表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
42歳のすみかは庭になりました  作者:
第2部 第3章「それぞれの2ヶ月〜翔の章〜」

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

112/126

職人の壁、少年の汗

 四月上旬。

 校門を潜ると、風に乗って散りゆく桜の花びらが、湿ったアスファルトにべったりと張り付いていた。

 昨日までの「春の主役」だった花たちは、今や歩行者に踏みにじられ、茶色く変色したゴミへと変わり果てている。その無惨な光景が、今の翔には自分の姿を映し出す鏡のように思えた。


 高校三年生としての新学期が始まって、わずか数日。教室の空気は、これまでとは一変していた。

 休み時間の話題は、どこの予備校がいいだの、模試の判定がどうだのといった「受験」の話題に独占されている。


 教卓に置かれた進路希望調査票。

 翔はその「第一志望」の欄に、迷うことなく『就職(メカニック志望)』と書き込んだ。

 その瞬間、周囲の友人たちが遠い存在に感じられた。

 彼らがこれから目指そうとしている「キャンパス」という名の明るい場所と、自分が向かおうとしている「油に塗れた作業場」の間に、底知れない深い川が流れ始めたような浮遊感があった。


「翔、本気かよ。せめて専門学校とか行けばいいのに」


 友人の一人が、同情とも嘲りともつかない表情でそう言った。

 翔は答えず、ただ無言でカバンを肩に担いだ。

 制服のまま自転車を飛ばし、街の外れのサイクルショップ・カジワラへと向かう。


 店の前に着くと、鼻を突くのは春の匂いではなく、重厚な油と使い古されたゴムの、あの「現実の匂い」だ。

 店の裏口で、使い古された紺色の作業着に着替える。

 朝、母が畳んでくれたシャツからは、石鹸の柔らかな匂いがした。だが、作業着の袖に腕を通した瞬間、その繊細な匂いは一瞬にして消え、代わりに鉄の錆とグリスの重い匂いが鼻腔を支配する。


(ここが、俺の選んだ場所だ)


 翔は作業着の胸元をぐっと握り、自らを律するように呟いた。

 高校三年生、十七歳。

 「生徒」という安全な温室を脱ぎ捨て、「労働者」という名の荒野へ一歩を踏み出した自覚が、背筋を冷たく通り抜けていった。



---



 アルバイト初日から一週間。

 翔に与えられた仕事は、期待していたような「整備」では全くなかった。

 彼の手にあるのは、高価なトルクレンチでも精巧なドライバーでもなく、バケツ一杯の洗剤水と、使い古された亀の子束子たわしだった。


「いいか。今日預かった五台、全部洗え。一台でも泥が残ってたら、明日から来なくていい」


 梶原はそう吐き捨てると、自らは奥の作業台で、常連客のヴィンテージロードバイクのオーバーホールに取り掛かった。


 翔の目の前に並べられたのは、お世辞にも「愛されている」とは言い難い、ボロボロのシティサイクル——いわゆるママチャリたちだった。

 チェーンは赤錆が浮き、スポークには得体の知れない泥と油の塊がこびりついている。前カゴにはいつのものか分からない広告のゴミが張り付き、ハンドルには劣化したビニールテープがベタベタと残っていた。


(……俺は、これを洗うためにここに来たのか?)


 胸の奥に、澱のような不満が溜まっていく。

 自転車が好きだった。

 風を切って走る感覚。精緻なメカニズムが噛み合い、自分の力が効率よく推進力に変わる快感。

 だが、ここで扱われているのは、そんな「理想」とは程遠い、使い潰された道具の残骸だ。


 翔は、冷たい水に手を浸した。

 スポンジを泡立て、フレームの泥を落としていく。

 だが、長年放置された汚れは執拗だった。束子で擦っても、油まみれの泥は頑固に金属に食いついている。

 爪の間に泥が入り込み、水でふやけた指先が痛む。


 三十分かけて一台を洗い終え、翔は腰を伸ばした。

 見た目は随分と綺麗になった。これなら文句は言われないだろう。

 そう思った瞬間、背後に梶原が立っていた。


「終わりました」


 梶原は何も言わず、無造作に自転車を裏返しにした。

 そして、ブレーキアーチの裏側を、煤けた指でなぞった。


「……やり直せ」

「えっ? でも、表面はピカピカに……」

「お前は、この自転車で坂道を下れるのか?」


 梶原の低い声が、地面を這うように響いた。


「ブレーキの裏、ワイヤーの結合部。そこに泥が残っていれば、腐食が隠れる。ボルトの緩みも見落とす。

 お前が洗っているのは『商品』じゃない。客の命だ。そこに汚れを残す奴は、いつか客を殺す」


 梶原の言葉は、翔の甘い「好き」という感情を、容赦なく粉砕した。

 仕事とは、輝かしい瞬間を支えるための、果てしない泥臭い準備の積み重ねなのだ。


 翔は再び、冷たい水の中に手を突っ込んだ。

 次は、さっきよりも低く、深く。

 金属の裏側にある「暗闇」を見つめるように、束子を動かし続けた。



---



 四月中旬の土曜日。

 店主の梶原が、珍しく部品の買い出しで一時間ほど店を空けた。


「留守番だ。電話に出るな。客が来ても『店主は不在です』とだけ言え」


 梶原の言葉を守り、翔は店の入り口付近で掃除を続けていた。

 そこへ、一人の男が血相を変えて飛び込んできた。


「おい! パンクだ! 急いでくれ、これから大事な約束があるんだ!」


 男が差し出したのは、かなり使い込まれたクロスバイクだった。


「あ……すみません、今は主人が不在で……一時間ほどで戻ります」


「一時間!? そんなの待てるかよ! お前、ここのバイトだろ? パンク修理くらいできるだろ!」


 男の剣幕に、翔は気圧された。

 パンク修理。それは、自転車部に入ってから、自分自身で何百回とやってきた基本中の基本だ。

 梶原には「触るな」と言われている。だが、目の前で困っている客を追い返していいのか? 自分がここで鮮やかに修理して見せれば、梶原だって自分の実力を認めてくれるのではないか。


「……わかりました。やってみます」


 その一言が、地獄への入り口だった。

 翔は客の視線を背中に感じながら、前輪のタイヤを外した。


「本当に大丈夫か? 随分と手が震えてるぞ。学生のバイトか?」


 客の言葉が、針のように心を刺す。


(大丈夫だ。いつも通りやれば……)


 自分に言い聞かせるほど、指先から感覚が消えていく。

 バルブを固定する小さなナットを取り外す際、不注意にもそれを地面に落としてしまった。


「チッ……」


 客の舌打ち。焦りが翔の判断力を狂わせる。

 新しいチューブを入れ、バルブを穴に通す。

 その時、バルブを固定するナットを締めようとして、指先に「グニュリ」とした嫌な手応えがあった。

 ネジ山を斜めに噛ませてしまった。


「……あっ」


 微かな違和感。だが、今さらやり直す勇気がなかった。そのまま力任せに回せば、見た目は固定されるはずだ。

 翔は、その違和感に蓋をした。

 その時、背後のドアが開いた。

 梶原が戻ってきたのだ。


「……何をしている」


 梶原の低く、地鳴りのような声。

 客が待ってましたとばかりに声を上げた。


「おい、親父さん! このガキに任せたら、さっきからモタモタしててよ。大丈夫なのか?」


 梶原は無言で歩み寄り、翔の手からレンチを奪い取った。

 そして、翔が今しがた締めたナットを一瞥した。


「手を離せ」


 梶原は、斜めに食い込んだナットをペンチで引き剥がした。

 ネジ山は無惨に潰れていた。


「……すみません、急ぎのお客さんだったので……」


「黙れ。お前は今、嘘をついた。自分の技術不足を、客の『急ぎ』という言葉で誤魔化した。ネジの一つも真っ直ぐ締められない素人に、客の道具を触る資格はない」


 梶原は客に向き直り、深く頭を下げた。


「申し訳ありません。この素人が、お預かりした道具に傷をつけました。弁償し、すぐさま別の者がやり直します」

「……素人って……」


 客は、翔をゴミを見るような目で見据えた。


「二度と来るかよ。ちゃんと教育しとけよ、親父さん」


 客が吐き捨てるようにして去った後、店内に重苦しい沈黙が降りた。

 翔は、砕け散った自尊心の欠片をかき集めることもできず、ただコンクリートの床を見つめていた。


 自分が誇りに思っていた「自転車の知識」も「愛」も、プロの世界では何の盾にもならない。

 自分はただの「素人」なのだ。

 その残酷な事実が、頬を叩かれたような衝撃を伴って翔を打ちのめした。



---



 二十一時。

 疲労困憊して帰宅した翔を待っていたのは、かつての団欒とは程遠い、沈滞したリビングの空気だった。

 テーブルの上には、冷めた味噌汁とラップのかかった焼き魚が置かれている。


 ソファには、父・陽介が座っていた。

 今日はいつもよりも少し早く帰ったようだった。彼は人事部への異動を終えてからというもの、目に見えて表情から生気が失われていた。

 新聞を読んでいるようだが、その瞳は文字を追っていない。一点を見つめたまま、微塵も動かない。


(父さんも、戦っているんだな……)


 陽介の戦場は「人間関係」という、ネジのように締め直すことができない曖昧な世界だ。

 かつては「余白」を説き、部下たちを優雅に率いていた父が、今は組織という巨大な歯車に挟まれ、悲鳴を上げている。


「……おかえり、翔。バイト、どうだ」


 陽介が、ゆっくりと首をこちらに向けた。その動きは、まるで油の切れた古い機械のようだった。


「別に。普通だよ」


 翔は、今日自分が味わった屈辱を、父に話すことはできなかった。

 自分もまた、一人の戦士として「泥」の中にいるのだというプライドが、弱音を吐くことを許さなかった。


「そうか。……無理はするなよ」


 陽介の言葉は優しかったが、今の翔には、それがどこか遠くから届く、自分を気遣う余裕さえない者の言葉に聞こえた。


 キッチンからは、美和の物音が聞こえてくる。

 だが、その音もどこか不自然だった。包丁がまな板を叩くリズムが、以前よりも早くて鋭い。

 美和もまた、この家の中の不穏な空気を察し、自分の感情を「家事」という作業の中に閉じ込めているようだった。


 家族の誰もが、自分の傷口を家族に見せないように、必死で「日常」の仮面を被っている。

 だが、その仮面が厚くなればなるほど、家族の間に流れる空気は希薄になり、息苦しさが増していく。


 同じ屋根の下に暮らしながら、一人ひとりが別々の深い穴に落ち、自分一人の力で這い上がろうとしている。


 翔は、冷えた夕食を黙々と口に運んだ。

 魚の塩気さえ、今の自分には「プロ失格」という罰の味に思えた。



---



 家族が寝静まった深夜。

 翔は自室で、再び新聞紙を広げた。

 そこには、一週間前と同じように、解体された自分のロードバイクがある。


 だが、今夜の翔は、ただ綺麗にするために磨いているのではなかった。

 右手に持った、小さなM5の六角ボルト。それを、フレームのダボ穴に差し込む。


(真っ直ぐ。一ミリの狂いもなく。ネジ山が吸い付く感覚を探せ)


 指先に全ての神経を集中させる。

 梶原に言われた言葉が、呪文のように脳内で繰り返される。


『自転車は嘘をつかない』


 人間は言葉で自分を飾り、嘘をつき、失敗を誤魔化すことができる。

 だが、この鉄の塊は、締め方が甘ければ必ず緩み、角度が違えば必ずかじりつく。

 物理の法則は、誰に対しても平等で、冷酷で、そして誠実だ。


「……っ」


 指先のマメが潰れ、そこから体液が滲み出す。

 昼間の作業でふやけた皮膚が、金属の冷たさに触れて鋭く痛む。

 だが、翔はその痛みを歓迎した。

 この痛みこそが、自分が「素人」から脱皮するための、通過儀礼のように思えたからだ。


 何度もネジを締め、そして緩める。

 ボルトが穴に噛み合う瞬間の、あの微かな「コトッ」という感触。

 それを、指先の皮膚そのものが記憶するまで、何百回、何千回と繰り返す。


 自分がこれまで「自転車が好きだ」と言っていたのは、単に「美しく塗装された完成品」が好きだったに過ぎない。

 その中にある、数千、数万のパーツの集合体としての、冷徹な「機械」の顔を知ろうともしなかった。


(俺は、もっと深くへ行きたい。父さんの知らない、言葉の届かない場所へ)


 陽介が「言葉」を武器に戦うなら、自分は「手」を武器に戦う。

 それが、自分が選んだ自立の形なのだ。

 夜が明けるまで、翔は一人、自分の愛車と向き合い続けた。



---



 翌朝。

 四月の冷たい朝露が、庭の草木を濡らしていた。


 翔は登校前、ふと縁側に立ち、自分の両手を見つめた。

 指先は黒く汚れ、爪の間の泥はもう石鹸では落ちなくなっている。手のひらのマメは硬くなり、十七歳の少年が持つにはあまりに武骨な、働く男の手へと変わりつつあった。


 ふと視線を落とすと、庭の片隅に、昨日はなかった雑草の芽が、さらに勢いを増して伸びているのが見えた。

 陽介が愛していたハーブたちの隙間を縫うように、スギナの緑が這い出している。


 かつてなら、この時間の陽介は、コーヒー片手に庭を歩き回り、そんな小さな異変さえ見逃さなかったはずだ。

 だが、今のリビングに、父の姿はない。陽介は、寝室で深い泥のような眠りに沈んでいる。


「……お父さん」


 翔は、自分の胸の中に、熱い塊が込み上げてくるのを感じた。

 家が壊れかけている。

 自分を育んでくれた「温室」が、音もなく崩れ始めている。

 そして、自分はまだ、それを直すための工具を持っていない。


(俺が、強くならないと)


 今の自分にできるのは、自転車を洗うことだけだ。

 泥にまみれた金属を、本来の輝きに戻すことだけだ。

 いつか、この家の崩壊を食い止め、再び「余白」のある生活を取り戻すために。


 翔は、油の匂いの染み付いた制服のジャケットを羽織った。

 玄関へ向かう足取りに、昨日までの迷いはない。


「いってきます」


 その声は、家族の誰にも届かなかったかもしれない。

 だが、朝露に濡れた庭の植物たちだけは、少年の決意の重さを知っているかのように、微かに揺れた。

 四月の空は、どこまでも高く、青い。

 だが、翔の視線は、その青さではなく、足元の泥だらけの現実だけを、しっかりと見つめていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ