縁が赤く腫れたその瞳の奥には、かつて高橋が魂を揺さぶられた、あの強靭な「庭師の意志」が、消えかかりながらも確かに灯っていた。


 陽介のプレゼンテーションが始まった。

 「人間の幸福」と「持続可能な生産性」。

 彼が語る言葉の一つ一つは、本来であれば、この会社を救う唯一の真理だった。


 高橋は、自分の手元にある営業部の成約率データを、今すぐこの円卓にぶちまけたい衝動に駆られた。

『見なさい! 彼の言う通り、余白を作ったことで、わが社の利益は上がっているじゃない!』と叫びたかった。

 しかし、現実は非情だった。

 常務が、鼻で笑うような音を立てた。


「佐藤君。君の話は、まるで学級会だな。わが社が求めているのは、社員の『幸福感』ではない。一円でも多くの利益だ」

「機会損失を、君はどう補填するつもりだ? 君の庭遊びの理屈に、わが社の株主が納得するとでも思っているのか」


 役員たちから浴びせられる、罵声に近い批判の雨。

 陽介は、震える声を必死に抑え、論理的に反論を試みる。

 高橋は、机の下で、自分の膝を血が滲むほど強くつねっていた。

 一言。たった一言、「営業現場では成果が出ています」と言えば、流れは変わるかもしれない。

 だが、その瞬間、隣に座る野村部長が、机の下で彼女の足を、警告するように強く踏んだ。

 そして、高橋と視線を合わせた野村の瞳には、「動くな、まだその時ではない」という、絶望的な制止の光があった。

 高橋は、口を噤んだ。

 彼女の視線の先で、陽介が孤軍奮闘している。彼が直子に助けを求めるような視線を送った、その刹那。

 高橋は、わざと冷たく、無関心を装って、手元の資料に目を落とした。

 その時の、陽介の絶望したような、信じられないものを見たような気配が、直子の魂を焼き切っていく。

 組織という巨大な歯車が、一人の人間を噛み砕こうとしている。

 高橋直子は、その歯車の一部であることを拒否しながら、しかし、その歯車に油を注ぐ「沈黙」という加害に加わっていた。



---



 一時間に及ぶ「処刑」が、終わろうとしていた。

 陽介は、もはや立っているのがやっとという状態だった。彼の提案書は、役員たちの前で、価値のない紙屑のように扱われた。

 誰もが、ここで「否決」が下されると思っていた。だが、常務が口にしたのは、さらに残酷な一言だった。


「……まあ、いいだろう。佐藤君。君の熱意だけは認めてやる。だが、データが不足しすぎているな。この『LTP戦略』とやら、廃案にするのは惜しい。……次回の役員会まで、継続審議としよう」


 室内の空気が、奇妙な弛緩を見せた。

 それは慈悲ではなかった。高橋には分かっていた。

 「廃案」にすれば、佐藤陽介は諦めて営業部に戻るか、あるいは会社を去るだろう。そうなれば、彼は組織の呪縛から解放される。

 「継続審議」という名の宙吊りは、彼をさらに一ヶ月間、人事部のあの「隔離部屋」に留め置き、成果の出ない泥仕事の中で、その精神を完全に破壊するための拷問期間だった。


 陽介の顔から、最後の生気が失われていく。彼は深く頭を下げ、力なく会議室を後にした。

 役員たちが、談笑しながら立ち上がる。


「いやあ、今の佐藤君の顔、見ものだったな」

「高橋部長、営業部はお荷物を払い下げて正解だったねえ」


 高橋は、自分の全身から血が引いていくのを感じた。

 助言一つできなかった。

 自分が彼に抱いた敬意も、彼を送り出した勇気も、すべてはこの汚れた円卓の上で、無残に踏みつけられた。

 彼女は、自分が守り抜こうとしている「部長の椅子」が、死臭の漂う、あまりに重く汚らわしいものに感じられて、吐き気を覚えた。



---



 会議室の外。重厚な廊下の窓際で、陽介は壁に背を預けて立ち尽くしていた。

 宝くじは、役員たちの列から少し遅れて、その廊下へ出た。

 陽介の、今にも崩れ落ちそうな背中が、そこにあった。


(佐藤!)


 心の中では、彼女は叫んでいた。

 駆け寄って、その細くなった肩を抱き寄せ、「ごめんなさい、私が悪かった、今すぐ営業部に戻りなさい」と、涙ながらに告げたかった。


 だが、彼女の体は、訓練された機械のように、冷徹なリズムで歩みを続けた。

 今、ここで彼に親愛の情を見せれば、それは「高橋部長の寵愛を受けた無能な部下」というレッテルを彼に貼ることになる。役員たちの耳に入れば、審議中のプロジェクトは即座に否決され、彼は懲罰人事の対象になるだろう。

 彼を救うためには、今はまだ、自分だけは「組織の忠実な僕」でいなければならない。


 高橋は、陽介のすぐ横を通った。

 陽介が、こちらに気づいて、縋るような視線を上げた。

 高橋は、その瞳を正面から受け止めることを拒否した。

 ただ一瞥もくれず、高いヒールの音を大理石の床に響かせ、彼を追い越した。


(泥を……泥を啜りなさい、佐藤)


 直子は、心の中で自分を呪った。


(私も今、あなたと一緒に、この汚い泥を啜っている。あなたが受けた屈辱を、私が代わりにすべて飲み下すから。だから……死なないで)


 廊下の角を曲がり、陽介の姿が見えなくなった瞬間。

 高橋直子の瞳から、抑えきれない熱い雫がこぼれ落ちた。

 彼女は、化粧が崩れるのも構わず、震える手で目元を拭った。

 自分の背後で、陽介の「はい……」という、絶望に満ちた掠れた返事が聞こえた気がした。

 それは、彼が自分の魂を、組織という祭壇に捧げた合図のようでもあった。


 翌朝、高橋直子は、昨日よりもさらに完璧な、一分の隙もないメイクを施して出社した。

 その瞳の奥には、以前の「効率の権化」とも、昨日の「敗残者」とも違う、暗く、激しい、冷徹な炎が宿っていた。

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