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42歳のすみかは庭になりました  作者:
第2部 第3章「それぞれの2ヶ月〜翔の章〜」

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ひび割れた庭、揺れる家

 四月下旬の週末。アルバイトを終えて、まだ夕闇が降りる前の時刻に帰宅したのは、数週間ぶりのことだった。

 自転車のペダルを漕ぐ脚は重く、指先には一日中格闘していたチェーンの油が、石鹸で洗っても落ちない「沈殿物」のようにこびりついている。


 門を潜った瞬間だった。

 翔は、肺の奥を逆撫でされるような違和感に足を止めた。

 鼻を突いたのは、春の柔らかなハーブの芳香ではなかった。

 それは、湿った土の匂いと、どこかで植物が蒸れ、腐敗し始めたような、重く、粘り気のある「野の匂い」だった。


「……なんだ、これ」


 翔は、思わず自転車を自立させたまま、庭へと歩み寄った。

 わずか二週間前に見た時にはまだ「予兆」に過ぎなかったはずの雑草たちが、驚くべき勢力で庭の景色を塗り替えていた。


 スギナの群生が、かつて陽介が丹精込めて育てていたラベンダーの株を包囲し、その鋭い先端で光を遮っている。

 足元を見れば、ドクダミの不気味なほど青々とした葉が、レンガの隙間を埋め尽くし、庭全体に湿った暗い影を落としていた。


 かつて陽介が命を削るようにして維持してきた、あの「美しく、制御された秩序」が、わずか数週間、持ち主が目を逸らした隙に、凶暴な野生へと先祖返りしようとしている。

 それはまるで、手入れを怠った機械が、内部から錆に食い破られていく光景を見ているようだった。


 ふと視線を玄関へ向けると、そこには陽介の革靴が脱ぎ捨てられていた。

 いつもなら美和がすぐに揃え、汚れを拭き取っていたはずの靴。

 だが、その靴は泥がついたまま横倒しになり、主人の疲弊をそのまま形にしたかのように、無防備に転がっている。


 家の中からは、食器が触れ合う高い音も、テレビの賑やかな音も聞こえてこない。

 ただ、重く、ひび割れたような沈黙だけが、庭の雑草のように家全体を飲み込もうとしていた。



---



「……いただきます」


 翔の声は、誰にも届くことなく、ダイニングの壁に当たって冷たく跳ね返った。

 食卓には、かつての佐藤家では考えられなかったような、覇気のない料理が並んでいた。


 陽介は、人事部という異界での過酷な人間関係に、魂を削り取られているようだった。

 箸を持ったまま、その視線は目の前の皿を通り越し、虚空のどこか一点で凝固している。

 深まった「組織の毒」が、父の体内の循環を止めてしまっているのが、今の翔には痛いほど分かった。


 メカニック見習いとして店で学んだことの一つに、「異音を聞き分ける」という技術がある。

 正常な機械は、全てのパーツが滑らかに連動し、心地よいリズムを刻む。


 だが、今のこの家には、決定的な「不協和音」が流れていた。

 陽介の深い、泥のような溜息。

 美和がキッチンで立てる、以前よりも鋭く、余裕のない金属音。

 二人の間に交わされる言葉は、磨り減ったギアのように、空回りしては火花を散らす。


「お母さん。この煮物、少し……」


 翔が言いかけて、言葉を飲み込んだ。

 美和の料理から、明らかに「味」が消えていた。

 ただ素材に火を通し、義務感だけで味付けを施したような、空虚な味。

 美和自身が、自分の「心の栄養」をどこかへ失ってしまい、他人に与えるための余力を使い果たしていることのメタファー。


 陽介は、煮物を一口運んだが、その味に気づく様子すらなかった。

 彼はただ、胃の中に物体を流し込むだけの作業を繰り返している。


(故障してるんだ。この家は……)


 翔は、自分の胸の奥が冷たく締め付けられるのを感じた。

 フレームが歪み、ブレーキが固着し、チェーンが伸びきった自転車。そんなボロボロの乗り物に、自分たちは今、無理やり乗らされている。

 誰かがハンドルを握っているわけでもなく、ただ坂道を下るように、破滅へと向かっているのではないか。


 誰も何も言わない。

 陽介は自分の傷を隠し、美和は自分の失望を隠している。

 だが、隠せば隠すほど、その「歪み」は構造的な欠陥となって、家全体の軋みを大きくしていくのだ。



---



 夕食後、逃げるようにして庭に出た。

 四月の夜気はまだ冷たく、肺の奥まで清めてくれるような気がした。


 翔は、陽介のハーブガーデンを覗き込んだ。

 そこには、かつて陽介と一緒に植えたペパーミントの株があった。

 生命力の強さが自慢だったはずのそのミントが、今、強靭なスギナの根に締め付けられ、光を求めて細い茎を震わせている。


「……ごめんな」


 翔は思わず呟いた。

 脳裏をよぎるのは、まだ幼かった頃の記憶だ。

 陽介が、この庭で土を弄りながら、幼い自分に笑いかけていた。


『庭は鏡なんだ、翔。手入れをサボれば、すぐに心も荒れる。植物は、こっちが注いだ分しか、返してくれないからな』


 あの時、父はあんなに誇らしげに、生命の循環を語っていた。

 その言葉が、今、この荒廃した庭で、父自身にブーメランのように突き刺さっている。

 何という皮肉だろうか。

 庭を「自分自身」と定義した男が、今、自分を捨て、庭を死なせようとしている。


 翔は、たまらずミントを締め付けている雑草を掴み、力任せに引き抜こうとした。

 だが、スギナの根は想像を絶するほど深く、硬い土に食い込んでいた。

 どれだけ力を込めても、地上の葉が千切れるだけで、その「原因」である根っこは微塵も動かない。


「くそっ、なんでだよ……!」


 一度や二度、表面を撫でるように雑草を抜いたところで、この荒廃は止まらない。

 庭全体を覆い尽くしたこの「拒絶」の意志は、もはや子供の力でどうにかできるレベルを超えていた。


 ふと見上げると、庭の隅にある蛇口から、一滴、また一滴と水が滴っていた。

 パチャッ、パチャッ。

 止まらないその雫の音が、佐藤家の時間が、少しずつ、しかし確実に浪費され、失われていくカウントダウンの音に聞こえて、翔は耳を塞ぎたくなった。


 この庭は、泣いている。

 そして、その悲鳴に気づいているのは、この家で自分だけだ。

 陽介は戦いに疲れ、美和は失望に疲れ、二人とも「見る」という行為を放棄してしまった。

 メカニックは、壊れたものから目を逸らしてはならないはずなのに。



---



 翌日の放課後。サイクルショップ・カジワラには、不穏な空気が漂っていた。

 店の奥に運び込まれたのは、無惨なほどにフレームがひしゃげた、高価なアルミ製のクロスバイクだった。

 自動車に側面から衝突されたのだという。

 翔は、その無惨な姿を見て、居ても立ってもいられなくなった。


「これ……直せますよね。フレーム修正機にかければ……」


 梶原は、汚れたウエスで手を拭きながら、冷徹な一瞥をその車両に投げた。


「無駄だ。それはもう、自転車の形をしたゴミだ」

「ゴミ!? そんな……パーツを替えれば、まだ走れますよ!」

「お前は何も分かってないな」


 梶原の声は、昨日の庭の夜気よりも冷たかった。


「金属にはな、『記憶』があるんだ。一度、これほど派手に限界を超えて歪んだ金属は、どれだけ外側を真っ直ぐに直したところで、内側の組織が死んでいる。

 金属疲労ってやつだ」


 梶原は、歪んだパイプの一部を指差した。


「見た目だけ直して、誰かに乗らせてみろ。ある日突然、何の前触れもなく、走行中にそこから折れる。そして、乗っている奴を殺す。

 ……いいか、佐藤。世の中には、直していいものと、直してはいけないものがあるんだ」


 翔は、言葉を失った。

 梶原の言葉は、自転車のことだけを言っているようには聞こえなかった。


(直してはいけないもの……?)


 今の自分の家はどうだろうか。

 陽介と美和の心。

 あの食卓に流れる、ひび割れた沈黙。

 それは、外側を少し修理すれば元に戻る程度の故障なのか。

 それとも、梶原の言う「金属疲労」のように、内側の組織が決定的に死んでしまい、いつか誰かを殺してしまうほどに危険な状態なのか。


「……直せないものなんて、ないはずだ」


 翔は、消え入りそうな声で反論した。


「あるんだよ。それを認めるのも、プロの仕事だ」


 梶原はそう言うと、冷酷にその事故車両に「廃車」の札をかけた。

 翔は、その札を見つめながら、昨夜の庭の蛇口の音を思い出していた。

 自分の家にも、誰かが「廃車」の札をかけようとしているのではないか。

 そんな恐怖が、背筋を凍らせた。



---



 五月の連休が、足音を立てて近づいていた。

 本来なら、家族で旅行に行ったり、庭でバーベキューを楽しんだりするはずの季節。

 だが、今の佐藤家には、そんな計画の欠片も存在しない。


 スマホが震えた。

 寮生活を送る妹、咲からのメールだった。


『お兄ちゃん、元気?

 こっちはワークショップが忙しくて大変。でも、すごく充実してるよ。家の庭、今はラベンダーが綺麗に咲いてる頃かな? 写真送ってよ!』


 画面に映る、無邪気で、何も知らない妹の言葉。

 翔は、返信を打とうとして、指が止まった。


 送れるわけがなかった。

 今の庭の惨状を。

 スギナに飲み込まれたラベンダー。

 腐敗した土の匂い。

 そして、食卓で一度も目を合わせない両親の姿。


(咲には、まだ知らせたくない)


 咲は、美和との約束を守り、新しい場所で自分の足で立とうとしている。

 そんな彼女の「新しい庭」を、この家の泥沼で汚したくはない。


 だが、自分一人の胸に留めておくには、この庭の死はあまりに重すぎた。

 翔は自室に籠り、新しく買ったばかりの、自分専用の工具セットを広げた。

 陽介の庭が荒れていくなら、自分は自分の聖域を守るしかない。


 自分のロードバイクのチェーンを一コマずつ、念入りに清掃する。

 金属の輝きを取り戻すことで、自分の心の中にある「歪み」を修正しようとする、必死の儀式。


 家族を救えないなら、せめて自分の足元の境界線だけは死守する。

 それは、家族を救うことを半分諦め、自分一人の「自立」へと舵を切る、悲しくも力強い決意だった。


(……ごめん、咲。今は、何も送れない)


 翔はスマホを放り出し、再び黒いグリスのついたウエスを握り締めた。



---



 深夜。

 強い風が吹き荒れ、庭の木々が窓ガラスに不気味な影を落としていた。

 スギナやドクダミが風に揺れ、まるで見えない怪物が家を包囲しているかのような錯覚に陥る。


 翔はベッドの中で、息を潜めていた。

 階下から、微かな物音が聞こえる。

 それは、陽介の寝室から漏れ聞こえる、押し殺したような呻き声だった。

 悪夢を見ているのか。

 それとも、現実という名の巨大な重圧に、寝ている間も押し潰されているのか。


(お父さん……)


 その声は、もはやかつての頼りがいのある「庭の主人」の声ではなかった。

 それは、救いを求める、溺れる者の声だった。


 翔は、暗闇の中でスマホを握りしめた。

 アドレス帳、咲の名前を呼び出す。送信トレイの未送信フォルダには、書きかけのメッセージが残っていた。


『庭が、死にそうだ。家も、壊れるかもしれない』


 その一文を入力し、送信ボタンに親指を添える。

 だが、押せなかった。

 これを送ってしまえば、もう二度と「かつての幸せな佐藤家」には戻れない。

 そんな確信が、翔を躊躇させた。


 風が窓を叩く。ひび割れたような音が、静かな寝室に響き渡った。

 翔は、スマホの画面を消し、布団を頭から被った。

 明日は、五月の大型連休が始まる。

 その連休が明ける頃、自分たちの家がどうなっているのか。

 それを想像するだけで、翔の指先は、冷たい油に浸した時のように、感覚を失っていった。


 佐藤家の「庭」の本当の地獄は、ここから始まろうとしていた。

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