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42歳のすみかは庭になりました  作者:
第2部 第4章「それぞれの2ヶ月〜咲の章〜」

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余白を耕す人

 五月の大型連休。全寮制高校の校内からは、潮が引くようにして喧騒が消え去った。


 朝、目を覚ました佐藤咲を待っていたのは、耳が痛くなるほどの静寂だった。

 いつもなら凛花のスマートフォンのアラーム音や、優奈がシーツを整える微かな衣擦れの音が響くはずの二〇三号室。

 だが、優奈は公認会計士試験に向けた強化合宿へ、凛花は地元の友人たちと過ごすために実家へと帰っていった。


「咲ちゃん、本当に帰らないの? 寂しくなったら連絡してよ」


 昨日の夕方、キャリーケースを引いて出ていった凛花の言葉が、冷え切った空気の中にまだ残像のように漂っている。咲はベッドの中で、しばらくの間、天井の木目を見つめていた。


 兄・翔に送った『私は、帰らない』というメッセージ。それは、彼女の人生で最も重い言葉だった。

 送信ボタンを押した瞬間の、指先に残る痺れるような感覚がまだ消えていない。


 家族を愛しているからこそ、その綻びを繕うために駆けつけるのではなく、あえて遠く離れた場所で自分の足で立ち続ける。それが、彼女にできる唯一の「自律」だ。

 けれど、理屈では理解していても、空っぽになった寮の静寂は、容赦なく彼女の心に孤独の楔を打ち込んでくる。


 咲は這い出すようにしてベッドを出ると、スマートフォンの電源を切った。もし今、母から「助けて」という連絡が入れば。もし父から「すまなかった」という謝罪が届き、あるいは翔から「自分勝手だ」と罵倒されれば。彼女の決意は、春の雪のように脆く溶け去ってしまうだろう。

 今の彼女に必要なのは、家族からの情報の濁流ではなく、自分自身を繋ぎ止めるための「土の感触」だった。


 窓際に置いたラベンダーの鉢に、ゆっくりと水を注ぐ。兄がくれたその植物は、寮の無機質な空気の中でも、健気に新しい芽を伸ばそうとしている。


「ごめんね、一人にして。でも、私も今、一人なんだ」


 誰に聞かせるでもない言葉が、静かな部屋に溶けていった。



---



 孤独に押し潰されそうになる自分を救うため、咲はワークショップで縁ができた地元のボランティア団体「緑の会」の活動に参加することに決めた。


 向かったのは、駅から少し離れた、古くて小さな「ひだまり公園」。

 住宅街の隙間に忘れられたように存在するその場所は、かつては子供たちの笑い声で溢れていたのだろうが、今は遊具のペンキも剥げ、植え込みは奔放に伸びた雑草に占拠されていた。


「あら、佐藤さん。連休なのに、本当に来てくれたのね」


 緑の会の代表を務める山根さんが、温かい笑顔で迎えてくれた。彼女は、ワークショップでの咲の発表を「土のことが分かっている子の目ね」と褒めてくれた人だった。


「はい。じっとしているのが、少し苦手な性分で」


 咲は、用意してきた作業服に着替え、軍手をはめた。今日の作業は、公園の外周にある茂みの草むしりと、色褪せた三台の木製ベンチの塗り替えだ。

 しゃがみ込み、地面に手を伸ばすと、五月の湿った土の匂いが立ち上がった。

 スギナ、ドクダミ、カタバミ。実家の庭を蹂虙しているのと同じ顔ぶれの雑草たちが、ここでも領土を広げようとしている。

 咲は鎌を土に差し込み、根の深いスギナを慎重に掘り起こしていく。


(……ああ、これだ)


 指先に伝わる土の抵抗。根を引き抜く時の、プチッという小さな断絶音。それは、彼女の頭の中を渦巻く複雑な感情を、単純な「作業」へと還元してくれた。

 誰のためでもない。義務でもない。ただ、目の前の地面をあるべき姿に整えていく。


 土を弄ることは、彼女にとっての祈りに近かった。一万年前から変わらないこの感触だけが、境界線を越えて一人になった彼女を、確かな「現実」へと繋ぎ止めてくれるのだ。



---



 午前中の三時間を、咲は草むしりだけに費やした。腰が痛み、手のひらには軍手越しでも分かる小さな豆ができ始めている。

 けれど、彼女の意識はかつてないほどに研ぎ澄まされていた。


 昼食の後、木製ベンチのペンキ塗りに着手した。サンドペーパーをかけ、古いペンキの屑が舞う中で黙々と手を動かす。

 すると、記憶の底から一つの映像が浮かび上がった。それは、実家の庭で一人、草むしりや火おこしをしていた父・陽介の背中だ。


 当時の咲は、そんな父の姿を冷めた目で見つめていた。彼女はそれを、父の「卑怯な現実逃避」だと思っていた。自分だけの平和な世界に閉じこもるための、身勝手なシェルターだと。


 けれど、今、自分でハケを握り、木の繊維にペンキを染み込ませていく中で、全く別の感情が湧き上がってきた。


(……お父さんは、逃げていたんじゃない)


 ペンキが傷ついた木の表面を覆い、新しい膜を作っていく。それは、自分の力では決してコントロールできない「他者の心」から、一時的に身を守るための、聖域だったのではないか。


 土や道具は、裏切らない。陽介は、あの庭の中で、壊れそうな自分を繋ぎ止めていたのだ。家族や仕事という名の嵐の中で、せめて自分の手が届く「一坪の秩序」だけを死守しようとしていたのではないか。


 咲はハケを動かす手を止め、少しだけ震える指を見つめた。

 父が背負っていた、あの言葉にできない孤独。その正体を、彼女はこの孤独な公園で初めて理解したような気がした。


 父は、庭を通じて家族を愛していた。

 言葉の代わりに、心地よく歩ける小径を整え、靴が汚れないように芝を刈り、いつでも帰ってこられるようにピザ窯の火を灯していた。


 咲は目頭が熱くなるのを感じた。

 あの日、陽介が家族に教えた「余白の時間を大切にしろ」という言葉。あれは、彼自身の血を吐くような経験から紡ぎ出されたものだったのだ。


「……綺麗になったねぇ。まるで見違えるようだ」


 不意に声をかけられ、咲は我に返った。振り返ると、帽子を被った一人の老人が立っていた。


「あ、こんにちは。……まだ乾いていないので、座らないように気をつけてください」


 老人はゆっくりとした足取りで歩み寄ると、まだ手をつけていない隣のベンチに腰を下ろした。


「ああ、分かっているよ。……あんた、この連休、ずっとここにいたね」


 老人は彼女の作業をじっと見つめていた。その眼差しは、穏やかで慈しみ深かった。


「はい。少し、体を動かしたくて」

「いいことだ。……最近は、みんな急ぎすぎている。でも、こうして誰かが手を入れれば、場所はまた息を吹き返す」


 老人は、ポケットから飴玉を一つ彼女に差し出した。


「あんたのおかげで、明日からここに来るのが楽しみになるよ。このベンチに座って、新しくなった景色を見る。

 ……それが、私みたいな年寄りには、何よりの贅沢なんだ」


 飴玉を受け取りながら、咲は胸の奥が震えるのを感じた。

 自分が今朝から行っていた、一円の得にもならない作業。それが、今、この見知らぬ誰かの「明日への希望」に繋がった。


 父も、そうだったのではないか。

 陽介は、見返りを求めない「余白の受取人」のために、人生の多くの時間を庭に捧げてきたのだ。

 誰かのための「余白」を作ることは、直接的な対話よりも深く、誰かの人生を支えることがある。


 咲は、老人が去った後、再びハケを握り直した。今塗っているのは、ただの木材ではない。明日ここに座る誰かの、静かな安らぎそのものなのだ。



---



 日が傾き始め、活動終了の時間が迫っていた。山根さんが戻ってきて、生まれ変わったベンチを見て小さく感嘆の声を漏らした。


「佐藤さん、本当に丁寧ね。……道具を貸すわ。明日も来るんでしょう?」


 山根さんは、物置から一揃いの清掃用具と、古い剪定鋏を差し出してくれた。

 決して手入れが行き届いているとは言えないそれらを、咲は丁寧に借り受けた。

 活動が終わった後、彼女は一人で公園の片隅に残った。そして、バッグから一枚の布と、小瓶に入った潤滑油を取り出した。実家を出る時、陽介のガレージからこっそりと持ってきたものだ。


 彼女は、借りた道具を一つ一つ拭き上げ始めた。翔から届いた写真の中の、錆び付いた佐藤家の道具たち。あの光景を思い出しながら、彼女は剪定鋏の刃を磨き、油を差し、ネジを締め直した。

 シャキッ、シャキッ、と、本来の軽快な音が蘇る。


(……お父さん。私、忘れないよ)


 彼女が今、ここでしていることは、佐藤家を捨てることではない。父が守り抜こうとした「庭の精神」を、自分の手で引き継ごうとしているのだ。

 実家の庭が荒れ果てているのなら、今耕しているこの場所こそが、彼女の「新しい実家」だった。


 道具が綺麗になっていくにつれ、咲の中の「帰りたい」という悲鳴は、静かな「覚悟」へと変わっていった。

 彼女は、一人の自立した人間として、いつか家族が再び自分の足で立てるようになった時、胸を張って見せられる「自分の庭」を、ここで作り上げる。


 夕暮れの公園。

 咲は全ての作業を終え、荷物をまとめた。振り向くと、新しく塗り替えられたベンチが夕日に照らされて輝いていた。


 静寂は、もう彼女を脅かすものではなかった。今の彼女は、孤独の淵に立っているのではない。

 自分の意志で、孤独という名の「自由な土地」を耕し終えた、一人の庭師なのだ。


 帰り道、商店街の街灯が灯っていく。咲はスマートフォンの電源を一度も入れなかった。

 今夜、寮に戻っても誰もいないだろう。けれど、彼女の胸の中には、あの日ローズマリーの茂みから漂っていた、毅然とした香りが満ちていた。

 孤独は、もはや寂しさではない。それは、他者に寄りかからずに自分の人生を生き抜こうとする、誇り高い者のための「余白」だ。


(お父さん。私、やっと分かったよ。お父さんが、あの日、庭で何を守ろうとしていたのか)


 咲は、寮の自室に戻り、暗闇の中で静かに目を閉じた。

 明日、彼女はまたあの公園へ行く。自分自身の自立という名の庭を、さらに深く耕すために。

 そして、その先にある、家族の再生という奇跡を信じて。

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