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42歳のすみかは庭になりました  作者:


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42歳、コーヒーを飲む

 日曜日。陽介は、昨日の七輪での成功体験の心地よい余韻とともに目覚めた。


 炭火で焼いたソーセージの香ばしさ、そして何よりも、長男・翔との「言葉のない共有」が、彼の心に確かな充足感をもたらしていた。彼の体は健全な疲労で満たされており、週末の朝にありがちな虚無感は影を潜めていた。


 リビングで朝食を準備している美和に、「おはよう」と声をかけると、美和はいつもより穏やかな表情で陽介を見た。


「おはよう、陽介さん。昨日は楽しかったみたいね」


 その言葉に、陽介は少し照れたように「ああ、楽しかったよ」と答えた。しかし、美和の次の言葉は、陽介の心にわずかな罪悪感を呼び起こした。


「ただね、庭の七輪、ちゃんと片付けたのは知ってるんだけど、焦げ臭い匂いが、まだ家の周りに残ってるのよ。昨夜、近所の人が通った時、ちょっと気まずかったわ」


 美和の声は、責めるというよりも、配慮を促すような、やんわりとしたものだった。

 しかし、陽介にとっては、せっかく見つけた「心の避難所」が、「家族や近所への迷惑」という現実に直面させられる、小さな打撃だった。


(やっぱり、家族には迷惑なのかな…)


 陽介の顔に、一瞬、いつもの仕事のプレッシャーに晒されたときのような萎縮と自己嫌悪の影が差した。自分の趣味が、結局は周囲に波風を立てる行為なのではないかという不安が頭をもたげる。


 彼の庭遊びは、まだ始動したばかりの、繊細な活動だった。


 陽介はすぐに謝った。「ごめん、美和。煙を出すことばっかり考えてたけど、匂いまでは気が回らなかった。次は、もっと気をつけるよ」


 その謝罪を聞いた美和は、陽介の隣に立ち、彼の手に自分の手を重ねた。その体温が、陽介の緊張を和らげる。


「謝ってほしいわけじゃないの。あなた、昨日すごく楽しそうにしてたから」


 美和は、陽介の目を見つめ、静かに、しかし力強く続けた。


「あのね、陽介さん。ここ数年、あなたが家に帰ってきて、あんなに心から笑っている顔を見たの、久しぶりだった。週末も、ただゴロゴロして、どこか虚な目をしてるのが、私、ずっと心配だったから」


 美和の言葉は、陽介の予想を裏切るものだった。彼女が気にしていたのは、匂いや近所の目よりも、陽介自身の精神的な状態だったのだ。

 陽介が趣味を通じて「心の活力を回復している」ことへの安堵が、彼女の言葉の根底にあった。


「だからね、迷惑とかじゃないの。ただ、あなたがまたすぐに燃え尽きちゃうんじゃないか、それだけが心配なの。細く長く、続けてほしいから、私が代わりに近所の目とか、火の始末とか、細々とした不安を見ておくから」


 美和の言葉は、彼の活動への無条件の承認と、それに伴う「肯定的な気遣い」だった。陽介の庭遊びは、美和にとって、夫の精神的な健康を維持するための「必要な行為」として、完全に位置づけられたのだ。


「…『楽しそう』って、そんなに?」


 陽介は、自分の笑顔が美和にとって、そこまで大きな意味を持っていたことに驚き、そして深い感謝を覚えた。彼は、仕事の場で貼り付けていた「営業スマイル」とは全く違う、「心からの笑顔」を、美和がちゃんと見ていてくれたという事実に、心が温かくなるのを感じた。


 美和のこの言葉は、陽介にとって、自己否定的な感情を打ち消す、最も強力な肯定となった。彼は、この活動が自己満足で終わるのではなく、家族の安心にも繋がっていることを知り、庭遊びを続ける決意を新たにした。


「ありがとう、美和。次からは、もっと煙の少ない炭を使ったり、匂いがこもらないように風向きを気にしたり、道具も工夫するよ」


 陽介は、単に「気を付ける」だけでなく、具体的な対策を口にした。それは、美和の信頼に応えたいという気持ちと、彼の内に宿った「趣味への探究心」の表れだった。

 美和は、満足そうに頷き、彼の背中を優しく叩いた。


 この朝の会話は、陽介の庭遊びが、「孤独な避難所」から、「夫婦の信頼関係を再構築する接点」へと発展する、重要な一歩となった。



---



 美和との会話で、陽介は自分の活動が家族に受け入れられていることを再確認したが、その一方で、自分の「庭遊び」の本質的な目的について、改めて考える必要を感じていた。


 美和の言葉は温かかったが、陽介自身の心が本当に求めているものが何なのか、それは「誰にも邪魔されない、孤独な自己回復の時間」であるべきだ、と彼は感じていた。


 陽介は、再び折り畳み椅子をコンクリートの叩きの上に広げた。ランタンは使わず、昼間の自然な光の中で、彼は静かに座る。


(ここは、誰かのためじゃなく、俺自身のための場所だ)


 彼は、インスタントコーヒーのパックを取り出し、卓上コンロで少量の水を沸かす準備をする。

 この「一人で何かを創り出す」という行為そのものが、彼の疲弊した心を支える構造物だった。仕事では常に誰かの評価や指示に晒されるが、ここでは、すべての決定権が彼自身にある。この小さな庭が、陽介にとっての「主権が回復される場所」だった。


 湯が沸き、彼はインスタントコーヒーをマグカップに注いだ。深呼吸をして、立ち上る湯気とコーヒーの香りを深く吸い込む。


 この静寂の中で、彼の頭は自然とクリアになっていく。彼は、昨日までの会社での出来事を、まるで他人事のように冷静に分析することができた。


(高橋部長のあの叱責は、本当に俺のミスだったのか?  いや、あの案件はそもそも無理があった。俺が感情的になる必要はなかった)


 仕事の失敗や、抱えていたノルマのプレッシャーが、庭の静けさの中では、その巨大な脅威としての威力を失っていく。彼は、問題の核心と、それに対する自分の冷静な対応策を、紙に書き出すことなく、頭の中で整理することができた。


 それは、「仕事や家族、全ての責任から一時的に解放される」、純粋な「自己対話」の時間だった。誰にも聞かれない、誰にも否定されない、自分だけの思考空間。この時間がなければ、彼は再び、リビングで無言のままテレビを見つめるだけの、疲弊した父親に戻ってしまうだろう。


 コーヒーを飲み終え、陽介の思考は、家族の課題へと移る。


 長男・翔の部活への熱中と、将来の進路。そして、長女・咲の友人関係や勉強への態度。これらについても、陽介は感情的な「父親としての焦り」ではなく、一人の冷静な観察者として考えを巡らせた。


(翔は、今は部活に集中したい時期だろう。俺が「勉強しろ」と口を出すのは、かえって逆効果だ。彼の「集中力」を信じて、今は見守るのが最善だ

 咲は、自分の世界を持っている。俺がすべきは、彼女の世界を否定せず、彼女が困った時にいつでも話せる「安全基地」を築くことだ)


 彼は、椅子に座って、ただ庭の荒れた芝生と、先日抜いた雑草の痕跡を見つめているだけだ。しかし、この「何もしない時間」こそが、彼に「良い判断」を下すための精神的な余白を与えてくれていた。


 陽介は、庭での活動が、単なる気晴らしや趣味ではなく、自分の人生を健全に運営していくための、不可欠な「心のインフラ」であると、改めて強く自覚したのだった。


 この小さな庭こそが、彼が42歳で失いかけた自己肯定感と判断力を取り戻す、唯一の場所だった。

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