42歳、妻から差し入れを受ける
陽介が庭でコーヒーを飲み終え、再び椅子に深く腰掛けていたとき、美和がパートに出かけるための準備を終え、勝手口の窓から彼の様子を覗き込んでいた。
図書館助手として働く美和は、日々の喧騒から離れた場所で、人々の内面の変化を静かに観察することに長けていた。
彼女の観察は、夫の道具に向けられる。
折り畳みの椅子、小型テーブル、そしてインスタントコーヒーのパック。それらは全て安価で実用的なものだが、陽介の疲弊したスーツ姿と、庭のコンクリートという無機質な背景の中で、異様なほどの「存在感」を放っていた。
美和は、陽介が昔のアウトドア用品の山を引っ張り出してきていないことに気づいていた。
かつてのアウトドア熱が再燃したなら、もっと大がかりなテントやタープが庭に広がるはずだ。
しかし、陽介の趣味は「小さく、手軽に、一人で完結する」というスタイルに徹している。このミニマムな姿勢が、彼の「疲労の深さ」と、同時に「再び燃え尽きるまい」という強い自己防衛の意志を美和に伝えていた。
(昔の陽介さんは、もっと無鉄砲で、楽しさのためなら無理をする人だった)
美和の脳裏には、結婚当初の、活発で、少し無謀なほどにエネルギッシュだった陽介の姿と、今の、物静かで、細心の注意を払って自分の心を癒やそうとしている陽介の姿がオーバーラップした。
美和の心には、二つの大きな心配があった。
一つは、陽介がこの活動を「一時的な気まぐれ」で終わらせてしまうのではないかという懸念だ。
もし、この活動が再び途絶えれば、陽介は以前にも増して深い虚無感に沈んでしまうだろう。その後の彼の精神的な回復は、さらに難しくなるかもしれない。
もう一つは、陽介が趣味に熱中しすぎて、再び家族から孤立してしまうことへの恐れだ。以前のキャンプでは、準備や後片付けを全て美和が担い、陽介だけが満足して終わる、ということが多々あった。
だが、今の陽介は違う。彼は自分のために椅子に座り、誰も巻き込まず、静かに自らを回復させている。そして、昨日の七輪の件で、彼は「近所への配慮」という家族への責任も負う姿勢を見せた。
美和は、彼の変化を肯定的に受け入れようと決めた。彼の「静かな回復」は、家族全体の平和に繋がる。もし彼が再び心の病に沈めば、家庭全体が暗くなる。
そう考えると、彼の小さな庭での活動は、もはや「趣味」ではなく「家族維持に必要なメンテナンス」なのだ。
美和は、陽介の背中に向かって、「声をかけようか迷う」という一瞬の葛藤を抱いたが、すぐにそれを打ち消した。
(今は、そっとしておくのが一番だ)
美和は、陽介の笑顔のために、彼の行動を否定せず、ただ「肯定的な距離感」で見守るべきだと判断した。
その距離感は、美和なりの静かな共闘の姿勢だった。
彼女は、陽介が淹れ終わった後のマグカップが、椅子から遠く離れたテーブルの隅に置かれているのを確認する。
彼は、再びお湯を沸かすこともなく、ただそこに座っている。美和は、陽介の回復が、「道具による活動」から「ただ座って思考すること」へと移行していることを読み取った。
美和は、パートへ向かうために静かに勝手口の扉を開けた。彼女の心は、夫の行動への不安ではなく、彼の回復をそっと支える役割を与えられたことへの、静かな安堵感に満たされていた。
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陽介が庭の椅子で「自己対話」を終え、目を閉じて深い呼吸を繰り返していると、勝手口の扉が静かに開閉する微かな音がした。陽介は、美和がパートへ出かける準備が整ったことを知る。彼は目を開けず、美和の気配が遠ざかるのを待った。
しかし、美和は玄関へは向かわず、陽介のいる庭のコンクリート叩きの隅、彼がコーヒーを置いていた小型テーブルに向かってゆっくりと歩みを進めた。彼女の足音は、まるで庭の静寂を尊重するかのように、注意深く抑えられていた。
陽介は、美和が自分の隣に来たことを感じた。スーツのポケットに入れていたスマホを取り出したい衝動に駆られたが、この静かな時間を邪魔されたくなくて、動かずにいた。
テーブルの上に、何かが置かれる小さな音がした。
美和は、陽介に声をかけることはなかった。彼女は、陽介の背中に向かって、短く、しかし明確なメッセージだけを伝えた。
「パートに行ってきます」
それだけ言い残すと、美和はすぐに家の中に戻り、玄関から出ていくドアの音がした。その一連の動作は、陽介が「ありがとう」を言う間も、立ち上がって顔を見る間もないほどに迅速で、「干渉しない」という美和の意志が明確に示されていた。
美和の気配が完全に消えた後、陽介はゆっくりと目を開け、テーブルに視線を移した。
そこには、美和がいつも夏場に作っている、冷えた麦茶が波打つ、ガラスのピッチャーと、彼専用のマグカップがそっと置かれていた。ピッチャーの側面には、小さな水滴がついており、冷たさが伝わってくる。
陽介は、この「無言の差し入れ」に、全身の力が抜けるほどの温かい衝撃を受けた。言葉で「応援している」と言われるよりも、この具体的な行為の方が、陽介の心に深く響いた。
美和は、陽介がコーヒーを飲み終わり、次に何かしらの「飲み物」を欲するであろうことを察知していた。そして、彼が椅子に座って静かに過ごしていることを妨げないよう、「無言で、手の届く範囲に」それを用意し、すぐに立ち去ったのだ。
(ああ、これは…)
陽介は、美和のこの行動が、彼の庭での活動に対する、最高の「無言の承認」であることを理解した。彼女は、彼の趣味が一時的なものではなく、彼の心にとって重要な儀式であると認識し、それを支えようとしてくれている。
そこには、夫婦間の長年の信頼と愛情が、言葉を介さずに、冷たい麦茶の温度を通して伝わってくるようだった。
陽介は、マグカップに麦茶を注ぎ、一口飲んだ。その冷たさが喉を通り過ぎると同時に、彼の心の中にあった、「迷惑をかけているのではないか」という罪悪感や、「自分は孤立している」という疎外感が、洗い流されていくのを感じた。
この麦茶は、単なる飲み物ではない。それは、「言葉を交わさずとも通じる、夫婦間の愛情の形」であり、陽介の「孤独な趣味」と「家族の日常」とを繋ぐ、静かな架け橋だった。
陽介は、立ち上がって家の中に向かって深く頭を下げた。もちろん、美和には見えていないが、彼の心からの感謝の念を示す行為だった。
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週末が明け、陽介は再びいつものスーツに身を包み、会社に出勤した。エレベーターを降りた瞬間に襲ってくる、蛍光灯の無機質な明るさと、コーヒーメーカーの焦げ付いたような匂い、そして高橋直子上司の鋭い声。
職場特有の「効率と競争」の空気は、庭で過ごした静かで穏やかな時間とは、あまりにも対極的だった。一歩会社に足を踏み入れると、昨日の麦茶の冷たさや、椅子に座っていた時の心臓の鼓動の静けさが、遠い夢のように感じられる。
陽介は、この二つの世界を繋ぎ止めようと、無意識のうちに力を込めてネクタイを締めた。
昼休憩、陽介は後輩の佐々木誠と社員食堂で向かい合って座った。佐々木は、週末に買ったばかりの新作ガジェットの話で盛り上がっていたが、ふと陽介の表情を見て、「佐藤さん、週末ゆっくりできたみたいですね。顔つきがいいですよ」と気づいた。
陽介は、少し照れながら、庭での七輪と、その翌日の出来事を切り出した。
「いや、昨日、七輪の煙で女房にちょっと怒られたんだけどな。でも、その後、パートに出る前に、何も言わずに冷たい麦茶をそっと庭のテーブルに置いていってくれてさ。あれで救われたよ」
佐々木は、目を丸くして笑った。
「え、マジっすか? 佐藤さんの奥さん、理解があるっていうか、粋ですね! 最高じゃないっすか。うちなんか、庭で火なんかつけたら、まずその道具ごとベランダから放り投げられますよ!」
佐々木は陽介の「孤独な趣味」を「大人のロマン」として肯定し、美和の行動を「家族の愛情」として捉えた。
佐々木の言葉を聞きながら、陽介は改めて、自分の庭での活動の「意味」を再認識した。
庭遊びは、単にストレスからの逃避に留まっていなかった。
それは、美和という家族に「静かな気遣い」と「無言の承認」を引き出し、結果的に「夫婦間の信頼」を深める行為になっていた。そして、佐々木のような仕事仲間との共感を生み出す、ポジティブな「話題」を提供していた。
(俺は庭で、コミュニケーションをとっていたのか)
陽介は、家族と直接言葉を交わすことに疲弊していたが、行動と空間を通してなら、彼らと新たな形の繋がりを築き、維持できるという、大きな発見を得た。
佐々木との会話を終え、陽介は午後の会議に向かう。昨日までの、高橋部長のプレッシャーに対する萎縮や、ノルマへの絶望感は、微かに軽くなっていた。
「庭」という心の安全基地が、彼の背後にしっかりと存在している。そして、その活動が、外側からではあるが、美和によって「大丈夫」と承認されている。この確信が、彼に仕事の戦闘力を与えていた。




