表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
42歳のすみかは庭になりました  作者:
第2部 第4章「それぞれの2ヶ月〜咲の章〜」

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

117/126

土壌の記憶と共生の設計図

 四月中旬。全寮制高校の生活は、佐藤咲の想像を遥かに超える速度で、その日常を塗り替えていた。


 この学校を支配しているのは、徹底した「効率」と「成果」の論理だ。

 廊下を歩く生徒たちの靴音は常に急ぎ足で、図書室の席は早朝から、知識という弾丸を詰め込もうとする志願兵たちによって埋め尽くされている。


 その日の午後、咲は階段教室で行われていた必修科目「地域共生ワークショップ」のガイダンスに出席していた。

 三百人を収容する巨大な空間は、冷房の微かな唸りと、数百台のノートPCが叩き出すタイピング音に支配されていた。


「今回の課題は、近隣商店街にある『空き地』の有効活用案だ」


 教壇に立つ先生が、スライドを切り替えた。映し出されたのは、錆びたシャッターが並ぶ商店街の一角、面積にして約三十坪ほどの、四角く切り取られたアスファルトと土の塊だった。

 かつて精肉店があったというその場所は、今は不法投棄された自転車の残骸と、埃にまみれたカラーコーンが立ち並ぶ、街の「空白」と化していた。


「最優秀案は、自治体と商店街振興会への正式な提言として採用される。

 君たちには、現代的なコミュニティを再生させる、画期的で持続可能なプランを期待している」


 先生の言葉が終わるか終わらないかのうちに、周囲からは熱を帯びた議論が沸き起こった。


「AIを導入した無人のシェアオフィスはどうだろう。リモートワーク需要は高いはずだ」

「いや、インスタ映えするコンセプトカフェの方がいい。週末に若者を呼び込めれば、活性化に繋がる」

「ポップアップストアを週替わりで展開して、常に『新しさ』を演出するべきだ。今の消費者は飽きが早い」


 飛び交う言葉はどれも輝かしく、論理的で、そして恐ろしく「速い」ものばかりだった。

 どの案も、いかにしてその場所を「消費」し、いかにして短期間で「成果」を出すかという点において、完璧な解を求めているように見えた。


 咲は、手元のノートを開いたまま、ペンを動かすことができなかった。彼らの言葉の中に、どうしても見つけられないものがあったからだ。

 それは、その場所に流れているはずの「固有の時間」と、アスファルトのすぐ下にあるはずの「土」への視点だった。


(……この人たちは、誰も土の匂いを知らないんだ)


 実家の庭で、父・陽介が「土を耕すだけで一年、ミミズが戻ってくるのを待つのにまた一年かかる」と呟いていた姿を思い出す。

 そして、母・美和が、一輪のハーブを植えるために、その場所の日当たりや風の通り道を何日も観察していた姿を。


 庭を造るということは、そこに新しい宇宙を「待つ」ということだ。だが、この教室にあるのは、宇宙を「作る」という傲慢なまでの自負だけだった。


 咲は周囲の熱気に当てられ、少しだけ眩暈を覚えた。

 自分の中に溜まっている「庭の記憶」は、ここでは単なる「古臭いノスタルジー」でしかないのではないか。そんな不安が、胸の奥を冷たく通り抜けていった。



---



 放課後、咲は吸い寄せられるように、課題の対象となっているあの空き地へと向かった。

 駅から徒歩十分。かつての繁栄の残骸が漂う商店街は、夕暮れの光の中で、どこか疲れ果てた老人のような沈黙を保っていた。


 現地に到着すると、そこは写真で見るよりもずっと荒廃していた。

 四方を高い建物に囲まれ、日光は一日の数時間しか差し込まないであろう、湿った影の底。地面を覆うアスファルトは各所でひび割れ、その隙間からは、暴力的なまでの力強さでスギナとドクダミが這い出していた。


 咲は周囲に人がいないことを確認し、その場に深くしゃがみ込んだ。そして、ひび割れたアスファルトの隙間に、指を差し込んだ。


「……冷たい」


 指先に触れた土は、驚くほど硬く、冷たかった。それは「生きている土」の柔らかさや温かみとは無縁の、何十年も踏み固められ、酸素を奪われ続けてきた、死者の皮膚のような感触だった。

 土中に含まれるべき腐植質は枯渇し、砂利と砂が混ざり合った無機質な堆積物。そこに咲いている雑草たちも、どこか必死な、悲鳴を上げているような様相を呈していた。


 彼女はアスファルトの上に膝をつき、しばらくその「死んだ土」と対話した。

 父・陽介が家計を削ってまで最高級の腐葉土を買い込み、何度も何度も鍬を入れ、土の中に空気を送り込んでいたあの姿。


「土が息をできない場所では、人間も息ができなくなるんだよ」


 陽介のその言葉が、今、このコンクリートに囲まれた空間で、呪文のように彼女の耳元で蘇る。


 商店街の通りを、一人の老人がゆっくりと通り過ぎていった。

 買い物袋を下げたその足取りは、若者たちの歩幅の半分ほどもなかった。彼は空き地をちらりと見たが、すぐに視線を逸らした。

 そこには、彼が足を止めるべき「理由」も、心を寄せるべき「景色」も、何一つないからだ。


(ここは、誰からも忘れられた場所なんだ)


 表面だけお洒落な建物を建て、若者を呼び込んだとしても、その賑わいはアスファルトの表面を滑るだけの、浅いものにしかならないだろう。

 根が張れない場所に、コミュニティは育たない。


 咲は立ち上がり、ジーンズについた砂を払った。指先には、いつまでも消えない土の冷たさが残っていた。

 その冷たさが、彼女にある決意をさせた。「消費」される空間ではなく、この街の「根」になる場所を提案しよう。

 たとえ、それが効率という名の戦場で、誰からも相手にされないような「遅い」提案であったとしても。



---



 寮の自室、深夜二時。部屋は、三者三様の「戦場」と化していた。


 優奈は、デスクライトの狭い光の中で、難関の資格試験に向けた参考書と格闘している。彼女のペンが紙を走る音は、正確なメトロノームのように等間隔で、一切の迷いがない。


 凛花は、ベッドの上でタブレットを眺めながら、流行りのダンス動画のチェックに余念がない。イヤホンからは漏れ聞こえないはずの重低音が、空気の振動となって部屋に伝わってくる。


 咲は、その二人の間でスケッチブックを広げていた。手元には、実家から持ってきたボロボロのノートがある。

 母・美和が庭の設計図を書き留め、植物たちの相性をメモしていた、佐藤家の門外不出の「庭師の記録」だ。


(……コンパニオンプランツ)


 ページを捲ると、美和の柔らかい筆致で描かれた、共栄作物の相関図が現れる。

 トマトの隣にバジルを植えると、バジルが水分調整を助け、害虫を防ぎ、さらにはトマトの味を甘くする。マリーゴールドは、その根から分泌する物質で線虫を遠ざける。背の高いひまわりは、直射日光に弱い草花の影となり、その茎は蔓性の植物の支柱となる。


「あの子が苦手なものは、この子が受けてあげる。この子に足りないものは、あの子が分けてあげる。

 庭っていうのは、そうやって助け合う『小さな社会』なんだよ」


 美和の言葉を思い出しながら、咲は商店街の空き地の図面に、植物の名前ではなく人間の「特性」を書き込んでいった。

 「若者」という名の、成長の早い一年草。

 「老人」という名の、深く根を張り、静かな日陰を好む宿根草。

 「子供」という名の、土を掻き回し、風を運ぶ小さな生き物。

 彼女は、商店街の役員たちが求めていた「収益性」という項目を、敢えて後回しにした。


 代わりに、設計図の中心に据えたのは、「土壌改良のタイムスケジュール」だった。

 一年目。アスファルトを剥ぎ取り、地中に空気を送り込む。ハーブやクローバーを植え、まず「土」を蘇らせる。

 三年目。地域の子供たちと果樹を植え、木陰を作る。

 五年目。ようやくそこに、小さな「集いの場」としての小屋を建てる。

 それは、現代のスピード感からは完全に逸脱した、あまりにも贅沢で、非効率な「十年の余白」を求める設計図だった。


(……こんなの、笑われるかな)


 優奈のような合理主義者から見れば時間の無駄だと切り捨てられるだろう。凛花のような感性から見れば地味すぎて面白くないと言われるだろう。

 だが、咲はペンを握る手に力を込めた。

 あの空き地の土の冷たさを知っているのは、自分だけなのだ。誰も見ようとしない「足元」のことを、自分が語らなければ、あの場所は永遠に死んだままになる。



---



「……ねえ、咲ちゃん。さっきから何描いてるの? ずっと同じページいじってない?」


 不意に、凛花がベッドから身を乗り出し、咲の肩越しにスケッチブックを覗き込んだ。


「え、あ、これは……学校の課題で」

「うわ、地味。何これ、草? 迷路? もっとこう、ネオンとか看板とか、バーンと目立たせないと人なんて来ないよ」


 凛花は呆れたように笑いながら、咲が描いた「ハーブの配置図」を指差した。


「でも、凛花さん。ここは日当たりが悪いから、強い光を放つものより、微かな光を喜ぶ植物の方が……」

「そんなの、客には関係ないじゃん。客は『今、楽しいかどうか』しか見てないんだから」


 凛花の一刀両断に、咲は言い返せなくなった。確かに彼女の言うことは一理ある。消費者の視点に立てば、彼女の案はあまりにも自己満足的かもしれない。

 すると、それまで沈黙を守っていた優奈が、不意に椅子を回転させ、こちらを向いた。


「……見せて。その設計図」


 優奈は、咲のスケッチブックを奪い取るようにして受け取ると、鋭い眼光で図面をスキャンし始めた。彼女の指先が、咲が書き込んだ「十年のスケジュール」の箇所で止まる。


「……効率が悪すぎる。最初の二年間、収益がゼロどころか、管理コストだけで赤字が出るわよ」


 冷徹な指摘。咲は身をすくめた。だが、優奈の言葉はそこで終わらなかった。


「……でも、この『滞留時間の設計』は面白い。多くの案は人を『回転』させることしか考えていないけれど、あなたは人を『定着』させようとしている。

 管理コストの面を、ボランティアや地域通貨の仕組みと組み合わせれば、持続可能なモデルになる可能性があるわ」


 優奈は、咲の図面の隅に、いくつかの数式と、組織論の用語を書き殴った。


「凛花の言う通り、見た目の『フック』は必要よ。でも、あなたの言う『土作り』という概念は、組織の基盤形成と同じね。

 ……これ、もう少し論理的に整理すれば、化けるわよ」


 咲は驚いて二人を見た。正反対の性質を持つ二人が、彼女の「庭」に、全く新しい視点の肥料を投げ込んでくれた。

 凛花が求める「瞬間的な輝き」と、優奈が求める「永続的な構造」。

 それが、彼女の「土壌の哲学」を媒介にして、一つの形になろうとしていた。


「……ありがとう、二人とも」


 咲は、再びペンを握った。

 二〇三号室というこの小さな箱こそが、彼女にとっての最初の「コンパニオンプランツ」の実験場だったのだ。異なる個性が、互いの欠けた部分を補い合い、一つの実を結ぼうとしている。

 その手応えが、彼女の設計図に、確かな「体温」を宿らせていった。



---



 一週間後。最終発表会の会場は、重苦しい緊張感に包まれていた。

 最前列には、商店街振興会の役員たちが、どこか疲れ切った表情で並んでいる。彼らは、これまでの学生たちの「派手だが実現性の乏しい」提案に、半ば飽き飽きしているようだった。


 咲の番が来た。

 教壇に立ち、プロジェクターに自分の設計図を映し出した瞬間、会場から微かな失笑が漏れた。色鮮やかなCGパースではなく、手書きのスケッチと、土の断面図。


「私が提案するのは、建物の設計ではありません。この場所の『土壌改良』です」


 咲は、震える声を抑えて語り始めた。

 周囲の学生たちが提案したシェアオフィスやカフェが、なぜこの場所では「枯れてしまう」のか。それは、今のこの土地が、人の心を受け入れる準備ができていない、死んだ土だからだということ。


 彼女はコンパニオンプランツの概念を説明した。

 若者が活発に動くための「広場」と、老人が静かに腰を下ろせる「ハーブの小径」を混在させること。互いの存在が、互いの「居心地」を豊かにする配置。


「最初の二年は、誰にも何も売らないでください。ただ、アスファルトを剥ぎ、地域の人たちと一緒に土を耕し、ハーブを植えてください。

 土を肥やす時間は、地域の信頼を肥やす時間です」


 商店街の役員の一人が、身を乗り出した。白髪の、背中を丸めたその老紳士は、彼女の言葉を、一文字も聞き漏らすまいとするような真剣な眼差しで、図面を見つめている。


「五年後、ようやく木々が影を作るようになった頃に、小さな東屋を建ててください。そこは、何かをする場所ではなく、ただ『居てもいい場所』になります。

 ……急いで花を咲かせようとすれば、土は疲弊し、街は再び死にます。私たちは、十年かけて、この場所に新しい『根』を張るべきなのです」


 発表を終えた時、会場は水を打ったような静寂に包まれた。あまりにも時代に逆行した、非効率な提案。咲の背中を、嫌な汗が伝う。

 すると、最前列の老紳士が、ゆっくりと立ち上がった。彼は商店街振興会の理事長だった。彼の目は、少しだけ潤んでいるように見えた。


「……学生さん。あなたは、この街の『寂しさ』を、本当の意味で見てくれた、初めての人だ」


 彼は震える声で続けた。


「私たちは、新しいものを建てればいいと思っていた。

 でも、本当に欲しかったのは、あなたが言うような、ただ座って、土の匂いを感じながら、隣の人と笑い合える……そんな『待つ時間』だったのかもしれない」


 会場から、まばらな、けれど心のこもった拍手が沸き起こった。効率と成果を競い合っていた教室の空気が、その瞬間、どこか柔らかく、湿り気を帯びたものに変わった。

 先生が、最後に咲の評価を口にした。


「佐藤さん。君の案は、経済的な視点で見れば落第点だ。

 ……だが、場所を『消費』するのではなく『耕そう』とした君の姿勢は、この共生ワークショップの本質を突いている。

 君の言葉には、確かな『手触り』があった」


 咲は、その言葉を胸の奥深くに刻み込んだ。

 佐藤家の庭で、父と母から受け取った、あの「非効率で、手間のかかる、けれど美しい時間」が、外の世界で価値ある「知恵」として認められた。その事実は、彼女がこれからこの未知の街で生きていくための、何よりも強い光となった。



---



 発表を終え、寮へと帰る道すがら、咲はもう一度あの空き地に立ち寄った。夕暮れの中で、相変わらずひび割れたコンクリートが広がっている。

 けれど、今の彼女には、その地下で眠る土の鼓動が聞こえるような気がした。


(……いつか、本当にここを耕せる日が来るといいな)


 彼女は、バッグの中から母が持たせてくれたサシェを取り出した。ローズマリーの香りが、夕闇の中に微かに広がる。

 それはもう、彼女を過去に縛り付ける甘えの香りではなかった。新しい土壌に、自分の根を下ろしていくための、戦いの香りだった。


 寮に戻ると、部屋には優奈と凛花の日常が待っていた。


「お疲れ、咲ちゃん。まあ、あんな地味な案が通るんだから、世の中分からないよね」

「……お疲れ様。あなたの論理構成、後で私のレポートの参考にするから」


 二人の不器用な労いを受けながら、咲は自分のデスクに座った。机の上のラベンダーの鉢からは、小さな、新しい芽が顔を出していた。

 彼女は、佐藤家の娘としてではなく、一人の「咲」として、この街の土を耕し始めたのだ。

 窓の外に見える月は、故郷の庭を照らしていたものと同じはずなのに、今夜は少しだけ、違った輝きを放っているように見えた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ