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42歳のすみかは庭になりました  作者:
第2部 第2章「父と母から、夫と妻へ」

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人材育成課の洗礼:組織の冷徹と、家の静寂

 四月一日。窓の外では、まだ若く頼りなげな桜の花びらが、新しい門出を祝うように朝の光を浴びていた。


 佐藤陽介は、鏡の前で新調した紺色のスーツに袖を通した。

 これまでの営業部時代、戦場へ向かう戦士が鎧を纏うように選んできた「戦闘服」とは、どこか手触りが違っていた。生地は上質で滑らかだが、その重みには「人材育成」という、目に見えない、数値化できない責任が込められているように感じられた。


 ネクタイを締める指先が、微かに震える。

 四十三歳。会社員として中堅を過ぎ、本来なら手慣れたはずの朝の準備が、今日はまるで新入社員のような初々しさと、それ以上の重圧を伴って彼に迫っていた。


「陽介さん、朝ごはんできてるわよ」


 リビングから、美和の穏やかな声が届く。

ダイニングテーブルに向かうと、そこにはトーストと目玉焼き、そして香りの高いコーヒーが並んでいた。


 かつて、この場所は戦場だった。

 咲が「お弁当の卵焼きが足りない」と言い、翔が「部活の道具が見つからない」と叫び、陽介は新聞を片手にコーヒーを流し込み、美和は髪を振り乱してキッチンと玄関を往復していた。


 しかし、今、そこにあるのは、トーストを齧るパリッという乾いた音と、コーヒーを啜る微かな音だけだ。

 テレビのニュースキャスターが淡々と新年度の行事を伝えているが、その声さえも、広くなったリビングの壁に吸い込まれていく。


「……静かね」


 美和が、ふと箸を止めて呟いた。


「ああ、そうだな」


 陽介は頷く。咲が寮へと旅立ち、翔も自分の未来のためアルバイトや勉強に勤しみ、共同した生活を歩まなくなった。

 ようやく生活は落ち着きを見せ始めていたが、その代償として手に入れたのは、かつて渇望していたはずの「静寂」という名の、どこか冷たい余白だった。


「いってらっしゃい、陽介さん。新しい部署、頑張ってね」


 玄関で美和に見送られ、陽介は家を出た。

 振り返ると、美和が一人、誰もいなくなった咲の部屋のカーテンを開ける姿が窓越しに見えた。その背中には、これまで家族を支え続けてきた母としての誇りと、役割を終えた後の、深い孤独の影が落ちているように見えた。


 陽介は、胸の奥に小さな痛みを感じながらも、前を向いて歩き出した。



---



 本社ビル、十二階。人事部のフロアに足を踏み入れた瞬間、陽介は肌を刺すような違和感に襲われた。


 そこは、彼が十数年過ごしてきた営業部とは、正反対の世界だった。

 営業部には、常に怒号に近い活気があり、電話のベルが鳴り響き、目標達成に向けた生々しい熱気が渦巻いていた。

 しかし、人事部は驚くほど静まり返っていた。聞こえてくるのは、高性能な空調の低いうなり音と、無数のマウスがクリックされる乾いた音、そしてキーボードを叩く規則正しいリズムだけだ。


「佐藤課長ですね。お待ちしておりました」


 無表情な事務次長に案内され、陽介は自分のデスクに辿り着いた。

 そこに座っていた人材育成課のメンバーは三名。いずれも二十代後半から三十代前半の、眼鏡の奥に理知的な光を湛えた若手たちだった。


「着任の挨拶をさせてもらいたい」


 陽介は、フロアの空気を変えるつもりで、少し大きな声で切り出した。


「私はこれまで、営業の現場で戦ってきました。その中で確信したことがあります。

 組織を支えるのは数字ではなく、人です。そして、人が真の力を発揮するためには、効率だけを求めるのではなく、心に『余白』が必要です。立ち止まり、内省し、手間をかける。

 そんな人材育成を、私はこの課で実践したい」


 陽介は、庭で培った哲学を、精一杯の情熱を込めて語った。

 しかし、返ってきたのは、拍手でも共感の声でもなかった。


「……佐藤課長」


 主任の田中という男が、タブレットから目を離さずに口を開いた。


「その『余白』とやらは、具体的にどのKPI(重要業績評価指標)に反映されるのでしょうか。

 生産性の向上ですか? それとも離職率の低下ですか?

 もし精神論をおっしゃっているのであれば、この部署では通用しませんよ」


 別の女性社員、佐藤(奇しくも同姓だ)も冷淡に付け加える。


「私たちの仕事は、全社員のパフォーマンスをデータ化し、コストパフォーマンスを最大化することです。

 内省、手間、余白……。それらのコストを誰が負担し、どのようなリターンを生むのか、ロジカルな説明をお願いします」


 陽介は絶句した。

 彼らが言っていることは、会社員として、人事担当として、一点の曇りもない正論だった。かつての陽介であれば、むしろ彼らの側に立っていただろう。

 しかし、今の陽介にはわかる。その「正論」が、いかに多くの社員から潤いを奪い、心を摩耗させているかを。


「データも大切だ。だが、人はデータじゃない……」


 陽介の反論は、静かなオフィスの中に空しく響いた。

 彼を見る部下たちの視線は、期待ではなく、「現場上がりの熱血漢が迷い込んできた」という、冷ややかな好奇の目に変わっていた。



---



 午前中。陽介のデスクには、引き継ぎ資料という名目で、膨大なデータの山が積み上げられた。

 全社員の適性検査の結果、残業時間の推移、ストレスチェックの集計データ、研修費用の対効果分析。

 陽介は、その数字の羅列の中に、生身の人間を見つけようと目を凝らした。


 しかし、そこにあるのは「平均値」と「偏差」だけで、社員一人一人の悩みや、家庭での葛藤、仕事への情熱の残り火といったものは、きれいに削ぎ落とされていた。


(この数字のどこに、庭のハーブの香りが入り込む隙間があるんだ……?)


 陽介は、エクセルと格闘しながら、深い焦燥感に駆られた。


 午後には、経営層への進捗報告会議に出席した。そこでは、新年度の「早期戦力化プログラム」について厳しい追及を受けた。


「佐藤課長、新入社員の研修期間をさらに二週間短縮できないか」


 専務が冷たく問いかける。


「今はスピードの時代だ。無駄な座学は排除し、一刻も早く現場で数字を追わせる。それが本人のためでもある」


「専務、しかしそれでは新人の心が追いつきません。あえて何もしない、あるいは自分のキャリアをじっくり考える時間を……」


「余白か? 高橋部長から聞いてはいるが、ここは庭じゃないんだ。会社は利益を出す場所だということを忘れるな」


 会議室に冷笑が走った。

 陽介は、自分の「余白の哲学」が、組織という巨大な岩壁に跳ね返されるのを感じた。

 高橋部長という盾がいないこの場所で、彼は丸腰のまま、効率主義という名の機関銃に晒されているようだった。


 気づけば、外はすっかり暗くなっていた。


 定時を過ぎても、部下たちは無言でPCに向かい続けている。彼らの姿は、まるで情報の海を泳ぐ魚のようで、陽介という異物を無視して、淡々と「最適解」を出し続けていた。


 陽介は、自分のデスクに残された冷めたコーヒーを飲み干した。

 引継ぎ資料の隅に、小さなメモを書き込む。

 理想と現実。庭と会社。

 そのあまりの乖離に、陽介の心は、着任初日にして早くも激しく摩耗し始めていた。



---



 その頃、自宅では美和が一人、キッチンに立っていた。

 スマホの通知音が鳴る。陽介からの短いメールだった。


『遅くなる。飯は済ませておいてくれ』


 美和は、手元にあった食材を見つめた。

 子供たちがいた頃なら、陽介がいなくても、翔や咲のために腕を振るった。余れば翌日の弁当に入れればいい。料理を作ることは、そのまま家族の健康を守ることと直結していた。

 しかし、今は、自分のためだけに料理を作る必要がある。


「一人のために、何を作ればいいのかしら……」


 美和は、以前なら余り物で適当に済ませていた。

 しかし、いざ「自由」を与えられ、時間が無限にあるように感じると、逆に「自分を大切にするために料理を作る」という行為が、ひどく不自然で、重労働に感じられた。


 フライパンを火にかける。

 ジュワーという油の音が、以前よりも大きく聞こえる。換気扇の回る音が、まるで誰かの溜め息のように室内に響く。

 出来上がったのは、小さなオムレツとサラダ。


 リビングの大きなダイニングテーブル。

 いつもは翔が座っていた席、咲が座っていた席。今は誰もいない。


 美和は、いつもの自分の席ではなく、キッチンカウンターの端に座って、独りで箸を動かした。

 テレビをつける。

 バラエティ番組の笑い声が流れるが、それが逆に部屋の静寂を際立たせる。


「……咲、今頃どうしてるかしら」


 不意に、咲が「お母さん、マヨネーズ取って!」と叫んでいた声が蘇る。

 翔が「明日の部活、朝練だから五時半に起こして」と、無愛想に頼んできた顔が浮かぶ。

 あの頃、美和は「自分の時間が欲しい」「一人でゆっくり眠りたい」と、心の底から願っていたはずだった。


 しかし、いざ手に入れたその静寂は、想像していたような甘美なものではなかった。

 それは、自分という存在が必要とされなくなった、役割の終わりを告げる「余白」だった。


 美和は、咀嚼する自分の顎の音を不快に感じながら、半分も食べられないうちに箸を置いた。

 時計の針が、チクタクと音を立てる。

 これまでは、その音さえ聞こえないほど家の中は賑やかだった。


 美和は、片付けを終えると、ソファに座って動けなくなった。

 何をしてもいい自由。しかし、何をすればいいのか分からない自分。

 彼女は、静寂という名の怪物に、じわじわと侵食されていくような恐怖を感じていた。



---



 深夜零時。

 陽介は、重い足取りで玄関のドアを開けた。


「……ただいま」


 声は低く、枯れていた。

 リビングに行くと、ソファで薄い毛布を被ってうたた寝をしている美和の姿があった。

 テレビはつけっぱなしで、画面には砂嵐のような深夜放送が流れている。


「美和、美和」


 陽介が肩を叩くと、美和はハッと目を開けた。


「……あ、陽介さん。お帰りなさい。遅かったわね」


 美和の顔には、安堵の表情が浮かんだ。しかし、その奥に隠しきれない寂寥感があることを、陽介は見逃さなかった。


「ああ。人事の仕事は、思っていたより泥臭いよ。データの山に埋もれて、人の顔が見えないんだ」


 陽介は、スーツのジャケットを脱ぎながら愚痴をこぼした。


「そう……大変なのね。お疲れ様。お風呂、すぐ沸くわよ」


 美和は立ち上がり、テキパキと準備を始める。


 陽介は、本当はもっと職場で受けた冷遇や、部下たちとの距離感を話したかった。

 しかし、美和の少し疲れた顔を見ると、自分の苦労を押し付けるのは忍びないと思った。


 美和もまた、「一人でいて寂しかった」と言いたかった。時計の音に怯えていた自分を、抱きしめてほしかった。

 だが、仕事で疲れ果てている夫に、そんな重荷を背負わせるわけにはいかないと思った。


 二人の間に、目に見えない薄い膜が張られたようだった。

 これまでは、子供の話をしていればよかった。「咲が」「翔が」と言えば、二人の心は自動的に一つの点に収束した。


 しかし今、二人の間にあるのは「個としての自分」だけだ。

 お互いの内面にどう踏み込めばいいのか、何を語れば二人の距離が縮まるのか。

 二十数年連れ添った夫婦が、まるで初対面の男女のように、言葉の選び方を忘れてしまっていた。


 陽介は浴室へ向かい、美和はキッチンの片付けを再開した。

 同じ屋根の下にいながら、二人の心は、それぞれ別の宇宙を漂っているようだった。



---



 風呂から上がった陽介は、寝室へ行く前に、ふらりと庭に出た。

 夜の庭は冷たく、静かだ。

 ピザ窯の横に植えたミントやローズマリーが、暗闇の中で静かに耐えている。

春の嵐が来ようと、寒の戻りがあろうと、植物たちはただそこに根を張り、自分の生命を繋いでいる。


(俺も、今は耐える時期なのか……?)


 人材育成課の部下たち。冷徹な経営層。

 彼らは敵ではない。ただ、陽介が信じている「庭の温もり」を知らないだけなのだ。


 この冷たいコンクリートのような組織を耕し、余白という名の種を蒔く。

 そのためには、まず陽介自身が、この静寂と孤独に耐えなければならない。


 陽介は、暗い庭を一度だけ見渡し、家の中へ戻った。

 寝室に入ると、美和は既にベッドに入り、背中を向けて眠っていた。

 微かな寝息が聞こえる。

 陽介はその隣に横たわり、天井を見つめた。


 そこにあるのは、共に戦い、家族を築き上げてきた妻への深い愛おしさと、彼女を一人、静寂の中に置き去りにしていることへの、鋭い罪悪感だった。


 理想はまだ、霧の彼方にある。

 しかし、陽介は知っている。

 どれほど荒れた土地でも、手間をかけ、時間をかければ、必ずいつか芽吹く日が来ることを。

 明日もまた、データの山が待っている。

 陽介は目を閉じ、心の中で、まだ見ぬ希望の種を、深く、深く、土の中に埋めた。


 佐藤家の新しい戦いは、まだ始まったばかりだった。

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