錆びたチェーンとSOS
五月上旬。
街は、眩しすぎるほどの初夏の光に包まれていた。
青く澄み渡った空は、どこまでも高く、行楽へと向かう人々の期待を煽るように輝いている。
テレビをつければ、高速道路の渋滞予測や、空港の混雑状況が賑やかに報じられ、誰もが「家族の思い出」を作るために躍起になっていた。
翔は、自分のロードバイクに跨った。
部活の遠征、そしてその後のアルバイト。
今の彼にとって、家はもはや安らげる場所ではなくなっていた。
家族が顔を合わせれば合わせるほど、言葉にならない不協和音が蓄積され、空気の密度が重くなる。
それなら、油の匂いのする店で、物言わぬ機械と向き合っている方が、よほど息がしやすかった。
玄関の隅には、美和のガーデニング用エプロンが放置されたままになっていた。
かつては庭のハーブを手入れする彼女のトレードマークだった、鮮やかなグリーンの布。それが今は、埃を被って色褪せ、床に力なく崩れている。
その光景が、翔の胸を鋭い棘のように刺した。
(誰も、もうこの家を直そうとしていない……)
翔は、五月晴れの眩しさに目を細め、逃げるようにペダルを漕ぎ出した。
家族という名の、かつては滑らかに走っていた乗り物が、今、誰の手にも負えないほどの速度で、ブレーキを失ったまま坂道を下っている。
その恐怖から逃れるには、自分自身の腕を磨き、自立という名のシェルターを築くしかなかった。
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「……ひでぇもんだな」
サイクルショップ・カジワラの裏庭で、翔は一台の自転車を前に立ち尽くしていた。
それは、梶原がどこからか引き取ってきたという、二十年以上前のクロモリ製ロードバイクだった。
かつては名門ブランドのフラッグシップモデルだったであろうその名残はあるが、長年の屋外放置によって、その体躯は無惨な「錆の塊」へと変貌していた。
「それをバラせ」
梶原は、いつものように短く命じた。
「ネジの一本まで、生きてるかどうか見極めろ。死んでるなら殺せ。生きてるなら、息を吹き込ませろ」
翔は、工具を手に、その死体のような自転車と向き合った。
まず取り掛かったのはチェーンだ。
本来ならば、リンクの一つ一つが滑らかに可動し、力を伝えるべきその鉄の鎖は、赤錆と泥が混じり合い、まるで一本の曲がらない棒のように固着していた。
(動かない……。一ミリも動かない)
力を込めても、ギチリとも言わない。
それは、長年連れ添った夫婦が、互いへの無関心と失望を積み重ね、ついには「対話」という機能を完全に停止させてしまった姿に似ていた。
翔は、そのチェーンを慎重に取り外し、灯油を満たしたパレットに浸した。
「……少し、待ってろよ」
汚れを浮かせ、錆をふやかす。
物言わぬ鉄の塊は、人間のように嘘をつかない。
適切に扱い、時間をかけ、必要な処置を施せば、必ず答えてくれる。
今の翔にとって、この「因果関係の明確さ」だけが、唯一の心の支えだった。
パレットの中で、茶色い錆がじわじわと灯油を汚していく。
翔は真鍮のブラシを手に取り、リンクの一つ一つを丁寧に磨き始めた。
シュッ、シュッ、と規則正しい音が、静かな店内に響く。
(鉄の錆は、磨けば落ちる。でも、心の錆はどうなんだ?)
父・陽介の沈黙。母・美和の拒絶。
二人の間に溜まった「錆」は、いったいどれほどの厚みになっているのだろうか。
それを溶かすための「灯油」は、この世界のどこにあるのだろうか。
「表面だけ綺麗にしても、リンクの奥に錆が残ってりゃ、すぐにまた動かなくなるぞ」
背後から、梶原の声が飛んだ。
「外側を繕うのは素人だ。プロは、目に見えない奥底の腐食まで見通して、そこを叩く」
翔は、ブラシを動かす手を止めた。
「……奥底まで、ですか」
「そうだ。一度固まったもんは、並大抵の力じゃ動かねぇ。だがな、必ずきっかけになる『一点』がある。そこを動かせば、あとは連鎖的に回るもんだ」
梶原はそう言うと、再び自分の作業台へ戻っていった。
きっかけになる、一点。
今の佐藤家において、その一点はどこにあるのか。
翔には、まだそれが見えていなかった。
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バイトを終えて二十二時過ぎに帰宅した翔を待っていたのは、暗闇に沈んだリビングだった。
玄関の明かりは消え、美和は既に自室に閉じこもっているようだった。
だが、リビングのソファに、ぼんやりとした人影が見えた。
陽介だった。
テレビもつけず、本を読むわけでもなく、スマホを操作している様子もない。
彼はただ、窓の外の、雑草に侵食された暗い庭を見つめたまま、微動だにせずに座っていた。
「……父さん? 起きてるの?」
翔が恐る恐る声をかけると、数秒の遅延の後、陽介がゆっくりと首をこちらに向けた。
その動きは、先ほど店で触れた、錆びついたギアの動きそのものだった。
瞳には光がなく、ただ深い疲弊と、自分を責めるような暗い情熱だけが淀んでいる。
人事部での孤立が、父の精神を完全に摩耗させてしまっていた。
「……ああ、翔か。遅かったな」
「バイトだよ。……飯は?」
「食べたよ」
陽介の言葉は、以前のような温かみのある低音ではなく、カサカサに乾いた落葉のような音だった。
かつては、翔が帰宅すれば「今日のバイトはどうだった」「こんな面白いことがあった」と、会話のラリーが続いた。
だが今は、陽介から言葉を発することはない。
ただ、翔の問いに最小限のエネルギーで答えるだけ。
キッチンに目を向けると、洗い場には一枚の皿とコップが置かれていた。
美和と一緒に食べたのではない。
同じ家にいながら、二人はもはや同じ時間を共有することを止めてしまったのだ。
美和は美和で、陽介を「見守る」という過酷な作業から、ついに自分を守るために「放棄」という盾を選んだ。
(触れられない……。誰も、誰にも触れられないんだ)
翔は、喉の奥がヒリヒリと焼けるような感覚を覚えた。
もし今、自分が「父さん、大丈夫?」と肩を叩いたら、この父は粉々に崩れてしまうのではないか。
あるいは、溜め込まれた圧力が爆発し、取り返しのつかない言葉が溢れ出してしまうのではないか。
陽介は再び、視線を庭へと戻した。
「……もう、いいよ」
不意に、陽介が小さく独り言を漏らした。
その「もういい」という言葉が、何を指しているのか、翔には直感的に分かってしまった。
庭を整えることも、家族を幸せにすることも、自分自身を保つことも——そのすべてを諦めるという、最後の一撃。
その瞬間、翔は自分の足元が崩れ落ちるような眩暈を感じた。
自分が守りたかった温室が、今、完全に閉鎖され、中にある命が窒息しようとしている。
十七歳の自分にできることは、ただ、その光景を無力な観客として見つめることだけなのか。
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リビングの空気に耐えきれず、翔は勝手口から庭へ飛び出した。
夜の庭は、昼間の明るさが嘘のように、不気味な死の気配を漂わせていた。
一ヶ月前までは、鼻を満たすほどだっまハーブの香りも、今はもうない。
鼻を突くのは、生い茂ったドクダミの刺激臭と、水はけが悪くなった土が発する、腐敗したような湿った臭いだ。
スギナの群生は翔の膝の高さまで伸び、かつて陽介が愛したローズマリーの株を、無慈悲に飲み込もうとしている。
「……くそっ、なんでだよ!」
翔は、足元に生えた太いスギナを掴み、力任せに引き抜こうとした。
だが、暗闇の中で踏ん張った足が、ぬかるんだ土に滑る。
抜けたのは葉の先だけで、地中深くにはびこった根は、嘲笑うかのようにそこにとどまっている。
(俺一人じゃ……。俺一人じゃ、このチェーンは繋げないんだ!)
店で磨いていたチェーンは、一人でも磨けた。
だが、この家族という巨大な錆は、高校生の自分の力だけでどうにかできるものではない。
自分がどれだけバイトで腕を磨いても、この庭に陽介が戻ってこなければ、美和が笑わなければ、この場所はただの墓場になる。
翔は、泥のついた手でポケットからスマホを取り出した。
画面の眩しさに目が眩む。
アドレス帳、一番上に登録された名前に、指が震えた。
「咲……」
書けなかった言葉。
妹を心配させたくないというプライド。
「大丈夫だ」と嘘をつき続けてきた自分の中の壁。
それが今、夜の庭の静寂の中で、音を立てて崩れ去った。
自分は、まだ子供だ。
誰かに助けてと言わなければ、この家は本当に壊れてしまう。
それは、自立を目指す少年が、初めて自分の「限界」という真実を受け入れた瞬間だった。
『庭が死んでる。お父さんも、お母さんも、もう笑わない。家も、もう限界だ。
咲、助けてくれ。俺じゃ、もうどうにもできない』
一気に打ち込み、庭の死を表す二枚の写真とともに送信ボタンを押した。指先が、冷たく凍りついたようだった。
メッセージは、五月の夜空を越えて、遠く離れた街の寮で眠っているであろう妹へと放たれた。
それは、佐藤翔がこれまでの人生で放った、最も重く、最も切実なSOSだった。
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深夜、十一時。
ようやく手のひらの中でスマホが震えた。
翔は弾かれたように画面を見た。だが、そこに並んでいたのは、想像していた温かな救済の言葉ではなかった。
『私は、帰らない。』
「……え?」
声が漏れた。
メッセージは続いていた。
『お兄ちゃん、今は耐えて。メカニックになりたいなら、今は自分の腕を磨くしかないよ』
翔は、画面を二度、三度と読み返した。怒りが、そして激しい拒絶感が突き上げてくる。
「耐えて」? 「自分の腕を磨け」?
ここで、壊れゆく両親の傍らで、死んだ庭を見つめながら、どうやって自分の夢を見ろというのか。
咲は、あの美しい寮で、意識の高い仲間たちに囲まれ、自分の足元が安全であることをいいことに、俺を見捨てるのか。
翔はスマホを床に叩きつけようとして、その寸前で止まった。
画面に光る「帰らない」という一文字の裏側にある、咲の震えが伝わってきた気がしたからだ。
咲は、自分が戻ることで両親を甘やかし、翔を依存させ、家族全員が「咲という部品」がなければ動かない不良品に戻ることを、何よりも恐れたのではないか。
翔は、床に散らばったままの父親の錆びた工具を見つめた。
咲は境界線を引いたのだ。
自分の人生を守るために。そして、翔にも「自分の人生を死守しろ」と言うために。
「……ふざけんなよ、咲」
翔は吐き捨て、震える手でスマホを拾い上げた。
その頬を、一筋の涙が伝った。それは絶望ではなく、あまりにも冷酷で、あまりにも正しい決断を下した妹への、悔しさと尊敬が混じった涙だった。
家族を修理するための方法は、一緒に沈むことではない。
それぞれが自分の場所で、自分の腕を磨き、いつか対等な「個」として向き合えるその日まで、この嵐の中で立ち続けることなのだ。
庭のローズマリーがドクダミに耐えるように、翔もまた、暗闇の中で自らの牙を研ぎ始めた。
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翌朝。翔は、サイクルショップ・カジワラの奥で、昨日から取り掛かっていたレストア車両の前に立つ。
灯油に浸し、ブラシで磨き抜いたチェーンは、本来の鉄の輝きを取り戻していた。かつての赤錆は消え、リンクの一つ一つが、意志を持っているかのように滑らかに動く。
翔は、小さなオイル差しを手に取った。
「……仕上げだ」
カチッ、カチッ、とペダルを回しながら、チェーンのリンク一つ一つに、一滴ずつオイルを落としていく。
透明なオイルが、金属の隙間へと吸い込まれていく。
そのたびに、金属同士が擦れる不快な音は消え、代わりに「チチチチ……」という、精密機械だけが奏でる、心地よいリズムが店内に響き始めた。
(滑らかに……。止まらずに、回れ)
そのリズムは、翔の心拍と重なっていた。
家族の再生には、まだ時間がかかるだろう。
父の傷は深く、母の失望もすぐには癒えない。
だが、昨夜放ったSOSによって、佐藤家という止まっていた機械の奥底に、一滴のオイルが差されたのは間違いない。
リアホイールが、翔の指先で弾かれ、力強く回り始めた。
高速で回転するスポークが、朝の光を反射して、銀色の円を描く。
その輝きの中に、翔はいつか自分たちが再び庭で笑い合い、何気ない会話を交わす日の幻影を見た。
「お前、いい目をするようになったな」
いつの間にか背後に立っていた梶原が、珍しくそう呟いた。
翔は答えず、ただ滑らかに回り続けるホイールを見つめていた。
たとえ今、家が壊れかけていても。
たとえ自分の力が微力でも。
この回るホイールのように、自分の選んだ道を、止まらずに進み続ける。
それが、十七歳の自分が「家族」という重力の中で見出した、唯一の答えだった。
五月の風が、開け放たれた入り口から吹き抜けていく。
翔は、新しいウエスを手に取り、次のパーツへと手を伸ばした。
彼の長い戦いは、まだ始まったばかりだ。




