佐々木からの感謝:右腕への継承
三月末の慌ただしい空気の中、その日の業務終了を告げるチャイムは、どこか切ない余韻を持って響いた。
陽介がデスクの片付けを始めると、隣のデスクでずっとPCに向かっていた佐々木が、意を決したように立ち上がった。
彼の表情には、いつもの明るい愛嬌だけでなく、どこか改まった、湿り気を帯びた真剣さが宿っていた。
「佐藤さん、お疲れ様です。……もし今日、お時間が許すなら、少しだけ飲みに行きませんか。最後ですから、僕に奢らせてください」
佐々木の声は少し震えていた。陽介は、その震えの中に、彼がこの数時間飲み込んできたであろう膨大な感情を感じ取った。
陽介は微笑み、「ああ、喜んで。でも割り勘だぞ」と返し、二人は会社を後にした。
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向かったのは、駅から少し離れた場所にある、古びたが清潔な居酒屋だった。騒がしいカウンターを避け、佐々木はあらかじめ予約していた奥の個室へと陽介を促した。
運ばれてきたビールで乾杯し、最初の一口を飲み干すと、佐々木は深く、長く、溜まったものを吐き出すようにため息をついた。
「……信じられないですよ。佐藤さんが人事部の人材育成課長だなんて。いや、佐藤さんなら当然なんですけど、僕ら営業部は、明日からどうすればいいんですか」
佐々木は苦笑しながら、お通しの枝豆を手に取った。
会話は最初、残された業務の引き継ぎや、後任の体制についての事務的な話に終始した。しかし、二杯目のハイボールが届く頃、佐々木は急にグラスを見つめたまま、声を落とした。
「佐藤さん。……実を言うと、僕、二年前くらいに一度、会社を辞めようと思ってたんです」
陽介は驚いて佐々木を見た。佐々木は、常に前向きで、陽介の最も信頼する部下だったからだ。
「あの頃の佐藤さん、覚えてますか。……怖かったですよ、本当に」
佐々木は、陽介が「庭」に出会う前の、数字と効率だけを追い求めていた時代を語り始めた。
「あの頃の佐藤さんは、今のこの会社を象徴する存在でした。
無駄を嫌い、感情を切り捨て、ただ達成率のグラフだけを見ている。僕がミスをすれば、原因をロジカルに詰め、改善策を最短で出せと迫る。
……もちろん、それは仕事として正論でした。でも、心が死んでいくのがわかったんです。このまま、僕も佐藤さんみたいに、冷たい機械になっていくんだろうなって、絶望してました」
陽介は胸が痛んだ。かつての自分が、部下にとってどれほど冷徹な壁であったかを、改めて突きつけられた。
「でも、ある時期から……佐藤さんが変わったじゃないですか」
佐々木は声を上げて笑ったが、その瞳は少し潤んでいた。
「でも、佐藤さんが『余白』って言葉を使い始めてから、僕らの課は変わりました。
僕が大きな失注をして、本当に死にたいような気分で報告に行った時、佐藤さんは『まず座れ。そんな顔してちゃ新しい発想は出ない。十五分だけ、外の空気を吸ってこい。その後で、どうしてこうなったかじゃなくて、次はどう面白くするかを話そう』って言ってくれましたよね。
……あの十五分の余白がなかったら、僕は今、ここにいません」
佐々木は、居住まいを正し、陽介の目をまっすぐに見つめた。
「佐藤さんに教えてもらったんです。
仕事は、削ぎ落とすことじゃなくて、積み上げることなんだって。手間をかけ、余白を楽しみ、人を人として大切にすることが、結果として一番強い組織を作るんだって。
……佐藤さん、人事部に行っても、それを証明し続けてください。僕はこの営業部で、課長が残してくれたこの『空気』を、絶対に守り抜きますから。
次に来る上司が誰であっても、僕が、僕らが、この哲学の盾になります」
陽介は、言葉が出てこなかった。喉の奥が熱くなり、視界が滲む。自分が庭で、孤独に始めた小さな挑戦が、いつの間にか後輩の人生を救い、そしてその意志が受け継がれようとしている。
「……佐々木」
陽介は、佐々木のジョッキを自分のジョッキで軽く叩いた。
「ありがとう。……お前は、俺の最高の部下だった。いや、部下じゃないな。俺の哲学を、現場で一緒に証明してくれた、最高の戦友だ。
俺が人事で戦えるのは、お前という最初の成功例が、ここにいてくれるからだよ。自信を持って、お前らしく、この課を引っ張ってくれ」
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個室の外からは、年度末を楽しむ他のサラリーマンたちの喧騒が聞こえてきたが、二人の空間は、静かで、清々しい喜びに満ちていた。
「五年後、いや三年後ですね。僕、佐藤さんが作った新しい人材育成プログラムの第一号として、もっとすごい男になって人事に乗り込みますから」
「ああ、期待してるよ。その時は、今度こそ俺が奢ってやる」
二人は最後の一杯を飲み干した。居酒屋を出ると、夜風はまだ冷たかったが、陽介の背中はこれまでにないほど軽かった。
佐々木と別れ、駅のホームに立つ陽介。
自分の歩んできた道は、間違っていなかった。会社という冷徹な組織の中でも、たった一人の「変化」と、それを支える「余白」があれば、人は救われ、文化は変わる。
陽介は、夜空を見上げ、自宅の庭に咲いているであろう小さなハーブたちを想った。
(さあ、明日からは、会社全体の『余白』を作る戦いだな)
陽介は、確かな手応えと、戦友からもらった熱い勇気を胸に、自宅へと向かう電車に乗り込んだ。




