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42歳、失敗する

 土曜日の朝、陽介は目覚まし時計よりも早く目覚めた。以前なら、週末の重圧と虚無感に苛まれ、無理やり布団に潜り込み、時間を浪費していたはずだ。


 だが、今は違う。


 彼の内側には、昨日の妻・美和からの「無言の肯定」である冷えた麦茶が、静かに、しかし確かなエネルギーとなって残っていた。


(今日は、庭で何ができるだろう)


 その考えが、陽介を自然と布団から引き起こした。それは、仕事のノルマ達成とは異なる種類の、純粋な「創作意欲」に近いものだった。


 彼が庭遊びを始めた当初の目的は、会社や家族との「距離をとる」こと、そして「自己保全」だった。

 しかし、七輪でのソーセージ焼きが翔の無言の参加を呼び、美和の気遣いを引き出したことで、彼の心境は微かに変化し始めていた。


 「自分一人で満たされる」という段階から、「自分の活動によって、家族に何か良いものを届けたい」という、かつてなかったポジティブな貢献意欲が芽生えていたのだ。


 リビングに降りると、咲はまだ寝ており、翔は既に部活の朝練に出かけた後だった。美和はキッチンで朝食の準備に取り掛かっていたが、陽介の顔を見て、少し驚いたように微笑んだ。


「珍しいわね、陽介さんがこんな時間に起きてるなんて」

「ああ、ちょっと、庭で何か作ってみようと思って」


 陽介が今回選んだのは、手軽でありながら、見た目にも「非日常感」があり、そして何より「映えそう」なホットサンドだった。


 ホットサンドは、陽介が動画配信者・桜井慎のチャンネルで見て、憧れを抱いたメニューの一つだ。桜井は、焦げ目のついたキツネ色のパンから、とろけたチーズがはみ出す様子を、至福の表情で紹介していた。


(あの、完璧な「焦げとカリカリのコントラスト」を、家族にも味わわせてあげたい)


 陽介にとって、ホットサンドは単なる料理ではない。それは、自身の趣味が「自己満足」から「家族への提供」へと一歩踏み出すための、「小さな一歩」であり、成功すれば、それは「良き父、良き夫」として、家族の日常にポジティブな影響を与えられたという自己肯定感の確信に繋がるはずだった。


 陽介は早速、物置から小型の卓上コンロと、先日ネットで衝動買いしたピカピカのホットサンドメーカーを取り出した。アルミ合金製のメーカーは、手に持つとずしりと重く、その道具としての存在感が、陽介の期待を高揚させた。


 彼は美和に近づき、遠慮がちに尋ねた。


「美和。今日の朝食、パンは俺が庭で焼くから、ハムとチーズを少しもらってもいいか?」


 美和は、陽介が前向きな行動を起こしていることに、内心安堵していた。昨日の麦茶が、きちんと彼に届いた証拠だと思った。彼女は迷うことなく、冷蔵庫から具材を取り出しながら言った。


「いいけど、失敗しても知らないわよ?  まあ、その時はトーストに戻すだけだから、好きにやってみて」


 その「失敗しても大丈夫」という美和の言葉は、陽介を縛り付けていた「完璧主義」の鎖を緩める、温かい励ましとなった。


 陽介は、具材と道具を慎重に手に取り、期待に胸を膨らませながら、朝日が差し込み始めた庭へと向かうのだった。



---



 陽介は、冷たいコンクリートの叩きの上に小型テーブルを広げ、その上に卓上コンロをセットした。美和から受け取った食パン、ハム、チーズを皿に並べ、真新しいホットサンドメーカーを置く。


 朝の澄んだ空気と、道具の冷たい金属の感触が、陽介の気分をさらに高揚させた。


 彼の頭の中には、動画配信者・桜井慎のイメージが鮮明に焼き付いていた。

 —熱源の上にメーカーを置き、パンと具材を挟んで、片面を数分。ひっくり返してまた数分。開いた時には、黄金色に焼けたパンの表面に、トーストの模様が刻まれ、側面から溶けたチーズがわずかに溢れている。

 それは、手軽さ、美しさ、そして美味しさを兼ね備えた、完璧な「非日常の朝食」だった。


 陽介は、そのイメージ通りに、具材を丁寧にパンに挟み、メーカーを閉じ、卓上コンロの火をつけた。


 しかし、現実の調理は、陽介の完璧な想像をいとも簡単に裏切った。


 卓上コンロの火力が、庭用の小型とはいえ、想像以上に強かったのだ。陽介は、動画で言われていた「片面3分」を忠実に守ろうとしたが、庭で作業する興奮と、成功への焦りから、火加減の調整を疎かにしてしまった。


 ジュウジュウという音はすぐに上がり、陽介は「いい感じだ」と期待した。だが、時計を確認し、メーカーをひっくり返す動作に入ろうとした瞬間、焦げ付くような鋭い匂いが彼の鼻を突いた。


(まずい!)


 陽介は慌ててホットサンドメーカーを開いた。


「しまった……」


 片面の食パンは、彼の理想としたキツネ色どころか、一部が真っ黒な炭のような色に変色していた。パンの表面はカリカリを通り越して硬質化し、中のチーズは溶けているものの、焦げたパンの匂いが勝ってしまっている。


 簡単なことでも、やってみないと分からないという、現実の壁に陽介はぶち当たった。デジタルな仕事であれば、失敗はデータ上で修正できるが、火と食材を使った調理は、一瞬の集中力の欠如が、そのまま取り返しのつかない焦げとなって現れる。


 完璧な朝食を用意しようとした陽介の意欲は、目の前の真っ黒な現実によって、あっけなく打ち砕かれた。彼は、ガッカリと肩を落とし、失敗作を前に、しばし立ち尽くすしかなかった。



---



 焦げ付いたホットサンドを前に立ち尽くす陽介の背後に、リビングの掃き出し窓が開く音がした。長女の咲が、私服に着替え、髪を整えながら、庭に顔を出した。


「うわ、なにこの匂い。焦げくさい」


 咲は、父の肩越しに小型テーブルの上を覗き込んだ。そこには、二枚にカットされたうちの一切れが、黒く変色した痛々しい姿を晒していた。


「うわっ、お父さん、炭じゃん!  これ、まさか今日のお弁当のおかず?」


 咲の言葉は、まるで鋭利なナイフのように陽介の心に突き刺さった。それは、陽介が会社で感じる「失敗は許されない」というプレッシャーの具現化のようだった。焦りから生まれた失敗を、家族、しかも思春期の娘に、痛烈に茶化されたのだ。


 陽介は、一瞬ムッとし、熱くなった顔を隠すように俯いた。庭での活動は、ストレスからの解放区のはずなのに、ここでは失敗が家族の笑い、あるいは否定の材料になってしまうのかと、自己嫌悪に陥りそうになった。


 その時、キッチンの方から静かな足音が聞こえた。部活の朝練を終えて帰宅したばかりの長男・翔だ。彼は水筒を置き、朝食の準備に取り掛かる美和を横目に、窓の外の父と妹の様子を遠巻きに観察した。


 彼は、トースターに食パンをセットし、スイッチを入れる。自分の分は自分で確保するという、合理的で冷静な行動だ。


 しかし、翔は一瞬、焦げたパンから立ち上る微かな匂いを嗅ぎ、静かに、口の端だけで小さな笑みをこぼした。

 その笑みは、父への軽蔑ではなく、父の不器用さや、真剣すぎて空回りしている様子に対する、「微笑ましい」という感情の表れだった。彼はすぐに視線をパンに戻し、父の活動から興味をそらした。


 咲の痛烈な一言と、翔の無言の微笑という、極端な反応のコントラストに、陽介は複雑な思いを抱いた。


 咲の言葉は痛い。だが、彼女はすぐにリビングに戻り、スマホを操作し始めた。翔は最初から父の失敗には興味がない。家族はやはり、陽介の趣味に深く干渉はしてこない。


(誰も俺の失敗を、本気で責めたりしないんだ)


 仕事であれば、この焦げ付き一つで、取引先の信頼や上司の評価を失う。だが、ここでは、せいぜい娘に茶化される程度だ。この庭は、失敗が許される、非常に稀有な場所なのだと、陽介は改めて悟る。この瞬間、陽介の心に、焦げ付きとは裏腹な、開放感が生まれた。



---



 娘の咲に茶化され、翔に微笑まれた後、陽介は少しの虚脱感と共にホットサンドメーカーを卓上コンロから下ろした。彼は、美和のために用意された残り二枚のパンを使い、改めて火加減を最弱に調整して焼き始めた。これは、家族に出すには忍びない。


 陽介は、最初に焦がしてしまったホットサンドを、仕方なく自分用として扱うことにした。キッチンナイフを庭に持ち出し、大胆に真っ黒に焦げ付いた部分を削り取る。まるで、失敗という証拠を隠滅するかのように。


 削り取った残骸を一つ、おそるおそる口に運ぶ。


「…苦い」


 舌に触れるのは、パンの炭化した部分からくる苦味と、焦げ付いたチーズの硬い感触だ。完璧なイメージとは程遠い、不格好な失敗作。仕事であれば、報告書を破り捨てて最初からやり直すレベルの失態だ。


 しかし、二口目を噛みしめた瞬間、陽介の脳内に不思議な感覚が広がった。焦げた部分の苦味の奥から、卓上コンロで焼いたパンの香ばしさと、屋外の冷たい空気の中で食べるという非日常の風味が、確かに感じられたのだ。


「苦い、でも、外で自分で焼いたからか、なぜか美味い」


 それは、高級レストランの料理でも、美和の完璧な手料理でもない、不器用で、欠点だらけだが、彼自身の「手間」と「場所」が加わった、唯一無二の味だった。


 陽介は、一口、また一口と、焦げ付きを避けながらホットサンドを食べ進める。食べる行為を通して、彼の内面で大きな意識の転換が起きていた。


 仕事では、失敗は許されない。 一つのミスが信用を失い、評価に繋がり、給与を左右する。だからこそ、彼は常に完璧であろうとし、そのプレッシャーで疲弊していた。失敗は「罪」であり、隠すべきものだった。


 しかし、この庭ではどうだ?


 「焦げた」という失敗は、娘に茶化され、息子に微笑まれたが、誰も彼の人生を否定しなかった。むしろ、その不完全さが、家族の話題のきっかけとなり、朝の食卓に微かな笑いと活気をもたらしている。


 陽介は、苦味の残るホットサンドを食べ終え、大きな息を吐いた。


(これでいいんだ。完璧じゃなくて、大失敗でも、誰にも迷惑をかけてない。むしろ、この失敗を笑い飛ばせるようになった自分自身が、何よりも健全だ)


 彼は、仕事のプレッシャーとは切り離された、純粋な「失敗の許容空間」を、この庭に見出していた。失敗はもはや「罪」ではなく、「発見」であり、いつか家族との「笑い話」になるための、貴重なデータになった。この開放感が、陽介の心を深く、そして決定的に軽くした。


 陽介は、美和の分が美しく焼き上がったホットサンドを満足げに眺め、道具の片付けに取り掛かるのだった。



---



 陽介は、完璧に焼き上がったホットサンドを家族の食卓に運び入れた後、一人で庭に戻り、道具の片付けに取り掛かった。焦げ付きの残るホットサンドメーカーを洗いながら、彼の心にはもはや落胆の色はなかった。むしろ、失敗がもたらした新鮮な教訓が、彼の思考を活性化させている。


(次は、火加減を最弱で、時間ももう少し短くしてみよう。具材もハムとチーズじゃなくて、ツナマヨを試すか? いや、いっそ甘い餡子でもいいかもしれない)


 仕事の計画を立てる時とは全く違う、純粋な実験欲と探求心が湧き上がってくる。会社のノルマや、高橋上司の冷たい視線といったプレッシャーは、この庭では一切関係ない。彼は、自分の小さなミスから学び、次にどうすればもっと楽しく、美味しくなるかだけを考えていた。


 この「失敗してもいい」という前提が、陽介のクリエイティビティを解放し、自己肯定感を育んでいた。庭遊びは、もはやストレスからの「逃避」だけでなく、「創造的な活動」へと進化し始めていた。



---



 キッチンでは、美和が自分の朝食の準備をしながら、窓の外の陽介を静かに見ていた。彼女は焦げ臭い匂いを嗅ぎ、咲の痛烈な一言も聞いていたため、陽介が落ち込んでいるのではないかと内心心配していた。


 しかし、洗い物をしている陽介の背中には、以前のような疲労や自己嫌悪の影がない。彼は鼻歌さえ歌っているようにも見える。時折、ホットサンドメーカーを手に取り、まじまじと見つめては、何かを思案している。


 美和は当初、陽介の庭活動を穿った目で見ていた。過去、彼が始めた趣味はどれも長く続かなかったからだ。しかし、今回の活動は「失敗」があっても、すぐに次の「挑戦」へと繋がっている。これは大きな違いだった。


 美和は、コーヒーの湯気が立ち上るマグカップを両手で包み、静かに思った。


「ああ、よかった。陽介さんは、ちゃんと楽しんでいるのね」


 彼の行動が一時的な気まぐれではなく、精神的なバランスを保つための本質的な活動だと確信し始める。陽介が庭で笑顔を取り戻し、前向きな意欲を持っていること。それこそが、美和にとって何よりも重要なことだった。


 陽介は、道具を所定の位置に片付け、満足感に浸りながら家の中に戻る。

 彼は、趣味の継続に対する確信を深めていた。そしてこの確信は、家族の静かな「安堵」という形で、しっかりと受け止められていた。

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