すれ違う二人:静寂という名の監獄
午前六時。寝室に響くアラームの音が、かつてないほど鋭く、冷徹な機械音として鼓膜を震わせた。
佐藤陽介は、重い瞼を押し上げ、隣で眠る美和を起こさないよう、静かにベッドから抜け出した。
かつてはこの時間、家の中はすでに「生命の音」で溢れていた。翔が階段を駆け下りる音、咲が洗面所でドライヤーをかける音、そして美和がリズミカルに包丁を動かす音。
それらの音は、陽介にとって一日の始まりを告げる心地よいオーケストラのようなものだった。
しかし今、家の中を支配しているのは、リビングの掛け時計が刻む、チクタクという非情な秒読みだけだ。
「……おはよう」
キッチンへ行くと、美和がすでに白湯を飲んでいた。
「おはよう、陽介さん。ゴミ、まとめておいたわよ」
「ああ、ありがとう。出しておくよ」
交わされる会話は、極限まで削ぎ落とされた業務連絡のようだった。かつては、子供たちのその日の予定や、昨夜の出来事についての報告で、朝食の時間はいくらあっても足りないほどだった。
しかし今、二人の間には、共有すべき「子供という目的」がない。
陽介は、ネクタイを締めながら、鏡の中の自分を見た。目の下には隈が浮き、表情からはかつての余裕が消え失せている。
「今日も、遅くなると思う」
「そう。お疲れ様。……夕飯、準備しておくわね」
玄関のドアが閉まる音。ガチャンという乾いた金属音が、静かな住宅街に響き渡る。
美和にとってその音は、一日の始まりではなく、自分一人が取り残される「長い監獄の時間」の始まりを告げる合図だった。
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本社十二階、人事部人材育成課。
そこは、陽介にとって日を追うごとに息苦しい場所へと変貌していた。
「佐藤課長、この研修コストの削減案ですが、まだ『余白』という抽象的な概念が含まれています。役員会に提出する資料としては不適切です」
部下の田中が、無表情にタブレットを差し出す。彼の声には、上司に対する敬意よりも、理解不能な異物を排除しようとする冷徹な論理が宿っていた。
陽介は、自分のデスクに積み上がった資料の山を見つめた。
五月に入り、新入社員の配属が決まり、メンタル不調を訴える若手の面談記録が次々と届く。
陽介は、一人ひとりの声を聞き、彼らが「立ち止まる」ための制度を作りたいと考えていた。
しかし、課のメンバーたちは、それを「個人の適性の欠如」や「レジリエンス(精神的回復力)の不足」という言葉でデータ化し、処理しようとする。
「田中くん、データも大切だが、彼らがなぜ今、苦しんでいるのか。その背景にある、家庭環境や心の疲弊を想像することはできないのか?」
「想像、ですか?
課長、人事は慈善事業ではありません。コストをかけ、最大のパフォーマンスを出すための管理組織です。あなたの言う『手間』は、今のスピード感には合いません」
陽介は、孤立していた。
営業時代なら、高橋部長や佐々木と飲みに行き、愚痴をこぼしながらも活力を得ることができた。
しかし、人事部という場所は、誰もが正論という鎧を纏い、感情を排して効率を競い合っている。
理想を説明するための資料作りに、陽介は没頭した。
理論武装しなければ、自分の言葉は誰にも届かない。そう思うあまり、彼はいつの間にか、自分が一番大切にしていたはずの「庭の感性」を、数字と言葉の暴力で埋め尽くそうとしていた。
気づけば、窓の外は漆黒の闇に包まれている。
自分の時計を見ると、午後十時を過ぎている。
(美和に連絡しないと……いや、いつものことか)
陽介は、疲れ果てた頭で、美和のことを「物理的に」考える余白を失いつつあった。
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陽介が会社で戦っている間、美和は広すぎる家の中で、自分自身という存在の希薄さと戦っていた。
洗濯機を回しても、中身は以前の半分以下だ。翔の汗だらけの練習着も、咲の派手な色のTシャツもない。洗濯物を干す時間は、かつては重労働だったが、今はあっという間に終わってしまう。
掃除機をかけても、床に落ちている消しゴムのカスも、抜け落ちた長い髪の毛もない。
「……綺麗すぎるのね」
美和は、リビングの真ん中で立ち尽くした。
かつては家族の生命感の証だった「汚れ」や「乱れ」が、今の彼女にとっては、どれほど愛おしいものだったかに気づかされる。
昼過ぎ、スーパーへ買い物に出かける。
カゴに入れるのは、小さなカレイの切り身二つ。野菜も少量。特売品のファミリーパックには、もう手が伸びない。
「誰のために、何を作っているんだろう」
その問いが、彼女の足を鉛のように重くさせた。
帰り道、何気なく庭を眺めた。
かつて陽介が丹精込めて手入れをしていたハーブガーデン。
しかし今、陽介には庭を触る余裕がなく、雑草が我が物顔で繁茂し始めていた。ミントは伸び放題になり、ローズマリーの葉は乾燥して茶色く変色している。
その荒れた庭の姿が、今の二人の関係そのものを象徴しているように見えて、美和は急激に胸を締め付けられた。
かつての喧騒は、苦労もあったが、そこには確かに「役割」があった。
今は「自由」がある。しかし、その自由は、誰からも必要とされないという、残酷な余白だった。
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午後十一時半。
陽介が重い足取りで帰宅すると、リビングのテーブルには、ラップがかけられた皿がポツンと置かれていた。
美和はソファで本を読んでいたが、陽介の顔を見ると、力なく立ち上がった。
「お帰りなさい、陽介さん。温め直すわね」
「いいよ、そのままで。疲れてるだろ、美和」
「……ううん。待っているだけだから、疲れることは何もないわ」
その「待っているだけ」という言葉に含まれた毒に、陽介は気づけなかった。彼の頭の中は、明日の役員報告の数字で一杯だったからだ。
二人の会話は、どこまでも表面を滑っていく。
「仕事、どう?」
「ああ、順調だよ。少し忙しいけどな」
陽介は嘘をついた。自分の孤立を話せば、美和を心配させる。それ以上に、今の自分には美和の悩みを受け止めるキャパシティがないことを、本能的に自覚していた。
「そう。私も、今日も楽しく過ごしたわ」
美和も嘘をついた。本当は一日中、誰とも口を聞かず、時計の音に怯えていたと言いたかった。
しかし、疲れた顔の夫に、そんな重荷を負わせるわけにはいかない。
子供という緩衝材がいなくなったことで、二人の間に流れる空気の重みが、剥き出しのままぶつかり合う。
食卓を囲んでいても、陽介はスマホでメールをチェックし、美和はそれを見つめる。
物理的な距離はわずか一メートル。しかし、そこには宇宙ほどの深い断絶が横たわっていた。
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その週末。久しぶりに晴れた土曜日の朝。
陽介は、数週間ぶりに庭に出た。
そこに広がっていたのは、彼が愛した「余白の聖域」ではなく、単に手入れを放棄された、荒れ果てた土壌だった。
「……なんだよ、これ」
陽介は思わず、独り言を漏らした。
洗濯物を干しにきた美和が、その言葉を聞き咎めた。
「何か言った?」
「いや……庭、ずいぶん荒れてるなと思って。雑草だらけじゃないか」
陽介には悪気はなかった。ただ、大切にしていた場所が損なわれていることに、焦りを感じただけだった。
しかし、美和の中で、何かが音を立てて切れた。
「荒れてるのは、私がいけないって言いたいわけ?」
美和の声は、静かだが鋭かった。
「そんなことは言ってない。ただ、君も家にいる時間が多いんだから、少しは……」
「少しは、何? 手入れをしろって?
陽介さん、私、あなたのためにこの庭を守るボランティアじゃないのよ。あなたが仕事に没頭して、家のことも、庭のことも、私のことも、全部『余白』として切り捨てたから、こうなってるんじゃない!」
美和の叫びは、陽介の胸を刺した。
「切り捨てた? 俺は家族のために……!」
「『家族のために』って言えば、全部許されると思ってるの? 今、この家には家族なんていないわ。あなたの仕事と、私の孤独。それだけよ!」
美和は、干そうとしていたシャツをバケツの中に叩きつけ、家の中へと駆け戻った。
立ち尽くす陽介。
目の前の庭には、かつて二人で誓い合った「月明かりの約束」の欠片もない。
ただ、冷たい風が、枯れかけたハーブの葉を揺らしているだけだった。
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その夜、寝室は氷のような沈黙に包まれていた。
ダブルベッドの真ん中に、決して越えられない深い溝があるように感じる。
陽介は天井を見つめ、美和は背中を向けて、固く目を閉じていた。
美和の肩が微かに震えている。
彼女が泣いていることに、陽介は気づいていた。
しかし、どう手を伸ばせばいいのか、今の彼には分からなかった。
窓からは、青白い月光が差し込んでいる。
月明かりの下、美和に異動を報告したあの日。あの時、一瞬だけよぎった不安がいままさに鮮明な形となって目の前に現れている。
理想という名の種を蒔き、新しい戦場へ向かったはずの陽介。
役割を終え、新しい自分を見つけようとした美和。
二人は今、人生で最大の「孤独」の深淵に、二人きりで沈んでいた。
夜は、まだ明ける気配を見せなかった。
佐藤家の庭に、本当の春が来る日は、まだ遠い。




