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42歳のすみかは庭になりました  作者:
第2部 第2章「父と母から、夫と妻へ」

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夜の庭での報告:家族のかたちが変わるとき

 三月の終わり、夜の空気は冬の鋭い冷たさをまだ微かに残しながらも、湿り気を帯びた春の気配をその奥に潜ませていた。


 佐藤陽介は、最寄りの駅から自宅へと続く緩やかな坂道を、一歩一歩踏み締めるように歩いていた。

 街灯がアスファルトの上に長く引き伸ばされた彼の影を、前方へと放り出す。かつてはこの道を、少しでも早く家に辿り着こうと急ぎ足で歩いたものだ。

 子供たちの笑い声、あるいは泣き声。美和が慌ただしく夕食を準備する音。それらが待つ場所へと帰ることが、彼の人生のすべてだった時期がある。


 しかし、今、彼の視線の先にある佐藤家の外観は、驚くほど静まり返っていた。二階の子供部屋の窓は暗く、リビングから漏れる明かりだけが、夜の帳をそっと押し返している。


「ただいま……」


 玄関のドアを開け、陽介はいつものように声をかけた。その声は、かつては子供たちの元気な返事や、バタバタと廊下を駆ける足音にかき消されていた。

 だが今は、自分の声が玄関の壁に跳ね返り、そのまま吸い込まれるように消えていくのを感じる。


 ふと、足元に目を落とす。玄関の三和土たたきに並んでいるのは、自分の革靴と、美和のパンプスの二足だけだ。

 翔の泥だらけになった大きなスニーカーも、咲の可愛らしい飾りがついた靴も、もうそこにはない。その空白が、まるで心の欠落を視覚化したかのように、陽介の胸を鋭く突いた。


「お帰りなさい、陽介さん」


 キッチンの奥から美和が顔を出した。エプロン姿の彼女は、どこか吹っ切れたような、それでいて少しだけ所在なさげな微笑を浮かべている。


「ああ、遅くなった」


 陽介はコートを脱ぎながら、リビングを見渡した。

 ソファの上に無造作に放り出されていた翔の自転車雑誌も、ダイニングテーブルの端に積まれていた咲の参考書も、跡形もなく片付けられている。

 すべてがあるべき場所に収まり、掃除が行き届いた室内は、モデルルームのような清潔さと、耐え難いほどの静寂に包まれていた。


 美和の背中は、心なしか以前よりも小さく見える。しかし、その手つきは驚くほど丁寧だった。

 明日の朝食の準備だろうか、野菜を刻む包丁の音が、トントントン、と一定のリズムでリビングに響く。それは、誰かのために急いで作る料理ではなく、自分たちの時間を慈しむための、静かな儀式のようにも聞こえた。



---



「今日は、和食にしてみたの」


 美和がテーブルに並べたのは、カレイの煮付け、小松菜のお浸し、そして根菜たっぷりの豚汁だった。

 かつてはこのテーブルに、翔が喜ぶ特大の唐揚げや、咲が好んだハンバーグが所狭しと並んでいた。子供たちの旺盛な食欲を満たすことが、この家の食事の至上命題だったのだ。

 しかし、今夜の献立は、大人二人の身体を労わるような、穏やかで控えめなものだ。


「いただきます」


 二人は手を合わせ、箸を動かし始めた。

 会話の主役は、いつも子供たちだった。「翔がテストで何点を取った」「咲の進路希望がどうなった」。自分たちのことは二の次で、常に子供たちの現在と未来について語り合ってきた十数年間。

 それが消えた今、二人の間に流れるのは、窓の外で風が木の葉を揺らす音や、味噌汁を啜る音だけだ。


「……今日、駅前の桜が少しだけ咲き始めていたよ」


 陽介がふと思いついたように口にする。


「あら、そう。明日はもっと暖かくなるみたいだから、一気に開くかもしれないわね」


 美和が応える。

 かつてなら、こんな些細な会話は子供たちの騒ぎ声にかき消されていただろう。しかし今は、その一言一言が、静かな水面に広がる波紋のように、二人の間に深く浸透していく。


 気まずい沈黙ではない。互いの存在を確かに感じながらも、それぞれが自分の思考の深淵に耽ることを許容し合う、豊かな沈黙だった。


 陽介は、美和の表情を盗み見た。彼女はゆっくりと煮付けを口に運び、味わっている。彼女もまた、この静寂の中に、新しい自分の居場所を探しているのかもしれない。


「美和」


 食後のほうじ茶を淹れてくれた彼女に、陽介は少しだけ声を落として言った。


「少し、庭に出ないか。月が綺麗だし、話したいことがあるんだ」


 美和は驚いたように目を瞬かせたが、すぐに柔らかい笑みを浮かべた。


「ええ、いいわね。温かいお茶、マグカップに入れて持っていくわ」


 陽介はリビングの掃き出し窓を開けた。冷たい夜気が一気に室内に流れ込み、彼の頬を撫でる。

 その刺激が、これから告げる言葉への緊張感を心地よく引き締めてくれた。



---



 庭に出ると、三月末の澄み切った空気の中、月が驚くほど鮮やかに夜空に鎮座していた。

 月光に照らされた庭は、昼間の明るさとは違う、神秘的で厳かな表情を見せている。


 隅には、かつて家族で囲んだピザ窯が、黒い影となって静かに佇んでいた。

 陽介はあえて火を入れなかった。薪が爆ぜる音さえ、今の二人には少し賑やかすぎるような気がしたからだ。


「……綺麗ね」


 美和が陽介の隣に立ち、夜空を見上げた。マグカップから立ち上る湯気が、月光に透けて白く揺らめいている。


「ああ。こんなに静かに庭を眺めるのは、いつ以来だろうな」


 二人は並んでベンチに腰を下ろした。夜風に乗って、芽吹き始めたばかりのハーブの香りが、微かに鼻腔をくすぐる。


 陽介の脳裏には、つい一ヶ月前までの光景がフラッシュバックした。この場所で、煙に目を細めながら翔が生地を伸ばし、咲がトッピングのチーズを欲張って乗せていた。陽介は火加減に四苦八苦し、美和はキッチンと庭を何度も往復して笑っていた。

 あの頃、この庭は間違いなく家族という「群れ」の中心地であり、騒がしくも温かい混沌そのものだった。


 陽介はゆっくりと口を開いた。


「美和。今日、会社で内示を受けたんだ」


 美和の手の中で、マグカップが微かに揺れた。彼女は陽介の言葉を待つように、静かに視線を彼に向けた。


「四月から、人事部に異動することになった。役職は、人材育成課の課長だ。昇進という形になる」

「人事部……?」


 美和の声には驚きが滲んでいた。

 陽介が営業部でどれほど泥臭く戦い、数字を積み上げてきたかを、彼女は誰よりも知っていたからだ。


「ああ。俺も最初は驚いた。営業一筋だった俺に何ができるのか、とな。

 だがな、以前提出したあの計画書……『余白の哲学』を盛り込んだ組織改革の案が、経営層の目に留まったらしい。効率だけを求める今の組織に、あえて『立ち止まる時間』を導入しろ、それがお前の仕事だ、と言われたよ」


 陽介は、自分の個人的な庭での気づきが、公の組織に認められたことの不思議さを語った。

 仕事の挫折から逃げ込むように始めた庭仕事。

 非効率な手間に救われた心。

 それが、回り回って彼を新しいキャリアのステージへと押し上げたのだ。


「陽介さんのあの苦労が、そんな形で報われるなんて……」


 美和の瞳が、月光を反射して潤んでいるように見えた。


「本当におめでとう、陽介さん。

 あなたはいつも、家族のために必死で変わろうとしてくれたもの。それがお仕事でも認められたのは、私も本当に誇らしいわ」


「ありがとう、美和。お前がピザ窯を作ろうと言ってくれなければ、俺は今でも数字の亡霊になっていただろうな」


 陽介は美和の言葉に深く感謝した。だが、同時に彼の中には別の感情も芽生えていた。


「だがな、美和。喜んでばかりもいられないんだ」


 陽介は、高橋部長から言われた「戦場が変わる」という言葉を反芻した。


「営業は敵が外にいる。だが、人事は社内すべてが相手だ。

 俺が提唱する『余白』は、現場の人間からすれば、ただの甘えやサボりに見えるだろう。立ち止まることがいかに成果に繋がるか、それを証明し続けなければ、俺の哲学はただの綺麗事として切り捨てられる」


 彼は、新しい職務の重圧を美和に正直に話した。理想を語ることは容易だが、それを硬直化した組織に根付かせるのは、荒れ果てた庭を一人で開墾するような孤独な作業になるだろう。


「……忙しくなるのね?」


 美和が静かに問いかけた。

 その言葉には、夫の成功を願う気持ちと、それによって失われる「時間」への本能的な予見が込められていた。


「ああ。立ち上げの時期は、これまでの比ではないかもしれない。帰りが遅くなることも増えるだろう。子供たちが巣立って、ようやく二人でゆっくりできると思った矢先に、これだ」


 陽介は申し訳なさに目を伏せた。

 咲は旅立ち、翔は帰ってこない覚悟で自立の道へ進んでいる。今、佐藤家という城に残されたのは、陽介と美和の二人だけだ。

 その二人きりの時間を、仕事という名目で真っ先に削らなければならない。


 美和はしばらく黙って、冷めかけたお茶を見つめていた。夜風が彼女の髪を揺らす。


「さあ、戻りましょうか。身体が冷えちゃう」


 美和が立ち上がり、空になったマグカップを片付けた。


「ああ。明日は早いんだ」


 二人は庭を後にし、リビングへと戻った。

 陽介は最後にもう一度だけ庭を振り返った。月明かりに照らされたハーブたちが、風に揺れて、まるで新しい門出を祝っているように見えた。


 リビングの明かりを消し、二人は二階の寝室へと向かう。

 翔の部屋のドア、咲の部屋のドア。その前を通り過ぎる時、以前のような「取り残された」という寂しさはもうなかった。そこにあるのは、彼らが立派に巣立っていったという、静かな誇りだけだった。


「おやすみなさい、陽介さん」

「おやすみ、美和」


 暗闇の中で、陽介は自分の呼吸を整えた。

 明日からは、人事部人材育成課長としての新しい戦いが始まる。

 冷笑されるかもしれない。孤立するかもしれない。


 だが、彼には帰るべき庭があり、待っている妻がおり、そして何より、自分の中に揺るぎない「余白の哲学」がある。

窓の外では、三月の風が静かに吹いている。


 冬は終わり、春が来る。

 佐藤陽介の、そして美和の「第二の人生」の幕開けは、満月が照らす静寂の中で、確かな熱を持って刻まれていた。

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