祈りのパケット
五月の最終週、街は驚くほど清冽な朝を迎えていた。
寮の窓を開けると、梅雨入りを目前に控えた空が、どこまでも高く、痛いほどの青さを湛えて広がっている。
かつては「新緑の季節」と一括りにしていた緑のグラデーションも、今の佐藤咲にはその違いが鮮明に読み取れるようになっていた。若葉のみずみずしい黄緑から、夏の到来を予感させる深く重い深緑へ。
それは、彼女自身の内面で起きた、頼りない「甘え」から芯のある「自律」への変容と、どこか重なり合っているように見えた。
二〇三号室。
かつては他者の気配に怯え、境界線の侵害を恐れるだけの戦場だったその場所は、今、一つの穏やかなエコシステムとして完成しつつあった。
「咲、今日の朝食、納豆出る日だよ。早く行かないとなくなる」
優奈が鏡の前で髪を整えながら、事務的ながらも確かな親愛の情を込めた声で促す。その一方で、凛花はまだ布団の中から「あと五分……」と幸せそうな声を漏らしていた。
咲はそんな二人の背中を見ながら、丁寧にシーツを整えた。
一ヶ月前、家族を突き放したあの嵐の夜、彼女は自分が冷酷な人間になってしまったのではないかと震えていた。
母を救わず、兄を見捨て、自分の平穏だけを守るエゴイストになったのではないかと。けれど、今の彼女なら、あの時の自分にこう言ってあげられる確信があった。
(あれは冷酷じゃなかった。あれは、信頼だったんだよ)
家族が自分のいない場所で、自力で立ち上がる力を持っていると信じること。
誰かが誰かの欠損を埋めるのではなく、独立した個として存在した上で緩やかに繋がること。
この二〇三号室の三人が、それぞれの目標に向かって走りながら、時折窓を開けて新鮮な空気を通し合うように。
その「適切な距離感」こそが健全な庭を作るための条件なのだということを、彼女はこの二ヶ月の孤独の中で学んでいた。
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学校でのワークショップも、いよいよ最終段階に入っていた。
咲が提案した「十年の余白を耕す土壌改良計画」は、意外にも商店街振興会の役員たちの心を掴み続けていた。
効率を最優先する他の学生案が現実的な壁に突き当たる中で、彼女の案だけが、最初から「困難」を前提として設計されていたことが評価されたのだ。
「佐藤さん。この計画、本当に十年続けられると思う?」
放課後、先生からの問いに、咲は淀みなく答えた。
「十年で完成するわけではありません。十年かけて、そこにあるべき風景の『基礎』を作るんです。
庭師の仕事は、完成させることではなく、続く仕組みを作ることですから」
先生は短く頷き、それ以上は何も言わなかった。その沈黙が、今の彼女には心地よかった。
寮に戻ると、優奈と凛花が咲の机の周りに集まっていた。
「咲、この図面のここ。もっと地域のボランティアをシステム化できるわよ」
優奈が法律の知識を活かした運営組織の草案をノートに書き込み、凛花が遊び心溢れるロゴデザインをタブレットで見せる。
三つの個性が互いの領域を侵食せず、プロジェクトという「土壌」の上で混ざり合う。それは、母・美和が語っていた「コンパニオンプランツ」の実装そのものだった。
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夕食後の自由時間。二〇三号室は柔らかなオレンジ色の照明に包まれていた。
咲は自分のベッドの上に胡坐をかき、スマートフォンを手に取った。兄へのチャット。一番下には、一ヶ月前の彼女の冷たい返信「私は、帰らない」が、孤独な傷跡のように残っている。
彼女は家族のグループチャットを開き、入力欄に指を置いた。これまでのような義務や謝罪ではない、一人の自立した人間としての言葉。
彼女は一文字ずつ、石を刻むように文字を打った。
『お父さん、お母さん、ちゃんと一緒にご飯食べてる? 仲良くしないとダメだよ。
お節介な娘より』
咲はそっと画面をタップした。
電子音が静かな室内に小さく響く。それは、家族という宇宙から解き放たれ、光の速さで境界線を越えていく「祈りのパケット」だった。
メッセージを送った後、咲は深く息を吐き出し、窓の外を見つめた。
「……咲。なんか、いい顔してるね」
優奈が不意に顔を上げ、少しだけ微笑んだ。
「そうかな」と咲は照れ笑いを返し、夜風に揺れるカーテンを見つめた。
佐藤家の庭は、今、二つの場所に存在している。
故郷の土地で耕し始めるであろう再生の庭。そして、この二〇三号室で彼女が守り抜こうとしている、心の庭。
どちらが欠けても、彼女の物語は完成しない。遠く離れていても、彼らは同じ土壌の上に立っているのだ。
「境界を越える少女」としての咲の旅は、ここで一つの大きな節目を迎えた。
けれど、庭に終わりがないように、彼女の人生もまた、明日という新しい季節へ向けて続いていく。
「さあ、寝よ。明日はプレゼンの最終準備だよ、咲!」
凛花の元気な声が、部屋の空気を鮮やかに塗り替える。
「うん。おやすみ、みんな」
咲は明かりを消した。
暗闇の中、胸の奥で、新しい種がそっと産声を上げたような気がした。




