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59:坂の上の、美しい絶望

■夏祭り


「と言うわけで採用になったから、明日からバイトに行くよ」


 ダイニングテーブルに店長から貰った書類を広げて、向かいに座っている姉ちゃんに説明する。

 すると、姉ちゃんはなんとも言えない表情でおれを見つめてきた。


「それ、面接関係なしに最初から採用するつもりだったんじゃない?」

√ 貴様、その前田という女に、上手く丸め込まれたな。


 おれは姉ちゃんとダミアンを交互に見た。


「たぶん、土日はすごく忙しいのよ。だから早くバイトを雇いたかったんじゃないかな」

「いや、でも土日はそんなに忙しくないって言ってたし」


√ 立ち話で採用が決まったのだろ。七花が言っていることは正しいと思うぞ。

 …… なんか不安になってきた。


「大丈夫? まだ断れるんじゃない?」

 姉ちゃんは学業に支障が出たり、体力を削られるようなバイトは避けてほしいんだろうな。


√ 残業とか強要されないだろうな。

 こいつは単純に、日が暮れるまでに帰って来れるか心配してるだけだ。


「もう行くって言ったし、断ると紹介してくれた人にも悪いから行ってくるよ。それに、姉ちゃんばかりに負担をかけたくないし」


 美帆さんに悪いからな。

 なんてことを考えていたら、姉ちゃんが目を潤ませていた。


「どうしたの? 姉ちゃん」


 おれは慌てた。

 何か傷付けるようなことを言っただろうか。


「ううん、琢磨がそう思ってくれてたのが嬉しいの。それに、高校生の琢磨にお金のことで心配かけてると思ったら、なんだか自分が情けなくなっちゃって……」


 姉ちゃんの声が細かく揺れたかと思うと、ぽろぽろと大粒の涙がテーブルに落ちた。


「何いってんだよ。おれ達はたった二人の家族だろ」


「だって、だって……!」

 姉ちゃんは子供のように、両手で涙を拭きながら、鼻をすする。


 おれ達の生活において、一番大きな課題は金だ。

 親の遺産が少しは残っているが、今の主な収入は高卒で就職したばかりの姉ちゃんの給料。

 足りない分は遺産で補っている。

 おれが就職するまで五年半もある。

 正直、心もとない。


 そんな家計のやりくりを姉ちゃんが全部背負っている。

 精神的負担は、おれの想像以上に大きかったんだろう。


√ そんなに金に困っているのか?

 ちらりとダミアンを見て、おれは無言で頷いた。


「姉ちゃん、一緒に頑張ろう。大学に入ったら、バイトを増やして自分の生活費くらい稼ぐから」

 そう言うと、テーブルの上のおれの手を、姉ちゃんの小さな手がそっと包んだ。


「琢磨、ありがとう。お姉ちゃん、頑張るね」

「就職したら、絶対姉ちゃんに恩返しするから」


 すると、姉ちゃんは涙を拭い、にこっと笑った。


「じゃあさ、琢磨が就職したら、一緒に北海道に旅行しようよ」

「北海道……?」


 北海道は両親が亡くなる前、姉ちゃんが大学に合格したら家族旅行をしようと計画していた旅行先だ。


「だめ?」

 姉ちゃんが小首を傾ける。


「いいよ、行こう、北海道旅行」

「約束だよ、琢磨」


 おれは頷いた。

 そして、涙に濡れながらも嬉しそうに笑う姉ちゃんを眺めていた。


 ピンポーン


「たっくん、お祭り行こっ!」


 自室で財布の中身を確認していると、心優の弾むような声が玄関から聞こえた。


「きゃぁ、みゅうちゃん、すごく可愛い!」

 姉ちゃんの興奮した声も重なる。


「じゃぁ、行こうか」

√ うむ。


 ルナの姿のまま、押し入れでパソコンを弄っていたダミアンが、床へ飛び降りておれの後ろを小走りで追いかけてくる。

 階段を下りると、おれは思わず息を呑んだ。


 そこには、ベージュ地に赤い花柄の浴衣を纏った心優が立っていた。

 赤い帯が心優の雰囲気にぴったりで、どこか華やかさを添えている。


 それに、ほんの少しだが薄く化粧をしているみたいだ。

 いつもと、雰囲気が違う。


√ ほう。


 おれはしばし見とれてしまった。


 心優は微笑を浮かべたまま、パチパチと瞬きを繰り返しながら、おれを見つめている。


√ おい、なにか言ってやれ。


「えっ、あぁ……」

 心優がおれの言葉を待っているのに気付いて、慌てて口を開く。


「似合ってる、すごく」

 心優がふわりと微笑む。

 でも、どこか納得していないような表情だ。

 微笑のまま小首をかしげている。


√ 違う、可愛いだ。


「あっ、か、可愛い。すごく可愛い!」

 慌てて言い直すと、心優の笑顔が浴衣の花柄のようにぱっと咲いた。


「へへへ、ありがと」

 頬を染めながら、照れながら笑う。


 心優の浴衣姿を見るのは何年ぶりだろう。

 小学生以来かもしれない。


√ どうだ、押し倒したくなっただろう。


「うるさい」

 小声でダミアンを睨む。


√ あの赤い帯を引っ張って、クルクル回しながら浴衣を脱がしてみたいと思わんか? 男のロマンだと書いてあったぞ。


「どこの芸者遊びだよ。お前、時代小説の読みすぎだ」


 こいつ、時々こんなことを言うけど、おれと心優をくっつけたいのか?

 いや、単にからかってるだけだな。


「琢磨、ボーッとしてないで早く行きなさい。みゅうちゃん待ってるんだから」

「あっ、ごめん」


 おれは玄関で靴を履く。


「ななちゃんは行かないの?」

 心優は姉ちゃんとも一緒に行きたがっているようだ。


「えぇっ、行かないよ。おじゃま虫にはなりたくないし」


「邪魔なんて思ったことないよ。ねぇ、たっくん」

 心優の言うとおりだ。というか、おじゃま虫ってなんだよ。


「姉ちゃんも一緒に行こう」

 おれも誘ってみたが、姉ちゃんはにっこり笑って、


「せっかくなんだから、二人で行ってらっしゃい」

 そのまま、抵抗するおれ達を玄関の外へ押し出した。


 カチャ


 あっ、玄関のカギを閉められた。


 カタッ


 ついでにドアガードも……

 おれ達は顔を見合わせた。


「……閉め出された?」

「……みたいだな」


 海馬神社までは、ゆっくり歩いて二十分ほど。


 途中で疲れたと駄々をこねるダミアンを抱えて歩くハメになった。

 小さいくせに、こうして持ち上げると地味に重い。

 おまけに黒くて長い毛がまとわりついて暑苦しい。


「私も抱きたいなぁ」

 隣で心優がぽつりと言う。


 ぜひそうして欲しいが、綺麗な浴衣を着ているのに、このどら猫を抱かせるわけにはいかない。


「毛だらけになるぞ」

 心優は少しの間しょんぼりしたが、すぐに気を取り直して屋台の話題を振ってくる。


「ねぇねぇ、たっくん! 何食べよう? 焼きそば? たこ焼き? りんご飴?」

「全部食えばいいだろ」


 面倒なので適当に返すと、

「おぉ、その手があったね!」

 と目を輝かせながら財布を取り出し、ごにょごにょと小遣いの計算を始める。


 小遣いが足りないんだろうな。


 国道沿いの歩道を進んでいくと、やっと鳥居が見えてきた。

 ダミアンが不機嫌そうに顔を上げる。


√ そろそろ下ろせ。暑苦しい。

 こいつ、神社の中にぶん投げてやろうか。


 ダミアンを歩道に降ろすと、機嫌良さそうにおれ達の数歩先を歩き始めた。


「たっくん、神社で何をお願いするの?」

 心優が問いかけたとき、前を歩くダミアンがギロリと振り返った。


「あぁ、あのさ、今朝バイトが採用されるようにって、向かいの神社にお参りしちゃったから、今日はやめとく」

「えぇ、そうなの。一緒にお参りするの楽しみにしてたのに」


「お前が楽しみにしてたのって、焼きそばやたこ焼きだろ」

 図星だったのか、「むぅぅ」としか言わない。


 すぐに、頬をぷくっと膨らませておれを睨んできた。

 唾が飛んできそうだから、あっち向いてくれないかな。


 一方のダミアンは尻尾を振りながら機嫌良さそうに前を歩いている。

 そんなダミアンだったが、歩道の右側に上り坂が現れると急に立ち止まった。


「ひゃぁっ!」


 突然ダミアンが立ち止まったので、心優が踏みそうになり小さく悲鳴を上げた。


 なんだこいつ。

 様子が変だ。


 ダミアンは坂の上をじっと見つめ、微動だにしない。

 気になって、おれも視線を上げた。


「ひっ」


 紺色の落ち着いた浴衣、長い黒髪。

 そこには、ダミアンと同じように固まっている、美しい少女が立っていた。


「エヴァ……」

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