佐藤陽介のいないオフィス
午前八時十五分。
都心のオフィスビル、その十五階に位置する営業部のフロアには、まだ人の気配がまばらだ。窓から差し込む朝の光は、塵一つないデスクの天板に反射し、整然と並ぶモニターの黒い鏡面に吸い込まれていく。
営業部長の高橋直子は、自身の部長室の重厚なドアを開ける前、一瞬だけ足を止め、フロア全体を俯瞰した。
かつてのこの場所は、張り詰めた弦のような殺伐とした静寂に支配されていた。一秒の無駄も許されず、数字という名の刃を研ぎ澄ますだけの、冷徹な戦場。直子自身が、その空気の醸造主であった。
だが今、そこには別の質の空気が流れている。
佐藤陽介が人事部へと異動して数週間。彼がこのフロアから姿を消したことで、再び以前のような無機質な空間に戻るかと思われた営業部は、皮肉にも、彼が去る前よりも「人間らしい」温度を保ち続けていた。
高橋の視線が、フロアの片隅にある一台のデスクに注がれる。
佐藤陽介が座っていたその場所は、今、不思議な変容を遂げていた。
高橋は、主を失ったそのデスクをあえて物置にはさせなかった。代わりに「ナレッジ・ガーデン」と名付け、部員たちが成功事例や、あるいは顧客から受けた何気ない相談事を自由に書き残す「付箋の壁」として開放したのだ。
そこには、色とりどりの付箋が、まるで初夏の庭に咲く花々のようにひしめき合っている。
『松本様、お孫さんが生まれたとのこと。お祝いの言葉を添えたら、商談が驚くほどスムーズに進んだ』
『提案の前に、十分間だけ窓の外を見るようにした。頭が冴える。佐藤さんの言っていたことは本当だった』
『余白、最高。数字がついてくるのが不思議』
高橋は、それらの付箋の一枚一枚を、慈しむように目で追った。
高橋の手元にある最新の営業週報によれば、成約率は前年比百二十パーセントという、驚異的な数値を叩き出している。特筆すべきは、部員たちの「顧客滞在時間」が以前より明らかに伸びているにもかかわらず、残業時間が劇的に減少していることだ。
陽介があの提案書で説いた、「LTP(長期生産性)」という概念。
短期的な効率という名の鎖を断ち切り、人間に備わった「認知資源」を回復させることで、かえって本質的な成果を生み出すという彼の哲学は、今やこの営業部において、確固たる「戦略」として実証されつつあった。
高橋は部長室に入り、デスクに鞄を置いた。
彼女は今、深い感銘の中にいた。一人の男が、組織という冷徹なシステムを、その「生き方」一つで書き換えてしまった。彼女がかつて「非効率の極み」として排除しようとしていたものが、実は組織を救う唯一の特効薬であったのだ。
(佐藤。お前の蒔いた種は、ここでこんなに力強く芽吹いているぞ)
だが、その感銘の裏側で、高橋の胸の奥底には、小さな、しかし消えない棘のような不安が刺さっていた。
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週末、高橋は郊外の湖畔にいた。
夜明け前の、紫色の帳が下りた世界。湖面からは薄い霧が立ち上がり、冷たい空気が肺の奥まで清めていく。
かつての高橋にとって、休日は「平日の戦いに備えるための、効率的なメンテナンス時間」に過ぎなかった。ジョギングで心肺機能を高め、新聞や経済雑誌で情報を集め、資格勉強をする。すべては、週明けのパフォーマンスを最大化するためのルーチンだった。
だが、今は違う。
彼女の首から下げられた双眼鏡は、ドイツ製の逸品だ。それは「結果」を捉えるための道具ではなく、「世界」を観察するための窓となっていた。
あの日のことを思い出す。
ベテランのバードウォッチャーに掛けられた、「何も見つけない時間だよ」という言葉。
目的を放棄した瞬間に、五感が覚醒し、メジロの鮮やかな色彩が網膜を焼いたあの衝撃。
陽介の提案書を読み、自身の体験と重なったあの瞬間、彼女の中で「効率」という名の古い宗教は崩壊した。
高橋は今、茂みの奥でかすかに揺れる枝を見つめている。
以前なら、目的の鳥が見つからない焦燥感に駆られていただろう。だが今は、鳥を待つ、その「何もしない時間」の贅沢さを噛み締めていた。
風の音。水の匂い。自分の呼吸の音。
陽介が教えてくれた「認知資源の回復」とは、自分という存在を、組織の部品から「一個の人間」へと引き戻すプロセスそのものだった。
帰宅した高橋は、マンションのベランダに出た。
都会の高層階。洗練された都会の夜景を背に、彼女のベランダには不似合いなほど青々とした鉢植えが並んでいる。
ローズマリー、タイム、ミント。
陽介の自宅にあるという、あの伝説的な「庭」に想いを馳せながら、彼女は丁寧に水を与える。
かつては、植物を育てるなど「手間ばかりかかる非合理」の象徴だと思っていた。だが、水を得て生き生きと香りを放つ葉に触れるとき、彼女は自分の心もまた、瑞々しく潤っていくのを感じる。
高橋直子にとって、佐藤陽介はもはや単なる有能な部下ではなかった。
彼は、組織という砂漠で枯れかけていた自分に、本当の水の在処を教えてくれた恩人であり、魂の師でもあった。
(私は、彼を誇りに思う。そして、彼をあそこへ送り出した自分の判断を、信じている)
全社的な改革のリーダーとして、鳴り物入りで人事部へ送り出された陽介。
彼なら、この腐った組織の根底を、あの温かな「庭」の哲学で変えてくれる。
高橋はそう確信していた。少なくとも、この時までは。
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月曜日。オフィスへと向かうエレベーターの中で、高橋は偶然、人事部長の野村と乗り合わせた。
野村は、陽介の提案に深く感銘を受け、高橋と共にその戦略を全社計画に組み込んだ男だ。
「野村部長。佐藤君はどうですか。人事部での改革は順調かしら」
高橋は、期待を込めて声をかけた。
だが、野村の返答は、彼女の予想とは裏腹に、乾いた響きを持っていた。
「……ああ。高橋部長。佐藤君かね。……いや、彼は非常に熱心だよ。熱心すぎて、少し周りが見えていないところがあるかもしれないがね」
野村は、高橋と視線を合わせようとしなかった。エレベーターのデジタル表示を見つめるその横顔に、かつての情熱は影を潜め、代わりに「保身」という名の薄い膜が張っているように見えた。
「周りが見えていない? 彼の提案は、営業部でこれだけの成果を出しているのよ。実証済みの戦略だわ」
「営業部という特殊な環境なら、そうかもしれない。だが、組織全体となると話は別だ。保守的な役員層からは、『デジタルデトックス』だの『余白』だのといった言葉は、単なるサボりの推奨にしか聞こえないらしい」
野村は、チンという到着音と共に、逃げるようにエレベーターを降りた。
高橋はその場に立ち尽くした。背中に冷たい汗が伝わるのを感じる。
フロアに戻ると、高橋のデスクには、人事部内に通じている知人の社員から、非公式のメールが届いていた。
『佐藤課長の周囲、かなり不穏です。彼が進めようとしている案、一部の役員から「生産性の破壊工作」とまで言われています。
最近、彼は別室に隔離され、過去十年分の勤怠データの整理という、明らかな嫌がらせの仕事を与えられているようです』
高橋は、喉の奥が熱くなるのを感じた。
改革の旗手として期待されたはずの男が、組織の深部にある「旧態依然とした抵抗勢力」の逆鱗に触れ、握りつぶされようとしている。
高橋の脳裏に、あの日の陽介の姿が浮かぶ。
「君はすごい。君こそ、最も人間的な戦略家だ」
そう称え、彼に最高級の推薦状を添えて、輝かしい舞台へと送り出したのは、自分だ。
その推薦が、その賞賛が、かえって彼を「目立つ標的」にし、逃げ場のない砂漠へと追い込んでしまったのではないか。
高橋は、震える指先で、自身のデスクに置かれた「LTP戦略」の写しを握りしめた。
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午後。部長室のドアを叩く音がした。
入ってきたのは、営業部のホープであり、陽介の熱烈な信奉者でもある佐々木だった。
佐々木の表情は、怒りと困惑に満ちていた。
「部長……佐藤さんのこと、聞きましたか。人事部で、ひどい扱いを受けているって」
佐々木の声は震えていた。
「彼が作った制度案が、全部白紙に戻されたそうです。それどころか、営業部時代の経費精算まで遡って、何とか落ち度を見つけようとする動きがあるって……部長! 部長があんなに強く推薦して、佐藤さんをあそこへ送ったんじゃないですか!」
直子は、佐々木の言葉を、鋭いナイフを突きつけられるような思いで聞いた。
「佐々木、落ち着きなさい。組織の変革には抵抗がつきものよ。彼は今、その最前線で戦っているだけ」
「戦っている? あれは処刑ですよ! 部長、あなたなら何とかできるはずだ。人事部長に掛け合うとか、役員会で異議を唱えるとか……」
「……下がって、仕事に戻りなさい」
高橋は、あえて冷徹な声を絞り出した。
佐々木は、裏切られたという顔をして、部長室を飛び出していった。
一人になった部屋で、高橋は椅子に深く体を沈めた。
佐々木の言う通りだ。自分が、彼をこんな場所に連れてきた。
彼の純粋な哲学を、組織という醜い怪物が支配する場所へ、無防備なまま送り出した。
高橋は、深夜の部長室で、陽介が残した提案書を再び開いた。
そこには、人間への深い信頼と、幸福への切実な祈りが、論理的な言葉の衣を纏って記されていた。
『営業の本質は、論理的なデータだけでなく、相手の感情を理解する人間性にこそある』
『最高の効率は、最も非効率に見える場所から生まれる』
この言葉が、今の組織の頂点に立つ人々には、自分たちの権威を脅かす「毒」にしか見えないのだ。
高橋は、鏡の中の自分を見た。
営業部長という重責を担う、隙のないメイクを施した顔。
だがその裏側で、彼女の心は、かつて湖畔で見た「境界を越えて飛ぶ鳥」のように、激しく動揺し、怯えていた。
(佐藤。私は、お前を死なせるために送り出したんじゃない。私は……)
彼女が信じた「戦略」は、あまりに美しすぎた。
そして、この組織は、あまりに汚れていた。
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五月初旬の月曜日。
窓の外は、抜けるような青空が広がっている。新緑の香りが、都会のビル風に混じって、五月の訪れを告げていた。
本来なら、一年のうちで最も清々しいはずの朝。
だが、高橋のデスクに届いた一通の短いメールが、その青空を灰色に塗り替えた。
送信者は、佐藤陽介。
『高橋部長。営業部の皆さんの好成績、何よりの励みです。
私の現在進めている全社プロジェクトですが、役員会の決定により、今月末に最終的な適否が判断されることになりました。
正直に申し上げまして、状況は非常に厳しいものがあります。
ですが、最後まで、私は私の信じる「余白」を言葉にし続けるつもりです。
部長に推薦していただいた名に恥じぬよう、尽力いたします』
その文面は、事務的で、礼儀正しい。
だが、行間から滲み出る、死を覚悟した兵士のような悲壮な静寂を、直子は見逃さなかった。
彼は、一人で戦っている。
自分が「革命」と呼んだその戦場で、援軍も持たず、たった一人で。
高橋は、窓の外を横切る一羽の鳥の影を追った。
鳥は、何の躊躇もなく、ビルの谷間を縫って、広い空へと羽ばたいていく。
境界など、最初から存在しないかのように。
「……私は、間違っていないはずよ。佐藤」
高橋は、絞り出すように呟いた。
その言葉は、空虚な部長室に虚しく響き、すぐにフロアから聞こえてくる部員たちの「さえずり」にかき消された。
フロアでは、部員たちが陽介の残した「余白」を享受し、活き活きと働いている。
その光景を守り続けること。それが、今の自分にできる唯一の「共闘」なのだと、彼女は自分に言い聞かせた。
高橋直子の視界の中で、五月の光が、微かに、しかし確実に歪み始めていた。
嵐は、すぐそこまで来ていた。




