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70:剥がれた仮面

□百均の十字架


 前後を敵に挟まれた絶体絶命の状況で、おれは打開策を模索していた。

 とはいえ、こんな状況で打つ手はそんなに多くない。


「美帆さん、信じてもらえないかもしれませんが、あの男……」

「ヴァンパイアなのね」


 おれの呟きを美帆さんは冷静に拾っていた。

 意外なほど落ち着いた声で。


「そうです。だから」

 おれはズボンのポケットをまさぐり、ナイロンの小袋を取り出した。


「美帆さん、これを飲んでください」

「これ…… なに?」


 差し出した小袋の中には、白っぽい粉末。


「ガーリックパウダーです。これを飲めばヴァンパイアも美帆さんを襲うのを躊躇するはずです」


 粉の正体を明かすと、美帆さんは目を大きく見開いた。

 そして次の瞬間、小さな悲鳴とともに彼女は袋を手で払いのけた。


「きゃっ!」

 小袋はおれ達とおネェの間にポトリと落ちる。


「美帆さん、どうして!?」

「ごっ、ごめんなさい。私、にんにくの臭いが苦手なの。でも、どうしてそんなものを?」


 まさか美帆さんがここまでにんにくを嫌がるとは思わなかった。

 確かに女性は口臭を気にするとは思うが。


「あらやだ、こんな状況で痴話喧嘩ぁ? けっこう余裕が、あ、る、の、ね」

 ふざけるな、余裕なんてあるわけないだろ。


「美帆さん、下がって!」

 美帆さんを商品ラックの陰へ下がらせると、おれは首にかけていた十字架を取り出し、余裕をぶっこいているおネェに向けた。


 一歩踏み出すとおネェは一瞬怯んだが、すぐにニヤリと笑みを浮かべる。


「後ろに下がれ、化け物!」

 背後から走る靴音が聞こえ、反射的に振り向くと男が立ち止まっていた。


 後ろから襲われると覚悟し身構えたが、男は微動だにしない。

 再びおネェへと視線を戻すと、奴は男に向かって手のひらをかざしていた。


 おネェが男を止めたのか?


 もしかして、下僕か……

 男はピクリとも動かない。


 でも、どうして?

 どうしておれを捕まえさせないのか疑問に思っていると、おネェがおれに近づいてきた。


「下がれ!」


 おネェに十字架を向けている。

 はずなのに……


 おかしい、おネェは全く十字架を恐れていない。


「あっらぁ~、どうしたのかしら? すっごい引き攣った顔してるわよぉ?」

 おネェはおれをあざけるように笑う。


 くっそ、十字架が効かない。


 どうしてだ、ヴァンパイアは十字架に弱いんじゃなかったのか?

 まさかと思うが、百均で買った安物の十字架じゃ効果無いのか!?

 ダミアンは嫌がっていたのに。こいつらにも個人差があるのか?


「下がれっ!」

 それでもおれは一歩、踏み込む。


「ふんっ、私に向かってくるなんて、度胸があるわね」

 くっそ、駄目だ、全然通じない。

 なんだっけ、なにか大事なことを忘れている気がする……


 十字架に効力を持たせるには……


 おれは立ち止まった。

 おネェもおれの一歩前あたりで止まって、おれを見おろしている。

 自然と体が震えた。


 ヴァンパイアを目の前にし、昔マチャミに薦められて観た吸血鬼映画のワンシーンが頭をよぎる。

 そうだ! 信仰心だ!


 神様を信じないと十字架は効果を発揮しない。

 おれは神様、十字架だからキリストにお願いをした。


「キリスト様、どうかこの吸血鬼を退治してください! お願いします、お願いします!」

「ふんっ、苦しいときの神頼みってやつ?」


 おれの念仏のようなお祈りを、おネェは鼻で笑うと、おれの手から十字架を奪い取った。

 そして、大きな足で容赦なくおれを蹴飛ばす。


「ぐはっ!!」

 おれの体は無様に宙を舞い、床を転がった。


「ほんっと、不快よねぇ。このバッテン」

 おネェは百均の十字架を指で折り曲げると、後ろに投げ捨てた。


「ねぇ、あんた。こんなところに何しに来たの?」

 おネェはゆっくりと、おれとの距離を詰める。


「あわわわわっ」

 喉が引きつり、まともに声が出ない。

 おれは尻もちをついたまま、後退りをした。


 やばい、このままだと殺される。


「何しに来たのって訊いてるのよ! 早く答えなさい!」

 おネェはヒステリックに叫ぶ。

 お気が短いようだ。


 おれは後退りしながら美帆さんを見た。

 美帆さんは、商品ラックに無造作に寄りかかり、じっとこちらを観察している。


 そのとき、手に何かつるっとしたものが手に触れた。

 これは?


 おネェはおれにつられて、美帆さんの方を見ている。

 今だ!


 おれは手にした小袋を開け、勢いよく中身をおネェの顔にぶちまけた。


 白い粉が舞い上がる。

 おネェは一瞬、キョトンとした顔をしたが、次の瞬間、


「ギャァァァァッ!」


 おれはすぐに立ち上がり、美帆さんがいる商品ラックへと駆け寄った。

 おネェは顔を押さえてクルクルと回っている。


「美帆さん!」

 おネェを見ていた美帆さんは、ハッとしたようにおれを見た。


「逃げますよ」

 おれは頷く美帆さんの手を強く引っ張り、中央の扉を目指して走り出す。


「あああああ」

 回るのをやめ顔から手を離したおネェの姿を見て、おれは思わず息を呑んだ。


 おネェの顔は腐ったようにただれ、口からは長い犬歯がはみ出していた。

 そしてその瞳は、血のように真っ赤に光って……


 ヴァンパイア、あれが本当の姿なんだ。


 その姿は、目を背けたくなるほど異様で醜悪だった。

 幸い、ヴァンパイアはまだ放心状態だ。


 おれは小窓を開け、美帆さんを持ち上げた。


「えっ、ちょっと…!」

 美帆さんは驚きの声を上げたが、かまっている時間はない。


 おれは美帆さんの脚を小窓に入れ、背中と尻を持って支えた。

 美女の柔らかい尻の感触が左手に伝わる。

 こんな状況じゃなければ、ラッキースケベにちょっと興奮したかもしれない。


「ちょ、ちょっと待って!」


 美帆さんは戸惑った声を上げたが、おれはそのまま美帆さんを窓枠に座らせた。

 これで、頭から落ちる心配はない。


「大丈夫です。早く外に出てください」


 美帆さんは頷き、尻を滑らせるようにして下に落ちて行った。

 窓枠で背中を擦っただろうな。


 ふと足元に目をやると、ラックの下でぼんやりと光るものを見つけた。

 こんなところにあったのか。

 おれはしゃがんでラックの下に手を伸ばし、ライトがついたままのスマホを尻ポケットに入れた。


「あんた、早く捕まえなさい!」

「はい!」


 背後から、おネェの甲高い声と、それに応じる男の低い声が背後から聞こえた。

 急がなきゃ、まずい!


 おれは小窓の縁をつかみ、頭から外に出ようと上半身を窓枠の外に出す。

 外はもう暗くなり、外廊下の照明がぼんやりと周囲を照らしている。


「吉野くん、早く!」


 外には美帆さんがいて、小窓から出たおれの上半身を抱きかかえるように、脇に手を回して支えてくれた。

 と同時に、「バン!」という扉の音が響いた。


 男が扉を開けてバックヤードに入ったのだろう。


「引っ張るわよ」


 おれは美帆さんに抱きついた。

 美帆さんの頬がおれの頬に触れ、荒い息が首筋にかかる。


 美帆さんがおれの体を引っ張ると、おれの体はスルリと小窓から抜け、美帆さんの柔らかな身体の上に倒れ込んだ。


「だっ、大丈夫ですか?」

「ええ、大丈夫よ」


 美帆さんの髪から漂う甘い香りが鼻をくすぐる。

 命の危機を感じながらも、一瞬でもこんなことを考えてしまうのは男の性だな。


「吉野くん、早く逃げましょう」

 彼女の焦った声に我に返り、慌てて体を起こす。


 しかし、振り返った瞬間、目の前に現れた光景に言葉を失った。

 小窓から突如、巨大なコウモリが飛び出してきたのだ。


「くっ!」


 おれは美帆さんの手を引っ張って起こすと、ファミレスのほうへ向かって駆け出した。

 暗いといっても、まだ七時を少し過ぎたばかりだ。

 ビルの駐車場側に出れば大勢の人がいる。

 いくらヴァンパイアでも、そんなところに姿を現さないだろう……

 そう信じたい。


 空き店舗の裏口、金属のぶつかるような音が響いた。

 男がドアの鍵を開けているんだろう。


 おれ達はファミレス横の通路を通って、ビルの反対側へ出ようとした。

 のだが、通路には楽しそうに話す小学生たちの姿があった。


「吉野くん、あっちはダメ」


 美帆さんはヴァンパイアを連れて、小学生の団体の中を突っ切ることを良しとしなかった。

 おれもそうだ。

 いくらなんでも小学生を巻き添えにできない。


 おれは美帆さんの手を引っ張って、外廊下を走った。


「吉野くん、ここを上りましょう」

 美帆さんが指差したのは、鉄製の階段だった。


 おれ達は階段を駆け上がり、三階の駐車場へ逃げ込もうとしたが、大きなコウモリが邪魔をしてきた。


「くそっ!」


 おれたちは折り返し、さらに上の階へと走る。

 階段を駆け上がる音が夜の静寂を打ち破る中、ただ前だけを向いて。


 背後に迫る脅威を振り切るために。

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