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42歳のすみかは庭になりました  作者:
第2部 第3章「それぞれの2ヶ月〜翔の章〜」

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油まみれの約束

 三月末の午後の光は、どこか白々としていた。

 春休み。本来ならば、新しい学年への期待に胸を膨らませるべき時期だが、佐藤翔の自室は、真空パックされたかのような重苦しい静寂に包まれていた。


 翔は、部屋の床に敷き詰めた古新聞の上に座り込んでいた。

 そこには、彼の愛車であるロードバイクが、無残なほどにバラバラに解体されて横たわっている。

 フレーム、ホイール、ディレイラー、チェーン。それら一つ一つのパーツを、彼は先ほどから何度もパーツクリーナーで拭き続けていた。


 窓を開けているというのに、部屋にはケミカルな揮発臭と、古いグリスの重い匂いが滞留している。

 だが、この金属の匂いだけが、今の翔にとっては唯一の救いだった。


(……「自分の足で立ちたい」なんて、よくもあんな格好いいことが言えたもんだな)


 数日前、父・陽介に啖呵を切った時の自分の声を思い出す。

 あの時、胸の奥で燃えていた熱量は、言葉にして放った瞬間に霧散してしまった。あとに残されたのは、具体的な裏付けも、実績も、一円を稼ぐ能力さえない「ただの十七歳」という空虚な事実だけだった。


 陽介はまもなく、会社で新しい役職に就こうとしている。

 家の中の空気が、ここ数日で明らかに変わった。父の背中はどこか強張っており、母の瞳には薄い膜のような不安が張り付いている。


 翔はその変化を敏感に察しながらも、何も聞くことができなかった。

 父を助けることも、母を安心させることもできない。自分にできるのは、ただ自分の自転車を、狂ったように磨き上げることだけだった。


 指先に残るグリスのぬめり。それは、父が愛する「庭」の土の感触とは、決定的に違っていた。

 土は生命を育むが、油は摩耗を防ぐ。

 今の自分に必要なのは、成長という眩しい言葉ではなく、現実という摩擦に耐えうる「油」の方ではないか。


 翔は汚れたウエスを放り出し、立ち上がった。



---



 コンビニで購入した履歴書を机に広げた。


 「学歴・職歴」の欄。

 中学校卒業。高校入学。

 ……そこから下が、真っ白だった。


 ペンを持つ手が微かに震える。

 これまで、自分を定義してくれたのは「佐藤家の長男」であり「高校の自転車部員」という肩書きだった。

 だが、その鎧を脱ぎ捨てて一人の男として社会の窓を叩こうとしたとき、自分がいかに薄っぺらな存在であるかを突きつけられる。


 「資格・特許」の欄。

 英検三級。そんなものが、メカニックの世界で何の役に立つというのか。

 自分の指先が覚えている、ネジの締め具合の感覚。

 音だけでチェーンの伸びを察知する聴覚。

 それらを証明する言葉を、翔は持っていなかった。


 鏡に映る自分の顔を睨みつける。

 まだ幼さの残る頬、細い首筋。

 陽介のような、酸いも甘いも噛み分けた「大人の顔」にはほど遠い。

 だが、その憧れの対象であるはずの陽介の顔が、最近、ひび割れた陶器のように脆く見えてしまうのはなぜだろうか。


 父の戦場は「組織」という名の目に見えない巨大な怪物だ。

 ならば、自分の戦場は「物質」という名の嘘をつかない世界にしたい。

 翔は、震えるペン先を押し付けた。


 志望動機。

 「自転車が好きだから」という子供じみた言葉を何度も書き直し、最後には一言だけ書いた。


『本物の技術を、この手に叩き込みたいからです』


 それは、履歴書という名の、自分自身への果たし状だった。



---



 家から自転車で二十分。

 街の境界線、住宅街が途切れ、古い工場が立ち並ぶエリアに、その店はある。


 「サイクルショップ・カジワラ」


 色褪せた緑色の看板には、昭和の面影が色濃く残っている。

 最新のカーボンバイクをショーウィンドウに飾るような洒落た店ではない。

 軒先には、泥除けのひしゃげたママチャリや、長年乗り込まれて傷だらけになったクロモリのロードバイクが、無造作に並んでいる。

 だが、その乱雑さの中には、不思議と「現役の道具」だけが持つ、独特の静謐な迫力があった。


 翔は、店の前で何度も深呼吸を繰り返した。

 この店の主、梶原は、近隣の自転車乗りの間では「頑固者」として知られていた。腕は超一流だが、手入れの悪い客には説教を食らわせ、気に入らない仕事は平気で断る。

 翔もかつて、部活の遠征前に無理な調整を頼み込み、「道具を泣かせるな」と一喝されたことがある。


(あのおっさんのところに行くのか……?)


 足がすくむ。だが、ここしかないと思った。

 美しくディスプレイされた都会のショップではなく、この油とゴムの匂いが染みついた、嘘のつけない場所で。


「……ごめんください」


 引き戸を開けると、カウベルが低く鳴った。

 店内は、外の春の陽気が嘘のようにひんやりとしていた。天井からは数え切れないほどのタイヤが吊り下げられ、壁一面には磨き抜かれた工具が、外科医のメスのように整然と並んでいる。


 奥の作業台で、一人の男が背を丸めていた。

 梶原正造、六十五歳。

 深い皺の刻まれた手は、黒い油が皮膚の一部になったかのように染み付いている。

 彼は翔の方を見ようともせず、手元のハブベアリングをピンセットで一つずつ調整していた。


「……なんだ。修理ならそこに置いとけ。一週間かかるぞ」

「修理じゃ、ありません」


 翔は、自分の声が裏返りそうになるのを必死で抑えた。


「アルバイトを、させてください。ここで、働きたいんです」


 梶原の手が、ぴたりと止まった。

 ゆっくりと顔を上げたその眼差しは、獲物を見極める鷹のように鋭かった。

 陽介のような、相手を包み込むような柔らかな「ビジネスの視線」ではない。

 相手が「本物か、偽物か」を瞬時に切り分ける、職人の視線だった。


「高校生か。うちはお遊びの場所じゃない。手が汚れるのが嫌なら、今すぐ帰りな。向かいのコンビニなら、もっと楽に稼げるぞ」

「手なら、いくらでも汚します」


 翔は、自分の両手を梶原の前に突き出した。

 昨夜、一生懸命洗ったつもりだったが、爪の間にはまだ黒いグリスの跡が残っている。


「父と、約束したんです。自分の足で立つって。だから、本物の技術を学びたいんです」


 梶原はフンと鼻を鳴らし、再び手元の作業に戻った。


「親との約束か。くだらん。……だが、口だけじゃないところを見せてみろ」


 梶原は立ち上がり、店の隅に置かれた一台の通学自転車を引きずり出してきた。それは、長年雨ざらしにされていたのか、スポークは錆び、タイヤはひび割れ、泥にまみれていた。


「タイヤの前後を入れ替えろ。五分だ。工具はそこにあるのを使え」

「え……五分、ですか?」

「四分五十秒になったぞ」


 梶原は壁の時計も、ストップウォッチも出さない。ただ、自分の作業台に戻り、黙々と別の作業を再開した。

 だが、その背中が「見ていないふりをして、すべてを測っている」ことを、翔は本能的に察知した。


 翔の視界が、急激に狭まった。

 心臓の鼓動が耳元でうるさく鳴り響く。

 普段、自分のロードバイクを整備するのとは訳が違う。クイックリリースなどついていない、実用車のハブナット。錆びついて固着したボルト。

 一つ一つの工程に、自分以外の「誰かの安全」を預かるという、物理的な質量を伴った重みがのしかかる。


「……っ」


 焦りから、十五ミリのスパナをコンクリートの床に落としてしまった。

 カァン、という高い金属音が、静かな店内に響き渡る。

 梶原の肩が微かに動いた。


(ダメだ。失敗した。父さんなら、もっとスマートに……)


 頭の中に、完璧主義の父の顔が浮かぶ。陽介なら、こんな醜態は晒さないだろう。常にスマートに、最適な言葉と振る舞いで、相手の信頼を勝ち取るはずだ。

 だが、今の自分には、そんな余裕も、洗練された技術もない。


「……まだ、終わってません」


 翔は、落ちたスパナを即座に拾い上げると、自分の服の裾で汚れを拭い、再びボルトに食いつかせた。

 手のひらにじっとりと嫌な汗をかく。指先の皮がめくれ、血が滲む。


 だが、ここで投げ出せば、自分は一生「佐藤家の息子」という、陽介の庭の温室育ちの苗木のままだ。

 泥を啜ってでも、この境界線を越えなければならない。


 ハブを抜き、タイヤを外し、チューブの噛み込みを確認する。

 一つ一つの所作に、これまでの人生で最も深い集中を注ぎ込んだ。

 時計の針の音だけが、非情に時を刻んでいく。


「……できました。確認、お願いします」


 五分は、とうに過ぎていた。

 正確には、七分三十秒。



---



 梶原はゆっくりと椅子から立ち上がり、翔が整備した自転車に歩み寄った。

 彼は一言も発さず、ハブのガタを確認し、タイヤの空気圧を指で確かめ、そしてチェーンの張りをチェックした。

 翔は、処刑を待つ囚人のような心持ちで、その姿を見守っていた。膝が笑い、呼吸が浅い。


「手際が悪い。話にならんな」


 梶原の言葉は、氷のように冷たかった。

 翔の肩が、がっくりと落ちる。やっぱり無理だったんだ。自分には、才能も、資質も、何もない。


「……だが」


 梶原が、翔の方を見た。その瞳の奥に、先ほどまでにはなかった、微かな「温度」が宿っていた。


「道具を落とした後、すぐ拭ったな。……素人は、道具の汚れを気にしない。道具を汚す奴は、仕事を汚す。お前は、まだマシだ」


 翔は、息をすることさえ忘れて梶原を見つめた。


「時給は最低賃金だ。最初は掃除と空気入れ、客の自転車の洗浄だけだ。部品に触らせるのは、三ヶ月先になる。不服か?」

「……! いえ、お願いします! ありがとうございます!」


 翔は、深々と頭を下げた。

 視界の端で、自分の手が、真っ黒な油と泥に染まっているのが見えた。

 爪の間に入り込んだその黒い汚れは、先ほどまでの「劣等感の象徴」ではなく、新しい世界へ踏み出した自分への、最初の勲章のように見えた。


「明日、三時に来い」


 梶原はそう言うと、再び自分の聖域へと戻っていった。


 店を出たとき、夕暮れの風が、火照った翔の頬を優しく撫でた。

 自分の指先からは、石鹸で洗っても落ちないであろう、重厚な油の匂いが漂っている。

 この匂いを、母は何と言うだろうか。父は、どう受け止めるだろうか。


 だが、今の翔にとって、それはどうでもいいことだった。

 彼は今、初めて「誰の助けも借りず、自分の意志だけで、この世界の一部を切り取った」のだから。

 帰り道。自転車を漕ぐ脚が、驚くほど軽かった。チェーンがスプロケットを噛む乾いた音が、まるで自分を祝福する音楽のように聞こえた。



---



「ただいま」


 玄関を開けると、家の中は夕食の準備の匂いに包まれていた。

 だが、その背後に潜む「ひび割れたような緊張感」は、家を出る前よりも色濃くなっている気がした。


「おかえり、翔。遅かったわね」


 美和がキッチンから顔を出した。その表情は穏やかだったが、目の奥に隠された疲労を、今の翔は見逃さなかった。


「……バイト、決まったよ。自転車屋」

「そう、良かったじゃない。頑張りなさいね」


 美和の言葉は、以前のような「深入り」を避けているようだった。

 応援したい。けれど、息子が自分たちの手の届かないところへ、本当に行ってしまう。その寂しさを、彼女は懸命に飲み込んでいるようだった。


 翔は、自分の部屋へ上がった。

 着替えようとして、ふと窓から下を見下ろす。

 月明かりに照らされた、父の自慢の庭。ハーブたちは、春の芽吹きを謳歌しているように見えた。


 だが、翔の鋭い観察眼は、庭の隅にある、一株の太い雑草を見逃さなかった。

 スギナだ。

 一度根を張れば、執拗に地下へとはびこり、ハーブの栄養を奪い去る強靭な外来種。


 陽介なら、一瞬で見つけて抜き取るはずの、その一株。

 それが、誰にも気づかれずに、そこに存在していた。


(父さん……大丈夫か?)


 父の「庭」が、音もなく蝕まれ始めている。

 自分が外の世界へ一歩踏み出そうとしているこの瞬間に、自分を育んでくれたこの場所が、静かに崩れようとしている予感。

 翔は、自分の汚れた手のひらをじっと見つめた。

 この手で、いつか家族を、この庭を、修理できる日が来るのだろうか。

 それとも、自分はただ、この場所が壊れていくのを、油まみれの手で眺めていることしかできないのだろうか。


 期待と不安。

 高揚と恐怖。


 十七歳の少年は、金属の匂いが染み付いた制服を脱ぎ捨て、暗い庭をいつまでも眺めていた。

 明日から、本当の戦いが始まる。

 佐藤翔の、長い長い、自立への轍が、ここから描き出されていく。

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