65:甘い距離と、冷たい気配
◇三十五日目【7月14日(日)】
■五時上がりの約束
バイトも三日目になると、少し慣れてきた。
ピークタイムが過ぎた休憩時間、おれはソファに腰を沈めてようやく一息つく。
「吉野くん、ちょっといい?」
ふわりと甘い香りがして、隣に気配を感じた。
美帆さんが隣に腰を下ろす。
制服の半袖ブラウスにペンシルスカート。
柔らかそうな美帆さんの二の腕が、触れそうで触れない距離にある。
「なんでしょう」
おれは美帆さんと近づき過ぎないように、少し距離をとって座り直した。
「……なんでそんなに離れるの?」
ぷくっと頬を膨らませる美帆さん。
可愛いな、この人。
「あんまり近いと、その、チカンに間違えられるかなと思って……」
「私が隣に座ったんだから、そんなわけないでしょ」
まぁ、そうなんだけど。
おれはあいまいに笑った。
でも、こんなに綺麗な人に近づかれると緊張してしまう。
……それにしても、なんだろう。
今日の美帆さんはいつもと違うような気がするけど。
美帆さんに気づかれないように、深く息を吸い込む。
相変わらずいい匂いがした。
「今日は何時に上がるの?」
「うぐっ。 ゴホッゴホッ」
「どうしたの? 大丈夫?」
「大丈夫です。今日も五時上がりですけど」
ここで、咳ばらいを一つ。
やばいやばい、美帆さんの匂いを嗅いでいる最中に話しかけられて、思わず咳き込んでしまった。
「私も五時で上がるんだけど、今日時間あるかな」
じっと目を覗き込まれる。
え、なにこれ。
まさかの…… デートのお誘い!?
こんな綺麗な人が?
心臓がきゅっと跳ねる。
なんて返事を返そうか考えていると、
「実はね……」
……まぁ、そんなうまい話、あるわけないか。
□
バイトが終わり、着替えてから、美帆さんと前のバイトの話で盛り上がっていた。
気がつけば、もう一時間以上も話し込んでいる。
まずい。今日の日没は七時過ぎだ。遅くなったらダミアンがキレる。
「そろそろ行きましょうか?」
□
六時半過ぎ。
おれたちは例の空き店舗、その小窓の前に立っていた。
そう、昨日ここを開けたところを見られて、管理事務所の男に注意された、あの小窓の前だ。
今日、美帆さんを見たとき、なんとなく違和感があった。
その正体が、ようやく分かった。
あの高そうなヘアピンが無かったからだ。
昨夜、仕事帰りに変な臭いがするのに気づいて、美帆さんは小窓から中を覗いたらしい。
そのとき、カーテンにヘアピンを引っ掛けて、店舗の中へ落としてしまったという。
「管理会社の人、大丈夫ですかね? おれ、あの人苦手なんですけど」
「私も苦手。あの人、すごく怖そうなんだもの」
美帆さんも同じことを思っていたのか。
「でも、あの人に頼んだほうが早くないですか?」
おれは何気なく、防犯カメラを見上げる。
あれっ?
防犯カメラの向き、おかしくないか?
この辺りを映すはずのカメラが、180度、反対方向を向いていた。
「それは嫌。だってあの人、いつも私のことジロジロいやらしい目で見てきて、気持ち悪いんだから」
美帆さんはさらに、あの男に感じた嫌悪感を口にし、自分を抱きしめる。
あの男、そんなに美帆さんをジロジロ見たんだ。
気持ちは分からんでもないが。
おれも気を付けないと、気持ち悪がられてしまう。
ちょっと後ろめたいので、美帆さんから目を逸らした。
「くくくっ、吉野くんは大丈夫よ。男の子だもんね」
お腹を押さえて笑われた。
バレてたか。
おれが年下だから、許されたのかもしれない。
「すみません…… その、美帆さん、大人っぽくて綺麗なんで…… つい」
「うふふ、ありがとう」
前のバイトのときから思っていたが、魅力的な人だ。
「それとね、吉野くん。ついでだから言っておくけど、女の子の匂いを嗅ぐときは、あまり大きく息を吸い込まないほうがいいわよ。もう少し、さりげなくね」
「重ね重ね、すみません」
完全にバレてた……
埋まりたい。
「そうそう、昨日来てた二人組の可愛い女の子。髪の長いほうの子は、吉野くんのお姉さんじゃない?」
「えっ、どうしてわかったんですか」
「だって、目元が吉野くんによく似てたから。それに、一緒にいた元気な女の子が、吉野くんを探してたわよ。彼女?」
「違います。ただの幼なじみです」
「そうなの?」
「そうですよ。それより、はやくヘアピンを探して帰りましょう」
おれは小窓を開けて中を覗いた。
相変わらずクサいな……
鼻をつく強烈な臭いに、思わず顔をしかめる。
こんなところに美帆さんを入れるわけにはいかない。
さっさとヘアピンを回収して帰ろう。
おれは小窓に手をかけ、頭からするりと体を滑り込ませた。
すぐそばのラックの支柱を掴んで体をひねり、床に落ちないように足から着地する。
中は薄暗い。
七月半ば。
外は夏真っ盛りでうだるような暑さなのに、ここはやけにひんやりしている。
空調が効いてるのか?
でも、空き店舗なのにそれはおかしい。
周囲を見回す。
今おれ達がいるのは店舗の南側、ちょうど真ん中あたり。
二十メートルほど東には裏口の扉、反対の二十メートルほど西側には、おれが入ってきたのと同じような小窓があって、そこからわずかに光が差し込んでいる。
西側の壁沿いには、大型の冷蔵庫らしきものがズラリと並んでいた。
ここはおそらくスーパーのバックヤードだな。
これだけ大きい店なら、搬入口があるはずだけど。南側の壁には荷物やラックが無造作に積まれていて、どこにあるのかよくわからない。
バックヤードは横五十メートル、奥行き十メートルほど。
その向こうの売り場との間には板壁があり、中央には両開きの扉があった。
扉の上部には、小さな四角いガラス窓。間違いなく、売り場へ続く出入り口だ。
子どものころ母さんと来た記憶がよみがえる。
確か、入り口は北東の方角で東向き、そこにガラスの自動ドアがあり、自動ドアの両側もガラスだった。
売り場は南北に長い長方形。
広いが窓は無かったはずだ。
おれはあいまいな記憶をたどる。
……そうだ。南側の奥のほうから、店員さんが出入りしていたっけ。
それがこの両開きの扉だ。
「吉野くん、大丈夫?」
窓の外から、美帆さんの心配そうな声が聞こえた。
「大丈夫です」
尻ポケットからスマホを取り出して、ライトをつける。
カーテンに引っ掛けたと言っていたので、その下を探すが、目的の物は見当たらない。
「ちょっと見当たらないんですが、どの辺に落としたかわかります?」
小窓から、美帆さんが顔を覗かせた。
「この下あたりだと思うんだけど」
そう言いながら、美帆さんは腕を伸ばして指さす。
だが、そこにも何も落ちていない。
「吉野くん、私も入っていいかな?」
そう言うと、小さなバッグをおれに向かって放り投げ、そのまま小窓から身を乗り出してきた。
「えっ」
反射的にバッグをキャッチしたおれは、一瞬遅れて、頭から落ちそうになっている美帆さんの体を受け止めた。
「きゃっ!」
ドサッ
「ぐふっ!」
おれは無事、彼女を受け止めた……
が、見事に下敷きになった。
「いったぁ……」
美帆さんが小さく声を漏らす。
どうやらどこかをぶつけたらしい。
頭はおれの胸の上にあるので、大きなけがはしていないと思う。
左手で美帆さんの背中をしっかりと受け止めたからな。
でも、美帆さんの吐息が胸元にかかり、柔らかい重みが全身にのしかかっているこの状態は、意識するなという方が無理だ。
「大丈夫ですか?」
「うん…… 吉野くんは?」
「おれも大丈夫です」
背中をぶつけたみたいだが、どうせすぐ治るんだから気にはしない。
そんなことよりも……
ん?
右手に、ツルツルした柔らかい布の感触。
「ひっ……」
美帆さんが小さく息を飲んだ。
あれ? なんだこれ。
「吉野くん…… こんなところで、大胆ね」
美帆さんが顔を赤くしながら、おれをじっと見つめる。
……え?
おれは口をパクパクさせた。
倒れた拍子に、右手が触れてはいけないものに触れていた。
「うわぁぁぁっ!! ご、ごめんなさい! ごめんなさい!!」
慌てて美帆さんの体を押しのけ、おれは後ずさる。
そして、座ったまま前屈みになり平謝りに謝った。
それを見た美帆さんは床に女の子座りして、「男の子だからね」と手で口を隠して笑った。
どうやら許してもらえそうだ……
と思ったとき、笑いが急に止まった。
その視線の先は……
美帆さんは体勢を整えながら、気まずそうに目を逸らした。
何かを察したようだ。
そう、男の子だからしかたがないのだが。
……気まずい沈黙。
そのとき――
ガチャガチャ……
突然、静かな室内に鍵を開ける音がして、ドアが開くギーッという大きな音が響いた。
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