人事部への異動:哲学が評価された瞬間
三月も終わりに近づき、会社は年度末特有の、落ち着かない、乾いた緊張感に包まれていた。
数字を追い込む最終局面であり、誰もが疲れと焦燥を顔に滲ませていた。
営業部のフロアでは、電話のベルがひっきりなしに鳴り響き、キーボードを叩く音が、忙殺される時間のリズムを刻んでいた。
佐藤陽介もまた、営業部職員として最後の年度締めに向けて奔走していたが、彼の心は、以前とは全く異質な平穏を保っていた。
彼のデスクの上には、焦りや苛立ちといった感情が渦巻くことはなかった。彼が庭で培った「焦らず、しかし着実に手間をかける」という哲学が、忙しい日々の中でも、彼の中に確固たる心の余白を生み出していたからだ。
一方で、家庭では、咲が旅立ち、翔が厳しい自立への道を選んだことで、家の中は静けさに包まれていた。
美和と二人きりの生活は、まだ始まったばかりで、その新しいリズムに慣れようとしていた。夕食の準備も、以前のように大量に作る必要がなくなり、美和は持て余した時間の中で、自分の小さな趣味を探し始めていた。
(あいつらは、もう自分の力で歩き始めた)
陽介は、ネクタイを締めながら、そう静かに安堵していた。
子供たちの自立を見届けたことで、彼の人生の一つの大きな役割が終わり、次は美和との新しい共同生活、そして自分の仕事への集中へと意識が向かっていた。
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そんな年度末の午後、陽介は部長秘書から内線で呼び出しを受けた。社長室へ来るように、という簡潔な指示だった。
社長直々に呼ばれるのは珍しく、陽介は少し緊張しながらも、何か大きなプロジェクトに関する話だろうと予想した。
社長室は、いつもながら、静かで重厚な空気に満ちていた。室内の大きな窓からは、三月の冷たい日差しが差し込み、磨かれたテーブルの上を照らしている。
社長は、陽介の顔を見ると、穏やかな笑みを浮かべ、一枚の辞令を差し出した。
「佐藤君、君の活躍には感謝している。特に、人材育成に関する君の提案は、経営層で高く評価された。そこで、新しい道に進んでもらうことになった」
陽介は、背筋を伸ばし、辞令に目を通した。彼の視線は、瞬時に「人事部」という文字で止まった。
辞令:人事部 人材育成課 課長
陽介は、驚きで呼吸が一瞬止まった。
彼は営業畑一筋でキャリアを築いてきた人間だ。人事部は、彼の専門知識が全く通用しない、完全に畑違いの部署である。しかも、単なる異動ではない、課長への昇進を伴っていた。
(人事部……人材育成……俺が?)
彼の頭の中を、様々な感情が駆け巡った。戸惑い、不安、そして、その一方で、自分の「余白の哲学」が、会社の最も重要な根幹である「人」に関する部署で試されるという、期待と興奮が混ざり合っていた。
社長は、陽介の驚きを見透かしたように言った。
「君の提案は、単なる営業戦略ではなかった。それは、社員が創造性を発揮するための『時間と心の余白』をどう創り出すか、という、組織の文化に関わる本質的な提案だった。それを実行できるのは、君しかいない」
社長の言葉は、陽介の胸に深く響いた。彼の個人的な、庭での経験に基づいた哲学が、ついに会社という公の場で、「使命」として与えられたのだ。
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社長室を出た後、興奮と困惑が収まらない陽介は、間もなく、以前の上司である高橋営業部長に呼び出された。
高橋部長の部屋は、社長室とは違い、書類や資料が山積みになった、いかにも営業部らしい雑然とした熱気に満ちていた。
高橋は、デスクに座ったまま、陽介が入ってくると、深いシワを刻んだ顔に、少し寂しげな、しかし誇らしげな笑みを浮かべた。
「佐藤、昇進おめでとう。まさか人事に行くとはな。うちの部としては痛手だが、お前の道だから、しょうがない」
高橋は、そう言うと、陽介の肩を強く叩いた。
「驚いただろう? お前が人事に行くことになったのは、他でもない、お前が提出した、あの計画書のおかげだ」
陽介は、あの時、自分のキャリアの集大成として、高橋に託した計画書を思い出した。
それは、過度な効率化が社員の疲弊と創造性の欠如を招いている現状を指摘し、「勤務時間内に、あえて非効率な内省と休息の時間を設けるべきだ」という、「余白の哲学」を基盤にした大胆な提案だった。
「あの時、私はお前の熱意に賭けた。しかし、まさか人事のトップまで通るとは思わなかったよ。特に、人事部門を統括する専務が、『今の社員には、立ち止まる時間が必要だ』と、お前の考えに強く共鳴したそうだ」
高橋は、自分のデスクの隅にあるコーヒーカップを手に取りながら、続けた。
「お前は、営業の数字だけでなく、『人の心』という、最も計測しにくいものを、どうやって回復させるか、という本質的な問いを投げかけた。
それが、会社が今、最も求めている答えだったんだ」
陽介は、高橋の言葉を聞きながら、胸が熱くなるのを感じた。
自分の個人的な、そして家族との絆を修復するために生まれた哲学が、会社の未来を担う人材育成という、大きな使命に繋がった。
それは、この一年間、彼が歩んできた道のりが、決して無駄ではなかったことの、何よりの証明だった。
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高橋は、コーヒーを一口飲むと、急に表情を引き締め、厳しさを滲ませた。
「だがな、佐藤、、、いや、佐藤課長。油断するな。戦場が変わったことを忘れるな」
高橋の言葉は、陽介の興奮を鎮め、現実へと引き戻した。
「営業は数字で結果が出る。利益を上げれば、皆が納得する。しかし、人事の『人材育成』は違う。お前が提唱する『余白』という非効率な手間は、目先の効率を重視する現場の社員からは、必ず反発を食らう」
高橋は、椅子から立ち上がり、陽介の目の前まで歩み寄った。
「お前は、皆に『立ち止まれ』と言うんだ。だが、立ち止まることの『成果』を、数字で示すことは難しい。
お前の哲学は素晴らしいが、それを組織の成果として実現するのは、営業でトップの成績を出すよりも、遥かに難しいかもしれないぞ」
その言葉は、優しさではなく、長年、組織の軋轢を見てきた高橋の、厳しくも真摯な警告だった。
人事部は、会社の理念と、現場の現実という、二つの巨大な力の板挟みになる、最も困難な部署の一つだ。
「お前の『非効率な手間』は、他の部署からは、ただの綺麗事、あるいはサボりと見なされるリスクがある。数字で結果を出せないと、お前の哲学は、すぐに組織から排除される」
陽介は、その厳しさに、背筋が凍るのを感じた。
確かに、彼はこれまで、庭で、家族という小さな共同体の中でしか、この哲学を実践してこなかった。会社という、利害が複雑に絡み合う巨大な共同体で、この哲学を根付かせることは、想像を絶する困難を伴うだろう。
しかし、高橋の眼差しは、再び優しさを帯びた。
「だが、お前ならできる。
なぜなら、お前の哲学は、頭で考えた理想論ではなく、お前自身の人生と家族の再生という、血肉の通った経験から生まれたものだからだ」
高橋は、力強く陽介の肩を掴んだ。
「今の会社には、お前の発想が必要なんだ。この異動は、お前が庭で培った哲学を、会社という大きな共同体で実践する『使命』を与えられたということだ。期待しているぞ、佐藤課長」
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高橋部長の部屋を出た後も、陽介の胸の鼓動は激しく、全身が熱を帯びていた。
人事部への異動、人材育成課長への昇進。それは、単なるキャリアアップではない。
それは、彼自身の個人的な「庭の経験」と「余白の哲学」が、会社という巨大な組織の文化を変えるという、想像以上に大きな「使命」として結実した瞬間だった。
(俺の人生は、ここに来るために、あの庭で手間をかけていたのかもしれない)
彼は、自分がこれまで歩んできた、仕事での挫折、家庭での苦悩、そして庭での再生の全てが、この新しい役割のために必要な「余白」であり、「知識」であったように感じた。
咲には「温かい共同体」を、翔には「厳しい自立」という試練を与え、子供たちの自立を見届けた今、陽介自身にも、自己実現の総仕上げという、最後の大きな挑戦が待っていた。
彼の心は、不安よりも、未知への挑戦に対する純粋な興奮で満たされていた。
彼は、この異動を、人生の新しい扉、そして、自分の哲学を証明する大きなチャンスだと捉えた。
彼の新しい「余白」の創造は、会社という戦場で、今、始まろうとしていた。




