63:悪魔と国語の落とし穴
◇三十一日目【7月10日(水)】
■ははははながすき
「遅いぞ!」
学校から帰ってきて自室に入ると、ダミアンの第一声がこれだった。
貫頭衣をひらひらさせ、机の天板の端に座って足をぶらぶらさせながら腕を組んでいる。
ちょっと機嫌が悪そうだ。
おれはため息をつき、鞄を机の横に置いてから訊いた。
「今日は何を運んだらいいんだ?」
「なんのことだ?」
「隣の部屋に何か運んでほしいんじゃないのか?」
「それはもういい。それより琢磨、分からない言葉があるからちょっと教えろ」
こいつ、これだけ話せるのに、まだ日本語の勉強をしているのか。
無駄に勤勉だな、まったく。
「どこを調べても分からないのだが、「にわにはにわにわ」という名の鳥を知っているか?」
ダミアンはメモを見ながら、意味不明なことを訊いてきた。
「なんだそれ?」
「期待はしてなかったが、貴様にも分からんか」
こいつ、ちょっとムカつくな。
おれはグッと拳を握った。
ダミアンは再びメモに視線を落とした。
「それでは、「ははははな」というのはなんだ?」
なにそれ、こいつ何を言ってるんだ。
眉をひそめているおれの顔を見て、ダミアンは大袈裟なため息をつく。
「もういい、貴様に尋ねた吾輩がバカだった。進学校というのも大したことはないな」
こいつ、おでこにきっついデコピンを喰らわせてやろうか。
「ちょっと貸せ」
おれはメモをひったくり、そこに書かれた文を読む。
『にわにはにわにわとりがいる』
『ははははながすき』
……
おれはメモに文字を書き足し、ダミアンに突き返した。
「なになに? 庭には二羽鶏がいる? 母は花が好き…… だと?」
困惑気味だったダミアンの顔は、みるみるうちに赤く染まっていく。
「何だこの欠陥言語は! 吾輩は朝から悩んでいたのだぞ!!」
多少、同音異義語が多いだけで、欠陥言語は言いすぎだ。
とは言えないくらい、ダミアンは顔を真っ赤にしてお怒りモードだ。
「がはぁぁぁぁっ!」
ダミアンはまるで巨大な岩でも持ち上げるかのようなポーズを取りながら、天(井)を仰いでいる。
こいつ、見てる分には面白いな。
「イライラしてきたので、ちょっと出かけてくる」
そう言い放つと、ダミアンは勉強机から軽やかに飛び降り、一瞬でルナの姿へと変わった。
「おい、どこに行くんだよ」
√ 昼に吾輩を追いかけまわした、さかりのついたトラ猫を、しばき回してくるのだ。
「朝飯までには帰ってこいよ」
√ 分かった。
そう言って、窓から出ていった。
……トラ猫、可愛そうだな。
ちなみにこの晩、ダミアンは帰ってこなかった。
□
ダミアンを見送ってから、ダイニングへ向かった。
ちょうど晩ご飯の時間だ。
さっき姉ちゃんが「今日はハヤシライスよ」なんて言ってたし、すでに食欲をそそる香りが廊下まで漂ってきている。
ドアを開けると先客がいた。
「たっくん、おかえり! ななちゃんのハヤシライス、すっごく美味しいよ」
…… こいつ、いつ来たんだ?
さっき帰ってきたときはいなかったよな。
「琢磨もはやく座って。冷めちゃうわよ」
「うっ、うん」
姉ちゃんの向かいに座ると、どうしても斜め向かいに座る心優の胸元が視界に入る。
……いや、あの文字は何だ。
おれの視線に気づいた心優が、首を傾げる。
「どうしたの? たっくん?」
「お前、そのシャツ、なんだよ?」
心優のダボダボの白いTシャツの胸の部分には、毛筆楷書体で
『脱 糖質生活』
と書かれている。
「そうそう、私も気になってたんだけど」
姉ちゃんが首を傾げる。
「あぁ、これ? お母さんがピアモールで買ってきたんだよ。どう? 似合う?」
似合って嬉しいのか?
と突っ込みたい。
それでいいのか、女子として。
「あはは、みゅうちゃん。ハヤシライスって…… けっこう糖質多いよ」
「そうなの? でも気にしてないから大丈夫。おかわりしていい?」
姉ちゃんは苦笑しながら、皿を持ってキッチンへ向かう。
「そうそう、さっきお父さんから聞いたんだけど」
ん?
今日は帰りが早いな。
水曜日だから、おじさん、ノー残業デーか。
「今朝、お父さん、もうちょっとで交通事故に遭うところだったんだって」
「えっ?」
「あっ、それ会社でおじさんが言ってた。横断歩道を渡ってるときに、信号無視のオートバイに轢かれそうになったんだって。近くの倉庫の人が助けてくれたらしいよ」
姉ちゃんも聞いてたらしい。
「おじさん大丈夫だったのか?」
「まぁ、その人のおかげでケガはなかったんだけど、危ないよね。あっ、ななちゃん! ルー多めで!」
「はいはい」
「でね、その助けてくれた人っていうのが、すごくいい人みたいでね。えっと…… 田川さんっていうんだけど、今度一緒にランチに行くんだって」
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