職人の壁、少年の汗
四月上旬。
校門を潜ると、風に乗って散りゆく桜の花びらが、湿ったアスファルトにべったりと張り付いていた。
昨日までの「春の主役」だった花たちは、今や歩行者に踏みにじられ、茶色く変色したゴミへと変わり果てている。その無惨な光景が、今の翔には自分の姿を映し出す鏡のように思えた。
高校三年生としての新学期が始まって、わずか数日。教室の空気は、これまでとは一変していた。
休み時間の話題は、どこの予備校がいいだの、模試の判定がどうだのといった「受験」の話題に独占されている。
教卓に置かれた進路希望調査票。
翔はその「第一志望」の欄に、迷うことなく『就職(メカニック志望)』と書き込んだ。
その瞬間、周囲の友人たちが遠い存在に感じられた。
彼らがこれから目指そうとしている「キャンパス」という名の明るい場所と、自分が向かおうとしている「油に塗れた作業場」の間に、底知れない深い川が流れ始めたような浮遊感があった。
「翔、本気かよ。せめて専門学校とか行けばいいのに」
友人の一人が、同情とも嘲りともつかない表情でそう言った。
翔は答えず、ただ無言でカバンを肩に担いだ。
制服のまま自転車を飛ばし、街の外れのサイクルショップ・カジワラへと向かう。
店の前に着くと、鼻を突くのは春の匂いではなく、重厚な油と使い古されたゴムの、あの「現実の匂い」だ。
店の裏口で、使い古された紺色の作業着に着替える。
朝、母が畳んでくれたシャツからは、石鹸の柔らかな匂いがした。だが、作業着の袖に腕を通した瞬間、その繊細な匂いは一瞬にして消え、代わりに鉄の錆とグリスの重い匂いが鼻腔を支配する。
(ここが、俺の選んだ場所だ)
翔は作業着の胸元をぐっと握り、自らを律するように呟いた。
高校三年生、十七歳。
「生徒」という安全な温室を脱ぎ捨て、「労働者」という名の荒野へ一歩を踏み出した自覚が、背筋を冷たく通り抜けていった。
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アルバイト初日から一週間。
翔に与えられた仕事は、期待していたような「整備」では全くなかった。
彼の手にあるのは、高価なトルクレンチでも精巧なドライバーでもなく、バケツ一杯の洗剤水と、使い古された亀の子束子だった。
「いいか。今日預かった五台、全部洗え。一台でも泥が残ってたら、明日から来なくていい」
梶原はそう吐き捨てると、自らは奥の作業台で、常連客のヴィンテージロードバイクのオーバーホールに取り掛かった。
翔の目の前に並べられたのは、お世辞にも「愛されている」とは言い難い、ボロボロのシティサイクル——いわゆるママチャリたちだった。
チェーンは赤錆が浮き、スポークには得体の知れない泥と油の塊がこびりついている。前カゴにはいつのものか分からない広告のゴミが張り付き、ハンドルには劣化したビニールテープがベタベタと残っていた。
(……俺は、これを洗うためにここに来たのか?)
胸の奥に、澱のような不満が溜まっていく。
自転車が好きだった。
風を切って走る感覚。精緻なメカニズムが噛み合い、自分の力が効率よく推進力に変わる快感。
だが、ここで扱われているのは、そんな「理想」とは程遠い、使い潰された道具の残骸だ。
翔は、冷たい水に手を浸した。
スポンジを泡立て、フレームの泥を落としていく。
だが、長年放置された汚れは執拗だった。束子で擦っても、油まみれの泥は頑固に金属に食いついている。
爪の間に泥が入り込み、水でふやけた指先が痛む。
三十分かけて一台を洗い終え、翔は腰を伸ばした。
見た目は随分と綺麗になった。これなら文句は言われないだろう。
そう思った瞬間、背後に梶原が立っていた。
「終わりました」
梶原は何も言わず、無造作に自転車を裏返しにした。
そして、ブレーキアーチの裏側を、煤けた指でなぞった。
「……やり直せ」
「えっ? でも、表面はピカピカに……」
「お前は、この自転車で坂道を下れるのか?」
梶原の低い声が、地面を這うように響いた。
「ブレーキの裏、ワイヤーの結合部。そこに泥が残っていれば、腐食が隠れる。ボルトの緩みも見落とす。
お前が洗っているのは『商品』じゃない。客の命だ。そこに汚れを残す奴は、いつか客を殺す」
梶原の言葉は、翔の甘い「好き」という感情を、容赦なく粉砕した。
仕事とは、輝かしい瞬間を支えるための、果てしない泥臭い準備の積み重ねなのだ。
翔は再び、冷たい水の中に手を突っ込んだ。
次は、さっきよりも低く、深く。
金属の裏側にある「暗闇」を見つめるように、束子を動かし続けた。
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四月中旬の土曜日。
店主の梶原が、珍しく部品の買い出しで一時間ほど店を空けた。
「留守番だ。電話に出るな。客が来ても『店主は不在です』とだけ言え」
梶原の言葉を守り、翔は店の入り口付近で掃除を続けていた。
そこへ、一人の男が血相を変えて飛び込んできた。
「おい! パンクだ! 急いでくれ、これから大事な約束があるんだ!」
男が差し出したのは、かなり使い込まれたクロスバイクだった。
「あ……すみません、今は主人が不在で……一時間ほどで戻ります」
「一時間!? そんなの待てるかよ! お前、ここのバイトだろ? パンク修理くらいできるだろ!」
男の剣幕に、翔は気圧された。
パンク修理。それは、自転車部に入ってから、自分自身で何百回とやってきた基本中の基本だ。
梶原には「触るな」と言われている。だが、目の前で困っている客を追い返していいのか? 自分がここで鮮やかに修理して見せれば、梶原だって自分の実力を認めてくれるのではないか。
「……わかりました。やってみます」
その一言が、地獄への入り口だった。
翔は客の視線を背中に感じながら、前輪のタイヤを外した。
「本当に大丈夫か? 随分と手が震えてるぞ。学生のバイトか?」
客の言葉が、針のように心を刺す。
(大丈夫だ。いつも通りやれば……)
自分に言い聞かせるほど、指先から感覚が消えていく。
バルブを固定する小さなナットを取り外す際、不注意にもそれを地面に落としてしまった。
「チッ……」
客の舌打ち。焦りが翔の判断力を狂わせる。
新しいチューブを入れ、バルブを穴に通す。
その時、バルブを固定するナットを締めようとして、指先に「グニュリ」とした嫌な手応えがあった。
ネジ山を斜めに噛ませてしまった。
「……あっ」
微かな違和感。だが、今さらやり直す勇気がなかった。そのまま力任せに回せば、見た目は固定されるはずだ。
翔は、その違和感に蓋をした。
その時、背後のドアが開いた。
梶原が戻ってきたのだ。
「……何をしている」
梶原の低く、地鳴りのような声。
客が待ってましたとばかりに声を上げた。
「おい、親父さん! このガキに任せたら、さっきからモタモタしててよ。大丈夫なのか?」
梶原は無言で歩み寄り、翔の手からレンチを奪い取った。
そして、翔が今しがた締めたナットを一瞥した。
「手を離せ」
梶原は、斜めに食い込んだナットをペンチで引き剥がした。
ネジ山は無惨に潰れていた。
「……すみません、急ぎのお客さんだったので……」
「黙れ。お前は今、嘘をついた。自分の技術不足を、客の『急ぎ』という言葉で誤魔化した。ネジの一つも真っ直ぐ締められない素人に、客の道具を触る資格はない」
梶原は客に向き直り、深く頭を下げた。
「申し訳ありません。この素人が、お預かりした道具に傷をつけました。弁償し、すぐさま別の者がやり直します」
「……素人って……」
客は、翔をゴミを見るような目で見据えた。
「二度と来るかよ。ちゃんと教育しとけよ、親父さん」
客が吐き捨てるようにして去った後、店内に重苦しい沈黙が降りた。
翔は、砕け散った自尊心の欠片をかき集めることもできず、ただコンクリートの床を見つめていた。
自分が誇りに思っていた「自転車の知識」も「愛」も、プロの世界では何の盾にもならない。
自分はただの「素人」なのだ。
その残酷な事実が、頬を叩かれたような衝撃を伴って翔を打ちのめした。
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二十一時。
疲労困憊して帰宅した翔を待っていたのは、かつての団欒とは程遠い、沈滞したリビングの空気だった。
テーブルの上には、冷めた味噌汁とラップのかかった焼き魚が置かれている。
ソファには、父・陽介が座っていた。
今日はいつもよりも少し早く帰ったようだった。彼は人事部への異動を終えてからというもの、目に見えて表情から生気が失われていた。
新聞を読んでいるようだが、その瞳は文字を追っていない。一点を見つめたまま、微塵も動かない。
(父さんも、戦っているんだな……)
陽介の戦場は「人間関係」という、ネジのように締め直すことができない曖昧な世界だ。
かつては「余白」を説き、部下たちを優雅に率いていた父が、今は組織という巨大な歯車に挟まれ、悲鳴を上げている。
「……おかえり、翔。バイト、どうだ」
陽介が、ゆっくりと首をこちらに向けた。その動きは、まるで油の切れた古い機械のようだった。
「別に。普通だよ」
翔は、今日自分が味わった屈辱を、父に話すことはできなかった。
自分もまた、一人の戦士として「泥」の中にいるのだというプライドが、弱音を吐くことを許さなかった。
「そうか。……無理はするなよ」
陽介の言葉は優しかったが、今の翔には、それがどこか遠くから届く、自分を気遣う余裕さえない者の言葉に聞こえた。
キッチンからは、美和の物音が聞こえてくる。
だが、その音もどこか不自然だった。包丁がまな板を叩くリズムが、以前よりも早くて鋭い。
美和もまた、この家の中の不穏な空気を察し、自分の感情を「家事」という作業の中に閉じ込めているようだった。
家族の誰もが、自分の傷口を家族に見せないように、必死で「日常」の仮面を被っている。
だが、その仮面が厚くなればなるほど、家族の間に流れる空気は希薄になり、息苦しさが増していく。
同じ屋根の下に暮らしながら、一人ひとりが別々の深い穴に落ち、自分一人の力で這い上がろうとしている。
翔は、冷えた夕食を黙々と口に運んだ。
魚の塩気さえ、今の自分には「プロ失格」という罰の味に思えた。
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家族が寝静まった深夜。
翔は自室で、再び新聞紙を広げた。
そこには、一週間前と同じように、解体された自分のロードバイクがある。
だが、今夜の翔は、ただ綺麗にするために磨いているのではなかった。
右手に持った、小さなM5の六角ボルト。それを、フレームのダボ穴に差し込む。
(真っ直ぐ。一ミリの狂いもなく。ネジ山が吸い付く感覚を探せ)
指先に全ての神経を集中させる。
梶原に言われた言葉が、呪文のように脳内で繰り返される。
『自転車は嘘をつかない』
人間は言葉で自分を飾り、嘘をつき、失敗を誤魔化すことができる。
だが、この鉄の塊は、締め方が甘ければ必ず緩み、角度が違えば必ず齧りつく。
物理の法則は、誰に対しても平等で、冷酷で、そして誠実だ。
「……っ」
指先のマメが潰れ、そこから体液が滲み出す。
昼間の作業でふやけた皮膚が、金属の冷たさに触れて鋭く痛む。
だが、翔はその痛みを歓迎した。
この痛みこそが、自分が「素人」から脱皮するための、通過儀礼のように思えたからだ。
何度もネジを締め、そして緩める。
ボルトが穴に噛み合う瞬間の、あの微かな「コトッ」という感触。
それを、指先の皮膚そのものが記憶するまで、何百回、何千回と繰り返す。
自分がこれまで「自転車が好きだ」と言っていたのは、単に「美しく塗装された完成品」が好きだったに過ぎない。
その中にある、数千、数万のパーツの集合体としての、冷徹な「機械」の顔を知ろうともしなかった。
(俺は、もっと深くへ行きたい。父さんの知らない、言葉の届かない場所へ)
陽介が「言葉」を武器に戦うなら、自分は「手」を武器に戦う。
それが、自分が選んだ自立の形なのだ。
夜が明けるまで、翔は一人、自分の愛車と向き合い続けた。
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翌朝。
四月の冷たい朝露が、庭の草木を濡らしていた。
翔は登校前、ふと縁側に立ち、自分の両手を見つめた。
指先は黒く汚れ、爪の間の泥はもう石鹸では落ちなくなっている。手のひらのマメは硬くなり、十七歳の少年が持つにはあまりに武骨な、働く男の手へと変わりつつあった。
ふと視線を落とすと、庭の片隅に、昨日はなかった雑草の芽が、さらに勢いを増して伸びているのが見えた。
陽介が愛していたハーブたちの隙間を縫うように、スギナの緑が這い出している。
かつてなら、この時間の陽介は、コーヒー片手に庭を歩き回り、そんな小さな異変さえ見逃さなかったはずだ。
だが、今のリビングに、父の姿はない。陽介は、寝室で深い泥のような眠りに沈んでいる。
「……お父さん」
翔は、自分の胸の中に、熱い塊が込み上げてくるのを感じた。
家が壊れかけている。
自分を育んでくれた「温室」が、音もなく崩れ始めている。
そして、自分はまだ、それを直すための工具を持っていない。
(俺が、強くならないと)
今の自分にできるのは、自転車を洗うことだけだ。
泥にまみれた金属を、本来の輝きに戻すことだけだ。
いつか、この家の崩壊を食い止め、再び「余白」のある生活を取り戻すために。
翔は、油の匂いの染み付いた制服のジャケットを羽織った。
玄関へ向かう足取りに、昨日までの迷いはない。
「いってきます」
その声は、家族の誰にも届かなかったかもしれない。
だが、朝露に濡れた庭の植物たちだけは、少年の決意の重さを知っているかのように、微かに揺れた。
四月の空は、どこまでも高く、青い。
だが、翔の視線は、その青さではなく、足元の泥だらけの現実だけを、しっかりと見つめていた。




