一人の食卓と苔玉:泥の中の小さな宇宙
週末の激しい衝突から数日。佐藤家の朝は、凍りついた湖面のような静寂に包まれていた。
かつての朝の風景には、常に「体温」があった。咲の寝癖を笑い、翔の食べこぼしを叱る。そこには怒りも喜びも地続きの感情として流れていた。
しかし今の二人の間にあるのは、感情の欠落ではなく、互いの存在を「風景」として処理しようとする、残酷なまでの無関心だった。
「……先に行くよ」
陽介は、美和の顔を見ることなく、玄関で靴を履いた。
「いってらっしゃい」
美和の返事も、感情の起伏を一切排除した、自動応答のような響きだった。
ドアが閉まり、陽介の足音が遠のいていく。
かつてはこの瞬間、美和は「さあ、今日も一日頑張ろう」と自分を奮い立たせていた。子供たちの忘れ物はないか、洗濯物の乾き具合はどうだろうか。
彼女の思考は常に「家族という共同体」の維持に捧げられていた。
しかし今、彼女が立っているのは、不気味なほど整頓されたリビングの真ん中だ。探すべき忘れ物も、急いで洗うべきユニフォームもない。
窓越しに庭を見やる。陽介が「荒れてるな」と吐き捨てたその場所は、確かに無惨だった。伸び放題の雑草が、かつて陽介が愛したハーブたちを絞め殺そうとしている。
だが、今の美和には、それを悲しむ気力さえなかった。
「……どうでもいいわ」
彼女は独り言をこなし、力なく椅子に座った。静寂は、もはや彼女を優しく包むものではなく、じわじわと酸素を奪っていく透明な牢獄のようだった。
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本社ビル。人事部のフロアは、冷房の風だけが虚しく循環していた。
陽介は、目の前に並べられた数枚のレポートを、血走った目で見つめていた。
「佐藤課長。これが各現場の部長たちからのフィードバックです」
部下の田中が、勝ち誇ったような、あるいは哀れむような薄笑いを浮かべて言った。
「あなたの提案した『内省のための余白研修』ですが、稼働時間の搾取だという意見が大半です。『人事は現場の足を引っ張るのが仕事なのか』とまで言われています」
陽介の喉が、引き攣るように鳴った。
「……これは、短期的な利益の話をしているんじゃない。若手の離職率を下げ、長期的なレジリエンスを……」
「ロジカルではありませんね、課長」
田中が冷たく遮った。
「その『レジリエンス』が、今期の利益の何パーセントに寄与するのか。不確定な未来への投資よりも、今この瞬間のアジリティを最大化するのが弊社のガバナンスです」
陽介は、自分の信じてきた「庭の哲学」が、組織という巨大なシュレッダーにかけられ、細切れの紙屑になっていくのを感じた。
かつての営業部時代、彼は「数字」を武器に戦っていた。しかし今、彼はその「数字」によって、自らの理想を絞め殺されようとしていた。
昼食さえ取る気になれず、陽介はデスクで一人、エクセルのシートを眺め続けた。
いつの間にか、彼は「どうすればこの組織を変えられるか」ではなく、「どうすればこれ以上批判されずに済むか」という、守りの思考に支配されていた。
窓に映る自分の顔を見る。そこには、かつて自分が最も軽蔑していた、魂の抜けた、ただ組織の歯車として磨り減るだけの男の顔があった。
「コンプライアンス……ガバナンス……生産性……」
彼は、意味を失ったカタカナ語を呪文のようにメモ帳に書き殴った。
心が死んでいく音が聞こえた。だが、それを止める術を、今の彼は知らなかった。
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その午後。
美和は、現実逃避するように、普段は開けることのない物置の整理を始めた。
何かを捨て、何かを動かさなければ、自分自身がこの静寂の中に溶けて消えてしまいそうだったからだ。
埃を被った段ボールを動かした時、奥から一袋の古い園芸用品が出てきた。
それは、陽介が以前「いつか使うかも」と言って放置していた、乾燥しきったハイゴケの袋と、いくつかのケト土(水辺の植物が堆積してできた粘土質の土)だった。
「……苔」
美和は、その乾いた茶色の塊を見つめた。
生命の気配など、微塵も感じられない、死んだ組織の塊。
だが、彼女は衝動的に、それを庭の蛇口へと持っていった。
バケツに水を張り、土を放り込む。
美和は、躊躇することなくその中に両手を突っ込んだ。
「……っ」
ひんやりとした泥の感触が、指の間をすり抜ける。粘り気のある土が、指先の節々に入り込み、爪の間を黒く染めていく。
これまで、彼女は「清潔な母」でいなければならなかった。子供たちの服を汚さないように、家の床を汚さないように。美和にとって土は、排除すべき「汚れ」の象徴だった。
しかし今、その泥の重みと冷たさは、彼女の閉ざされていた感覚を強烈に刺激した。
美和は無心で土をこねた。
手のひらの温度で、泥が馴染んでいく。彼女は、それを一握りの球体に丸めた。
次に、乾燥していた苔を水に浸す。すると、死んだように見えていた苔が、水を吸い、瞬く間に鮮やかな深緑を取り戻したのだ。
「……生きてる」
彼女は、震える手でその緑を泥の球体に巻きつけていった。
一巻き、また一巻き。
テグスで固定し、形を整える。
その作業の間、彼女の頭の中から「陽介」が消えた。「子供たち」が消えた。「未来の不安」も、一人の虚しさも消えた。
彼女の世界は、今、その両手に収まる「直径十センチの緑の球体」だけに集約されていた。
泥をこね、苔を愛でる。
それは、かつて陽介が庭に救われたのと同じ、根源的な「生の回復」だった。
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夕暮れ時、スマホが短く震えた。
陽介からのメールだ。
『今日も深夜になる。会議が入った。先に寝ていてくれ』
以前の美和なら、このメールを見て、小さな溜め息をつき、寂しさを埋めるためにテレビの音量を上げただろう。
しかし今の彼女は、画面を一瞥しただけで、すぐに苔玉の表面を霧吹きで湿らせる作業に戻った。
「……お疲れ様」
声に出したその言葉は、もはや夫への期待を含んでおらず、ただの事実の確認のように響いた。
美和はキッチンに立った。
今夜のメニューは、自分のためだけのものだ。
陽介が好む濃い味付けでも、翔が喜ぶボリューム重視のものでもない。
彼女は、昆布と鰹節で丁寧に、本当に丁寧に、黄金色の出汁を引いた。
湯気と共に立ち上る豊かな香りが、冷え切っていたリビングを優しく満たしていく。
お猪口に少量の冷酒を注ぎ、出来上がったばかりの苔玉を食卓の真ん中に置いた。
小さな緑の塊。それは、彼女の手で作られた、彼女だけの「小さな宇宙」だった。
「いただきます」
美和は、独りで箸を持った。
出汁をたっぷり含んだお浸しを口に運ぶ。
静寂。
だが、それはもはや「監獄」の沈黙ではなかった。
出汁の旨味、日本酒のキレ、そして目の前にある瑞々しい苔の緑。
五感を研ぎ澄ませて味わう食事は、不気味なほど贅沢で、誇り高いものに感じられた。
彼女は、孤独を「耐えるもの」から「味わうもの」へと作り変え始めていた。
「……美味しい」
その独り言には、もう、誰にも届かなくていいという、潔い強さが宿っていた。
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午前一時。
陽介は、深夜の残業と人間関係の摩耗で、抜け殻のようになって帰宅した。
目には光がなく、肩は不自然に強張っている。
「……ただいま」
「お帰りなさい、陽介さん。お疲れ様」
リビングのソファに座っていた美和は、穏やかな声で彼を迎えた。
そこには、以前のような「顔色を伺うような気遣い」も、衝突の後の「棘のある無視」もなかった。
「……飯、いい。食ってきた」
陽介は嘘をついた。本当はコンビニの、味のしないおにぎりをデスクでかき込んだだけだった。
「そう。お風呂、湧いてるわよ」
陽介は力なく頷き、リビングを横切ろうとして、ふと足を止めた。
棚の上、そしてテーブルの隅に、いくつかの奇妙な緑の球体が並んでいた。
「……なんだ、これ」
「苔玉。今日、作ってみたの」
美和は、穏やかに微笑んだ。
陽介は、その鮮やかな緑をじっと見つめた。
組織の論理に磨り潰され、グレー一色の世界で戦ってきた彼にとって、その瑞々しい色はあまりに眩しすぎた。
「……そうか」
彼はそれだけ言うと、目を逸らすように浴室へと向かった。
陽介には、その苔玉が何を意味しているのか、まだ分からなかった。
妻が自分の知らない世界で、自分の知らない「生命」を育み始めたこと。
それが、これまでの「依存し合う家族」という形が、音を立てて崩れ、新しい「個の自立」へと向かう予兆であることに、彼はまだ気づく余裕がなかった。
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寝室の暗闇の中。
陽介は、慣れない人事の仕事による脳の昂りと、極度の疲労のせいで、泥のような、しかし浅い眠りの中にいた。
夢の中で、彼は無数の数字に追いかけられ、理想の庭がコンクリートで塗り固められる光景を見ていた。
一方、美和は、隣で眠る夫の気配を感じながらも、心は穏やかだった。
彼女のまぶたの裏には、明日の朝、どの苔に水をやろうか、どこから新しい土を持ってこようかという、小さな希望が描かれていた。
あの冷たい、互いを刺し合うような静寂は、もうここにはない。
だが、温かい絆があるわけでもない。
二人は今、一つの家の中にいながら、全く別の戦場に立ち、全く別の生命力を養っていた。
孤独の底で、美和は自分という種を蒔いた。
それは、かつて陽介が一人で庭を始めた時と同じ、静かな、しかし抗いがたい変化の始まりだった。
夜の底で、苔はひっそりと水を蓄えている。
明けない夜はない。
しかし、次に明ける朝は、これまでの佐藤家が知っている朝とは、全く違う色をしているはずだった。




