境界線の雨音
五月に入り、街を包む空気は急速に湿り気を帯び始めた。
先日のワークショップでの成功は、佐藤咲に思いがけない変化をもたらしていた。
「庭園の少女」――。
いつの間にかクラスメイトたちが彼女につけたあだ名は、最初こそ気恥ずかしかったが、次第にこの学び舎における彼女の「居場所」を定義する言葉へと変わっていった。
先生からは商店街の空き地プロジェクトの継続案について相談を受け、優奈や凛花とも、以前よりはずっと自然に会話ができるようになっている。
けれど、順調であればあるほど、咲の胸の奥には得体の知れない「後ろめたさ」が澱のように溜まっていった。
彼女がここで新しい「庭」を構想し、輝かしい未来を語れば語るほど、あの日置いてきた佐藤家の庭が、遠く暗い淵へと沈んでいくような気がしてならなかったのだ。
その日は、午後から重い雨が降り続いていた。
五月雨というにはあまりに激しく、窓ガラスを叩く音は、まるで誰かが指先で外から助けを求めて叩いているような、不穏なリズムを刻んでいた。
放課後の自習室。冷房の効いた静寂の中で、咲は教科書を開いていたが、活字は滑るだけで一行も頭に入ってこなかった。
(……お母さん、どうしてるかな)
ふと、机の上に置いていたスマートフォンが、一度だけ短く震えた。
画面に浮かび上がったのは、兄・翔の名前だった。
その瞬間、彼女の心臓が不規則に跳ねた。
翔からの連絡は、いつも唐突だ。そして、彼が自分から妹にメッセージを送ってくる時、それは決まって「家族というシステム」に亀裂が入った時だった。
彼女は震える指でロックを解除した。そこには、二枚の写真が並んでいた。
最初の一枚を見た瞬間、咲は呼吸を忘れた。
それは、かつて彼女と母が最も大切に手入れをしていた、ローズマリーの茂みだった。
毅然とした香りを放ち、佐藤家の庭の「背骨」を成していたはずのその植物は、今や見る影もなかった。
その周囲を、暴力的なまでの勢いでドクダミとスギナが埋め尽くしている。
ドクダミの白い花は、雨に濡れて死者の顔色のように青白く、ローズマリーの息の根を止めようと絡みついていた。
「放置」という名の無言の暴力が、画面越しに彼女の喉を締め付ける。
二枚目の写真は、父・陽介のピザ窯の周辺だった。
陽介が週末ごとに磨き上げていたはずの工具たちが、泥にまみれ、雨ざらしのまま転がっている。
高価な剪定鋏は赤錆に侵食され、まるで地面に突き刺さった墓標のように見えた。
「道具を大事にできない奴は、命も大事にできない」
そう語っていた父の矜持が、泥水の中に溶け出していた。
続けて、翔からのテキストが流れてくる。
『庭が死んでる。お父さんも、お母さんも、もう笑わない。家も、もう限界だ。
咲、助けてくれ。俺じゃ、もうどうにもできない』
画面の青白い光が、咲の瞳を射抜く。
翔の言葉は、単なる報告ではなかった。それは、境界線を越えて投げられた、鋭い礫だった。
自分がここで「自立」という名の下に享受している平穏は、家族の犠牲の上に成り立つ、偽りの平和なのではないか。
そんな問いが、嵐の雨音と共に彼女を追い詰めていった。
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自習室を出て、咲は激しい雨が降りしきる中庭に面した廊下を歩いた。
湿った風が吹き込み、彼女の頬を冷たく濡らす。画面をスクロールするたび、美和の悲鳴が聞こえてくるような気がした。
かつて母は、どんなに辛い時でも背筋を伸ばし、庭を整えることで自分自身の尊厳を守っていた。
「咲。自分を律しなさい。それだけが、あなたを自由にするのよ」
あの言葉は、母が自分自身に言い聞せていた呪文だったのだ。
その母が、今、自分を律することを放棄している。それは、彼女の魂が、既に佐藤家の沈黙に飲み込まれてしまったことを意味していた。
(帰らなきゃ。今すぐ帰って、あの庭の雑草を抜かなければ)
衝動が、理性を焼き切ろうとする。
咲はスマートフォンのブラウザを開き、新幹線の予約サイトを検索した。
今すぐ寮に戻って荷物をまとめ、早朝に駅に向かえば、昼には故郷に着く。
美和の元へ駆け寄り、彼女を抱きしめ、「私がいるから大丈夫だよ」と囁けば、彼女の止まった時間は再び動き出すかもしれない。翔の悲しみも、自分の帰宅によって解消されるはずだ――。
けれど、予約確定のボタンの上に指を置いたとき、彼女は凍りついた。
母が最後に言った「自立」という言葉の、本当の意味が、暗い海の中から浮上してくるのを感じたからだ。
(……ここで戻ったら、私はまた、お母さんの「部品」に戻るだけじゃないの?)
佐藤家という庭は、確かに美しかった。
けれど、そこにある平和は、誰かが誰かの欠損を埋め合わせることで辛うじて維持されていた、危うい均衡だった。
咲が戻って庭を綺麗にすれば、家族は一時的に救われるだろう。でも、それは父や母が、自分たちの足で立つという最大の試練を、彼女が奪ってしまうことにならないか。
自分が帰ることは、愛情ではない。それは、共依存という名の暗闇への逆戻りだ。
救いたいのは家族なのか。それとも、家族を救っている自分という「役割」なのか。
「咲? 何してるの、そんなところで」
不意に、背後から声をかけられた。
振り返ると、傘を差した優奈が立っていた。彼女の鋭い瞳は、咲のスマホを持つ手の震えを見逃さなかった。
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寮の二〇三号室に戻ると、部屋にはいつも通りの時間が流れていた。
優奈は既にデスクに向かい、今日の復習を始めていた。凛花はヘッドホンをして、リズムに合わせて軽く体を揺らしている。
ここは、佐藤家とは別の重力が支配する場所だ。
「……咲、帰るの?」
優奈が、ペンを置かずに尋ねた。彼女の言葉には、同情も批判も含まれていなかった。ただ、事実を確認するだけの、乾いた問い。
「……家が、大変なんだ。お兄ちゃんから連絡が来て。お母さんの具合が悪くて、庭も滅茶苦茶で……」
咲の声は、自分でも驚くほど弱々しかった。凛花がヘッドホンをずらし、心配そうにこちらを見た。
「え、それヤバくない? 帰ったほうがいいよ、そんなの。お母さん一人でしょ?」
凛花の言葉は正論だった。普通の家族なら、そうするのが当然だ。
けれど、優奈は冷徹に言った。
「……帰って、どうするの? あなたに何ができる? 精神科医でもないし、プロの植木屋でもない。あなたが行って解決するのは、あなたの『罪悪感』だけじゃないの」
「優奈、言い過ぎだよ!」と凛花が叫ぶ。
けれど、優奈の言葉は、咲の心の中で最も恐れていた真実を正確に射抜いていた。
「あなたが帰れば、お母さんは喜ぶわね。でも、それはお母さんの自立をあなたが殺すこと。そして、あなたの自立もここで終わる。
……ワークショップの継続案、先生が期待してるわよ。この街の土を耕すんじゃなかったの? 自分の家の土も耕せないのに?」
「うるさい!」
咲は叫んでいた。
優奈に怒っているのではない。自分自身の中にいる、優奈と同じ冷徹な理性と、凛花のような純粋な同情心が、激しく殺し合っていることに耐えられなかった。
彼女はスマホを机に叩きつけた。涙が溢れ出し、視界を歪める。
家族を助けたいという愛。
家族を突き放さなければならないという規律。
その二つの境界線の上で、彼女は引き裂かれそうになっていた。
「お母さんは……お母さんは私に、『自立しなさい』って言ったんだよ。でも、その本人が、今、壊れそうなんだよ! 私にどうしろって言うの!」
咲は叫び、膝をついた。雨音はさらに激しさを増し、寮の古い窓枠をガタガタと震わせる。
佐藤家とこの寮を隔てているのは、物理的な距離だけではない。「自分という個として生きる」という、途方もない孤独の壁なのだ。
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深夜、十一時。
部屋は静寂に包まれていた。優奈も凛花も、既に眠りについている。
咲は、暗闇の中で一人、机の前に座っていた。
手元には、まだ明かりを灯したままのスマートフォン。翔から届いた写真の、あの腐りゆくローズマリーを見つめる。
彼女は、何度も翔に電話をかけようとした。受話器越しに翔を怒鳴りつけ、あるいは父を責め、母に泣いて縋ろうとした。
けれど、指は動かなかった。
(……私は、庭の娘だ)
庭で学んだことは、植物を愛でることだけではない。
時には、枯れゆく枝を大胆に剪定し、病んだ根を切り捨てなければ、全体の生命は守れないということだ。
今の佐藤家に必要なのは、自分の献身という名の肥料ではない。「誰も助けてくれない」という、残酷なまでの飢餓感なのかもしれない。
その乾きがなければ、父も母も、自ら根を伸ばそうとはしないだろう。
彼女は、一文字ずつ、石を刻むような心地でメッセージを打ち込んだ。
『私は、帰らない。』
その一文を打ったとき、指先が激しく震えた。それは、家族との絆を断ち切るナイフのような言葉だった。
『お兄ちゃん、今は耐えて。メカニックになりたいなら、今は自分の腕を磨くしかないよ』
送信ボタンを押す瞬間、咲は目を閉じた。
パケットが送信される微かな電子音。それが、彼女の「境界線の産声」だった。
彼女は、引き出しの奥から、美和が持たせてくれたハーブのサシェを取り出した。
もう、その香りは今の自分を癒してはくれない。それは「かつての平和」の記憶であり、今の彼女にとっては、前進を阻む重りだった。
彼女はそのサシェを、ゴミ箱に捨てようとした。けれど、やはりできなかった。
彼女はそれを、引き出しの最も深い、普段は開けることのない暗がりの奥へと押し込んだ。
捨てるのではない。封印するのだ。
いつか、家族が再び自分の足で立ち、新しい庭を作れるその日まで。
窓の外の雨は、止む気配がなかった。この雨が、佐藤家と自分との間の物理的な境界線を、より深く、より逃れられない溝に変えていくようだった。
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泣き疲れてベッドに入ったとき、隣のベッドから凛花の小さな寝息が聞こえてきた。
ふと、頬を伝う涙が枕を濡らした。
咲は今、本当の意味で一人になったのだ。
誰の助けにもならず、誰の期待にも応えず、ただ自分の意志だけで、この嵐の夜を生き抜こうとしている。
それは、故郷の庭で夢想していた「自立」とは、あまりにもかけ離れた、殺風景で痛々しいものだった。
けれど、胸の奥には、不思議な静寂が広がっていた。嵐の中に、一粒の種が埋まったような、そんな感覚。
「助けない」という選択をすることで、彼女は初めて、家族を一人の対等な人間として認めたのかもしれない。
(お父さん、お母さん。……私は、ここで強くなるよ。だから、二人も、どうか死なないで)
暗闇の中で、彼女は祈った。それは神への祈りではなく、自分自身の「根」への誓いだった。
五月雨が叩く窓の向こう、故郷の庭では今もドクダミが領域を広げているだろう。
けれど、彼女はもう目を逸らさない。
境界線のこちら側で、自分自身の土壌を耕し続ける。それが、彼女にできる唯一の、そして最大の「庭作り」なのだから。
翌朝、目が覚めたとき、雨は上がっていた。窓から差し込む朝日は、昨日よりも少しだけ鋭く、視界を鮮明に照らし出していた。
孤独な連休の先にある、父の孤独への真実の理解へと、彼女は歩き出した。




