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42歳のすみかは庭になりました  作者:
第2部 第2章「父と母から、夫と妻へ」

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冷めたピザと焦燥:理想の断末魔

 深夜二時。

 本社ビル十二階の人事部フロアは、無機質なLEDの光だけが、墓標のように整然と並ぶデスクを照らしていた。


 佐藤陽介は、ブルーライトに晒され続けて充血した目で、モニターを見つめていた。

 画面上には、彼がこの一ヶ月心血を注いできた「次世代リーダー育成プログラム」の最終案が展開されている。


 だが、そこにある言葉は、彼が本来伝えたかったものとは無惨なほどに乖離していた。


 初期の草案にあった『社員の感性を育むための余白』『内省のための静止』といった言葉は、上層部や各現場からの「修正依頼」という名の検閲を経て、すべて削ぎ落とされていた。

 代わりに並んでいるのは、『マインドセットの最適化』『高負荷状況下におけるレジリエンスの強化』『生産性向上のための自己管理術』といった、鋼のように冷たく、血の通わない文字列だ。


「……何なんだ、これは」


 陽介は、自分の手で自分の信念を絞め殺しているような感覚に陥った。


 キーボードを叩く指が重い。一文字打つごとに、庭でハーブの香りを嗅いだ時のあの純粋な喜びが、遠く、手の届かない場所へと離れていく。

 画面に反射する自分の顔は、どす黒い隈が浮き、魂の抜けた泥人形のように見えた。


 彼は、組織という巨大な重力に抗いきれず、地面に引き摺り下ろされようとしている、名もなき兵士だった。



---



「佐藤課長。君の言いたいことはわかるがね、理想論だけでは会社は回らんのだよ」


 翌日の午後、役員会議室。専務の冷徹な声が、広い空間に響き渡った。

 陽介は、最後の抵抗として、研修の中に「あえて何もしない一時間」という項目を残したままプレゼンに臨んでいた。


「現場からは、人手不足で一分一秒を惜しんでいるという悲鳴が上がっている。

 そんな中で、社員を集めて一時間も『ぼーっとさせる』研修に、どれほどのコストをかけるつもりだ? その一時間が、来期の利益の何パーセントに化けるのかね?」


 陽介は、震える声で答えた。


「……利益に直結するかどうかは、すぐには分かりません。しかし、今の社員たちはあまりに疲弊しています。立ち止まる時間を持たなければ、彼らの心は摩耗し、やがて組織全体が機能を失います。

 この一時間は、効率のための『溜め』なんです」


「数字で示せと言っているんだ」


 専務が机を叩いた。


「精神論はもういい。各部署の部長たちも、君の案には反対している。これ以上、現場の邪魔をするなら、このプログラム自体の白紙撤回も検討せざるを得ないな」


 陽介は、かつての理解者であった高橋部長に視線を送った。

 しかし、高橋は苦渋に満ちた表情で視線を落とし、沈黙を貫いた。彼女もまた、組織の巨大な論理に押し潰され、陽介を助ける余力を失っていた。


 会議室を出た後、背後から部下の田中たちの話し声が聞こえてきた。


「また課長の『理想論』、粉々にされてましたね」

「現場を知らない人間が上に立つと、ああなるっていう見本ですよ。早くマニュアル通りの研修に落とし込めばいいのに」


 陽介のプライドが、乾いた音を立てて崩れ落ちた。

 自分の信じてきた「庭の哲学」は、この場所ではただの滑稽な妄想に過ぎないのか。


 彼は、孤独だった。

 かつて営業部で数字を追っていた頃の孤独とは違う、自分の存在意義そのものを否定されるような、底知れない孤独に飲み込まれようとしていた。



---



 その頃、自宅では美和が、陽介の苦悩とは全く別の地平に立っていた。


 ダイニングテーブルの上には、丁寧に整えられた苔や、粘土質の土、そしてピンセットが並んでいる。

 美和は、近所の知人から「苔玉の作り方を教えてほしい」と頼まれ、そのためのレジュメを作っていた。


「……ここの手順は、もう少し簡略化した方が伝わりやすいかしら」


 美和の声は、穏やかで自律的だった。

 数週間前まで、彼女は陽介が帰ってこないことに怯え、静寂という名の監獄に閉じ込められていた。

 しかし、土に触れ、苔玉という「自分の世界」を見出して以来、彼女の孤独は変質していた。


 陽介がいない時間は、もはや「耐える時間」ではなく、「自分を深める時間」へと変わっていた。


 彼女は、陽介からの『今日も遅くなる』というメールを見ても、以前のように胸を痛めることはなかった。

 むしろ、その不在がもたらす自由を、静かに享受していた。


 家の中には、かつての四人家族の熱気はない。

 しかし、自立した一人の人間が放つ、凛とした空気が流れていた。


 美和は、陽介に依存せず、自分の足でこの静寂の中に立ち始めていた。彼女にとって「余白」は、もはや恐怖ではなく、新しい自分を描くためのキャンバスになっていた。



---



 午後十一時四十五分。

 陽介は、魂を組織に磨り潰された抜け殻のような状態で、玄関のドアを開けた。


「……ただいま」


 返事はない。美和はすでに寝室に引き上げた後だった。

 リビングへ向かうと、ダイニングテーブルの上に、ラップをかけられた皿がポツンと置かれていた。

 陽介は、そのラップを剥がした。

 そこにあったのは、自家製のピザだった。


 かつて、佐藤家にとってピザは、特別な「祭礼の食」だった。

 庭のピザ窯に火を入れ、翔が生地を伸ばし、咲がチーズを振りかける。陽介は火加減にこだわり、美和が焼きたてのピザを運んでくる。


「熱い!」

「美味しい!」

「チーズが伸びる!」


 火傷しそうなほど熱いピザを、四人で頬張りながら笑い合った、あの眩しいほどの熱狂。

 陽介は、一切れのピザを手に取った。

 冷え切り、チーズはゴムのように固く白濁している。生地は湿気を吸って重く、具材の野菜もしおれていた。

 彼はそれを、無造作に口に運んだ。


「……冷たい」


 それは単に温度の問題ではなかった。

 かつての熱狂の成れの果て。家族という形が崩れ、熱が失われた後の残骸。

 今の自分の人生そのものを食べているような気がした。

 口の中に広がるのは、油脂の塊のような重さと、小麦粉の乾いた味だけだ。


 陽介は、暗いキッチンで独り、冷めたピザを咀嚼し続けた。

 目から、一筋の涙が零れそうになった。

 組織では理想を否定され、家ではかつての熱狂を失った冷めた食事。


 自分が何のために戦っているのか、どこへ向かおうとしているのか、その答えがこの冷たいピザの中にあるような気がして、彼は耐え難い喪失感に襲われた。



---



 食事を終えた陽介は、重い足取りで寝室へ向かった。

 ドアを静かに開けると、月光が差し込むベッドの上で、美和が穏やかな寝息を立てていた。


 陽介は、美和の隣に横たわった。

 本当なら、今すぐにでも彼女を揺り起こし、今日職場で受けた屈辱を、自分の理想がいかに踏みにじられたかを、子供のように泣きながら話したかった。


 しかし、彼は声をかけることができなかった。


 眠っている美和の横顔。

 そこにあるのは、陽介が知っている「依存的な妻」の顔ではなかった。自分の世界を持ち、孤独を味方にし始めた、一人の強い女性の顔だった。


(美和はもう、俺を必要としていないんじゃないか……?)


 陽介は、かつて自分が美和の支えであり、家族の主役であったという自負さえも、今の自分の惨めな姿と比較して失っていくのを感じた。

 美和は自分なしでも、この静寂の中で幸せを見つけ始めている。


 一方で自分は、組織という濁流に飲み込まれ、唯一の拠り所であった「家庭」という場所でも、以前のような形を保てずにいる。


「……辛いよ、美和」


 心の中で呟いたその言葉は、冷たい夜の空気に霧散した。

 隣にいるのに、宇宙ほど遠い距離。

 陽介は、自分が人生で最も孤独であることを痛感した。


 このままでは、自分が壊れる。あるいは、この夫婦という形そのものが、冷めたピザのように二度と温め直せないところまで冷え切ってしまうのではないか。

 暗闇の中で、陽介の焦燥はピークに達していた。



---



 陽介は、寝付けないまま窓の外を眺めた。

 深夜の雨が、庭を濡らしている。

 月明かりの下、夫婦が衝突したあの荒れた庭が、黒い影となって沈んでいた。

 雑草は雨を吸ってさらに勢いを増し、陽介が愛したハーブたちは、冷たい泥の中に沈んでいく。


 組織の中での孤立。

 家庭内での精神的な断絶。


 陽介の心には、目に見えない無数のひび割れが走っていた。

 そのひび割れは、もはや「余白」という言葉で繕えるようなものではなかった。


 佐藤家の庭に、かつてのような笑い声が戻る日は、果たして来るのだろうか。


 冷めたピザの味が、いつまでも陽介の舌の上に、苦い記憶として残り続けていた。

 物語は、陽介が決定的な「限界」に直面したまま、重苦しい夜を越えていく。

 それは、次に訪れる美和の本格的な自立への、痛切な導火線であった。

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